オモイカネとスクナビコ
オモイカネ……性別の無いヒトリガミであるカミムスビから生まれた最初の神。知恵の神で、アマテラスの命令でニニギノミコトと共に地上に降りて来てその補佐を務めた。
スクナビコ……カミムスビから生まれた三人目の神。好奇心旺盛ないたずら者で、勝手に中津国に下り、オオクニヌシと友になった。
スクナビコは、いつも黄泉に死に戻ると転生したくないと思った。
理由は、かつての友、オオクニヌシが実はスサノオで、大罪故にイザナミを怒らせて怪物に成り果ててしまった為、それを何とかしたいと思っていたからだ。
天津国から下り、地上に来た神でありながら、その記憶を失わないで黄泉で記憶を思い出すのは、スクナビコとその兄であるオモイカネだけである。
ニニギは一度の転生であっと言う間に記憶を失い、もうその魂の在処すら分からない。
そのニニギに付き従い、地上へと降りて来た神がオモイカネである。
かつて、アマテラスとスサノオが大喧嘩をした最に、尽力してアマテラスの機嫌を取る段取りをした事でも有名な知恵の神だが、その温厚な性格と知恵者であると言う点から、ニニギの世話を押し付けられたのだ。
オモイカネは、弟のスクナビコが地上で老人と化している事を妹のチヂヒメから聞いていたが、地上にやって来た。不死性を失う事をオモイカネは怖れていなかったのだ。
オモイカネは疲れていた。天津国の神々は考える事をあまりしない。思索にふけるのに、終わりのない寿命は必要だとずっと思っていたが、自分の考えたくない事を押し付けられて考えるのはもう沢山だったのだ。
そもそも、中津国を産んだ国生みのイザナギとイザナミと違い、オモイカネは、中津国と無縁な神から生まれた。
それなのに、イザナギの産み出した天津神の問題を押し付けられる。
二神で対であるにも関わらず、片方の神だけで神産みなどするから、魂が安定していないのだ。オモイカネは内心悪態を付く。
何も考えず、ただ荒ぶる神々に、オモイカネは調停役を全て押し付けられていた。
だから逃げ出したのだ。
同じ様に切れ者ではあるが、活動的で暇を嫌うスクナビコが、中津国で楽しく過ごしていたと言う事も理解している。面白く無い場所であれば、弟はすぐに帰って来た筈だが、不死を失っても帰ろうと思わない程に、中津国は面白い場所であった様だ。
オモイカネは、良い機会だからニニギに同行してその世界を見たいと思ったのだ。そして、天津国と縁を切りたいと思ったのだ。
特にアマテラス。
もう無理難題を押し付けられるのは嫌だった。女神でありながら、男神よりも荒ぶる魂は、強く恐ろしい上に、関わる者を不幸にする。その不幸の種を取り除き、穏やかな日々を過ごしたいと思っていたが、女神の荒ぶる魂は鎮まる気配が無い。
そこで中津国に降り立ち、ニニギとその子孫の為の国を整えて命を終える事にしたのだ。
もっと中津国を見てみたかった。
オモイカネはそんな事を思いながら黄泉に下った訳だが、そこには思いがけず、弟のスクナビコが居た。
「兄者」
駆け寄って来た魂は若々しい少年の姿で、オモイカネは呆れたように弟を見た。
「お前と言う奴は……俺とチヂがどれだけ心配したと思っているのだ」
「いや、中津国は面白い場所で、ついつい。兄者も楽しかったのでしょう?」
顔をしかめつつも、否定できないオモイカネにスクナビコは言った。
「イザナミ様の許可を得て、兄者に黄泉を案内するまで転生を待っていただけました。だから、私が案内させていただきます」
オモイカネはニニギの身勝手に振り回されながら国造りをした訳だが、特にそれで傷ついた訳では無いから、魂はここで癒す程の事も無かった。
弟も同じなのだろうと思いつつ、人の魂がイザナミの作った黄泉の国でどうやって癒されて行くのかを知る。
そしてすぐに穢れの正体に気付き、困惑する事になった。
「これでは、黄泉に捨てられた感情が溜っていく一方ではないか。それも負の感情ばかり。浄化する方法を考えねば、ここは……」
「兄者」
スクナビコは真面目な表情で言った。
「本来、イザナミ様の受け入れた不浄は、夫であるイザナギ様が浄化すべき役割だったのにイザナギ様が離縁して天津国に留まった事でこうなっています」
怨嗟のしみ込んだ大地にイザナミは苦しみ、それでも人々の為にそれらを受け入れている。
この死者の国が崩壊するまでに、そう時間はかからないだろう。
「イザナミ様は、どうされるおつもりなのだ?」
スクナビコは少し暗い表情で、ある場所に兄を案内した。そこには、見上げる程の大蛇がとぐろを巻いて黄泉平坂の方を向いていた。
オモイカネは絶句してから、ようやく弟に聞いた。
「この大蛇は?」
「スサノオです。私の友だったオオクニヌシでもあります」
「何故、この様な姿に」
スクナビコは、スサノオが中津国に降り立ってから、知らないままに行ってしまった事について語って聞かせた。
「イザナミ様の切り札を壊してしまった報いか……」
オモイカネは大蛇を見据えて考える。
魂はアマノムラクモの力を得てかつての荒々しさを失っている。姿こそ穢れで作られた化け物の姿ではあるが、中の魂は神として完全に調和の取れた姿だった。かつて、国生みでイザナギとイザナミが共同で生み出した神と変らない。
これがアマテラスの魂であれば、天津国は穏やかで住みやすかったであろうに。
さんざんアマテラスに困らされたオモイカネは、心底そう思った。
「スサノオがかつての姿を取り戻すには、イザナギ様の不死を止め、黄泉へ連れて来るしかありません。兄者、何とか出来ないでしょうか」
オモイカネは大きなため息を吐いた。
天津国での無理難題に閉口して下って来た黄泉で、未だかつてない難題を与えられたのだ。
「俺がこの無理な願いを聞く事で、得られる物でもあるのか?」
スクナビコは、にっこりと笑った。
「大きな満足です」
オモイカネは眉間に皺を寄せる。
「スクナビコ……」
「このままでは、黄泉の穢れは溢れて、中津国は滅びて黄泉と変らない死者の国になるでしょう。その穢れは天津国の神々にも払えない程の瘴気と化して天津国に届き、この世界は、神々も含めて暗闇の混沌と成り果てるでしょう。次に生まれる神と世界は、今とは比べ物にならない程に禍々しいものになります」
スクナビコの予測は、オモイカネの予測と一致する。二人の知恵の神の予測が一致すると言う事は、そうなると言う事だ。
「俺達が滅びた後だ。どうなろうが関係無い」
「でも、スサノオを元の姿に戻し、黄泉、中津国、天津国の全てを大きく変えてこの世界の均衡を維持させる事が出来たとしたら?それを眺めていられるとしたら?」
スクナビコはオモイカネの好きな事を熟知している。
オモイカネは思索にふけり、その結果、自分の出した結論が正しいかどうか、検証するのが好きなのだ。
気分ですぐに変るアマテラスの機嫌を取る様な無理難題とは違う。正にオモイカネのやりたい事に合致する。
思索にも検証にも長い時間がかかる。これ程、オモイカネの興味を刺激する難題はこの世界に無い。今を逃せば、考えて検証する機会を失う。
オモイカネは暫く顎に手を当てて考えた後、ぽつりと呟く。
「俺の記憶はどうなる?」
転生で失われては、思索も検証も途切れてしまう。それではオモイカネの望みに沿わない。
スクナビコは、にんまりと笑った。
「イザナミ様と契約をするなら、記憶は失われません」
「お前、最初からこうなると分かっていて、説得役を買って出たな?」
「勿論です。オオクニヌシに転生していたスサノオには恩があります。中津国の楽しさを教えてくれた大切な友です。元の姿に戻したいのです」
「情の深い所は、お前らしいな」
スクナビコは、表情が豊かで、兄にも姉にも良く懐いた。
神らしくないとすまし顔の物実の神には言われたが、人懐こい笑顔の弟を、オモイカネもチヂヒメも贔屓にしていた。だから、行方知れずになった時には、二人共心配したのだ。
「兄者は一度引き受けた事は投げ出さない。だから引き受けてくれれば、絶対にスサノオは元に戻るし、世界は続くと信じています」
目を輝かせ、全幅の信頼を寄せて来るスクナビコに、オモイカネは苦笑した。
「俺をその気にさせるのが相変わらず上手い奴だ。いいだろう。……その代わり、手伝ってもらうぞ?楽しい事ばかりではないだろうが、耐えられるか?」
「このスクナビコ、苦境から喜楽を見出す才は十分にあります故、ご安心下さい」
アマテラスと一緒に居るよりも、イザナミと契約して、この弟と共に世界の存亡について取り組む方がずっと良い。
静かに何も語らない大蛇を、哀れに思ったのも事実だ。
オモイカネは、こうしてイザナミの眷属として契約を結び、この世界の存亡について、己の知識を総動員して、弟と共に戦う事を決意した。
『我は狂い始めている。カグツチは認めないが、そなたは分かる筈だ』
オモイカネの前に幻影として現れたイザナミはそう告げた。
『カグツチは、我を死なせ、イザナギも死なせる役目を負っていた。国産みの終わりを告げる神だったのだ。元々、そう言う役目を持っていた。腹に宿った時から知っていた。あれに罪など無い』
オモイカネは理解する。
カグツチが生まれる事によって、イザナミは死に、その後を追ってイザナギも死ぬ。そして、黄泉の国は二柱の神によって、穢れを受け入れ浄化する場所と成る。人の魂の故郷として、完成する筈だったのだ。
国生みの神は、本来中津国と黄泉の神だ。その国生みで生れた神が、オモイカネ達の居る天津国へ渡って来て支配をする。それ自体がおかしかったのだ。
「イザナギ様が、運命に抵抗した事が、歪みの原因と言う事ですか?」
『そうだ。自分が死なず、我が子を斬った事は、中津国の理に反する。子を殺した時点でイザナギこそが大罪を背負い、狂ってしまったのだ』
次の世代を残し、死ぬのが親だ。
その理に逆行し、不死となり、地に下らず天へと昇った事で理は更に歪み、イザナギは既に狂気の域に達している。
『我らは離縁しても対の神だ。片方が狂えば、もう片方も狂う。これは避けられぬ定めだ』
近い内に、イザナミの意識が存在している黄泉の国は失われる。そうなれば、黄泉平坂で留められている穢れは外へと流れ出るだろう。
「イザナギ様を黄泉へ連れて来れば、元のあなたに戻るのですか?」
イザナミの幻影は目を伏せた。
『もう少し早ければ、魂を残せたかも知れないが、歪み切ってしまった今となっては、我もイザナギも元に戻れない』
スサノオが退治してしまった大蛇が、最初で最後の切り札だったのだ。
オモイカネは渋い表情でイザナミの幻影を見た。
「では、あなたはどうなるのですか?」
『イザナギが黄泉に来れば、ただの力と成って、黄泉に留まる事になるだろう』
つまり、魂の循環する場所の機構へと成り果て、イザナミもイザナギも消滅すると言う事らしい。
イザナミの魂は消える運命にある。
分かった上で、ただ自分の産み落とした世界の存続だけを願い、オモイカネにそれを託すと言っているのだ。
オモイカネはその気持ちに深く感銘を受け、その場に跪いた。
「分かりました。私の力の全てを掛けて、この世界を守ってみせましょう」
イザナミの幻影は、ふわりと笑ってオモイカネの額に触れると、すっと消えた。オモイカネは、自分がイザナミの眷属の神に変化したのを感じる。
「なぁ、スクナビコよ」
オモイカネは立ち上がると弟に語りかけた。
「中津国は美しいな。あの国を壊すのは簡単だが、存続させるのは大変な事なのだな」
「そうですね」
「しかも、全てを救う事は出来ない。犠牲を払う事も必要になって来る」
オモイカネは、中津国の多くの魂が、イザナミの狂気による消滅に巻き込まれる事を予測してため息を吐いた。
イザナギがすぐに黄泉に下ってくればそれで済むのだが、それだけの事が、とてつもなく難しい。
「それでも、やらねばならない。我らが女神の為に」
天津神としてアマテラスをそう呼ぶのは絶対に嫌だったが、眷属となった今、イザナミの事は自然にそう呼ぶ事が出来た。
スクナビコはにっこりと笑って言った。
「はい。お供します」