スサノオとクシナダ
スサノオ……イザナギが黄泉の穢れを祓う際に産んだ神の人柱で、アマテラスの弟。イザナミに憧れを抱いており、アマテラスと袂を分かち、中津国に降り立った。
クシナダヒメ……ヤマタノオロチと呼ばれる大蛇に食べられる運命にあったが、スサノオに妻に望まれ、オロチは退治された。
オオクニヌシが黄泉平坂を下り、スサノオとしての記憶を取り戻して真っ先に向かったのは、イザナミの祭壇だった。
オオクニヌシとして転生をする最に、彼は約束をしていた。誓約と呼ばれる神の交わす契約だ。相手はイザナミだ。
イザナミの提示した条件は、子孫を繁栄させ、国生みの神々の末裔を中津国に多く残す事だった。
八人の妻を娶り、大勢の子供を残した彼は、アマテラスの要求を呑んで中津国の主導権をニニギの子孫に譲る段取りも整え、全てを見守った末に黄泉へとやって来た。
そこには、巨体の怪物も立っていた。カカビコだ。
カカビコは穢れに満ちた肉体の中に、神の魂を宿し、永遠に黄泉を見守る咎神だ。
スサノオの生まれるきっかけを作った兄神でもあるのだが、怪物と化した姿は、何度見てもスサノオに違和感を与えるものだった。
内面の魂が、余りにも美しい輝きを持っていたからだ。
確かに親神の仲違いの原因を作った事は罪ではあるが、荒魂と呼ばれる男神の持つ荒々しい部分を完全に制御している。国生みで生れた中津国の神の特徴だ。男神も温厚で、それでいていざと言う時に力を振う事の出来る強さを持っている。かつてのスサノオが持っていなかったものを生まれつき持っている。
アマテラスが太陽の神である様に、カカビコは本来、カグツチノミコトとして、火を司る神と成る筈だった。その力は相当に強い。
アマテラスはその力を持て余し、力に翻弄され女神の特性を失ってしまった。スサノオも荒魂を制御する事は出来なかった。イザナギのみの力で生れた弊害だ。
それ故にスサノオは、地上へ下りてすぐ、大きな失敗をする事になってしまった。
イザナミはかねてから、ツクヨミを救う手段として天津国に黄泉の穢れを持ち込む事を考えていた。
天へと昇る事の出来ないイザナミは、その役目を自ら育てた怪物により行おうとしていた。
イザナミは自分の現世での手足として、アシナヅチとテナヅチと言う人に良く似た形代を作り上げ、地上へと遣わした。
アシナヅチとテナヅチの事を周囲の人々は夫婦であり、呼び名を名前だと思っていた。しかし、その意味はイザナミの手足と言う意味で、決して魂を持ちうる名前では無かった。単なる役目だ。だから、魂を持たない。
形代である二人を地上へと出す際、イザナミは細心の注意を払った。この二人が天津国の神々に存在を知られてはならないからだ。二人が地上に出た事は、当時のカカビコも知らない事だった。
夫婦と言う偽装をし、黄泉の物品を携えて現世に出た二人は、それを土に埋めた。
一年に一個ずつ、イザナミが定めた土地へ。
一年が経つと、埋めた場所から一人、また一人と、黄泉の物品を魂の代用品にして、美しい娘達が産まれた。全て、死ぬときにイザナミが身に着けていた品々だ。
アシナヅチ、テナヅチとは別の使命を負った娘達が誕生したのだ。
最初の娘は自らの穢れの力で蛇の卵を孵した。その後に産まれた娘達も、自分の穢れを注いで、その蛇を育てた。
蛇の体はやがて巨大になり、頭が裂けて八つになった。
全ての穢れを蛇に与えた娘達は、最後には自分の本体である黄泉の物品と、それを元に出来た肉体を蛇に差し出した。
最後の娘がその身を差し出せば、八ツ首の大蛇には翼が生え、天津国のイザナギの元へ飛び去る事が出来た。
この大蛇はアマテラスの太陽の光で焼ける事の無い強靭な生命力を持ち、触れれば天津国の神々はたちまち穢れる。それは不死を失う事を意味する。
この穢れにイザナギが触れる事で、イザナギは死を得て、ツクヨミは永劫の苦しみから解放される筈だった。
イザナミの櫛から生まれた、クシナダヒメは、この大蛇に最後の仕上げをする娘だった。
在りし日のイザナミの姿を映した姿は美しい。しかしそんな自分の姿に、クシナダは自分の存在意義を見出していなかった。
後はこの命を捧げるのみ。クシナダの心はそれで一杯だった。
そんな場所へ、スサノオが降臨した。ほんの少し別の方向へ向かって歩いて居れば出会わなかった筈なのに、二人は出会ってしまった。スサノオは、一目でその姿に恋情を抱いてしまう。
クシナダは世話をしていた大蛇を、慌てて少し離れた山奥へと逃しスサノオを家に連れ帰った。
しかし、形代であるアシナヅチ、テナヅチも、どうしてよいのか分からなかった。
天津国の神であったスサノオに、地上で怪物を育てている事を悟られてはいけない。しかし、もうすぐクシナダの全てを差し出す事で大蛇は完成する。
スサノオはクシナダを欲しており、荒魂を持つ天津国の傲慢な神であるが故に、クシナダが手に入らない事など微塵も考えていない。
アシナヅチもテナヅチも、一度きりの命令を体に刻み込み、この世に出て来ただけだから、イザナミに救いを求める方法を知らない。
クシナダもそれは同じだった。しかし、魂の代用品としてイザナミの櫛をその中に抱いた物実の娘だ。形代の二人よりも考える事は出来たものの、この様な窮地は想定していなかった。
イザナミに対し強い憧憬の念を抱いているスサノオの、クシナダに対する恋情と執着は並々ならないもので、クシナダは思案する事すら許されない程の強い言葉で、求婚を迫られる事になった。
クシナダにとって、全てはあの大蛇の為にある。スサノオに与える物など一つも無い。
地上に降りたとは言え、清廉な空気を纏って近づいて来るスサノオに、クシナダは恐怖した。
全ての穢れを大蛇に与えなくてはならないのに、この神の妻になれば、内部に残る穢れは大蛇に与える事が出来ないまま浄化されてしまう。それでは大蛇は飛び立てない。
ほぼ完成している大蛇。空を飛ぶ事が出来ないだけで、天津国の武器では倒せない。この大蛇にスサノオを穢させ、神の力を奪えばいい。そうすれば無力な男に成り果て、威張る事も婚姻を強要する事も無くなる。
クシナダはそう結論付けて、アシナヅチ、テナヅチと共に、一芝居打つ事にした。大蛇によって姉達は食われ、自分も食われるのを待つ身なのだと。
スサノオは当然、その大蛇の討伐を申し出た。倒した暁には、クシナダを妻にすると言う条件で。
当然その流れになる事をクシナダは予想していた訳だが、スサノオは大蛇退治の為に、信じられない物を持ち出したのだ。
神酒を用意する所までは良かった。準備したのはただの酒だったし、大蛇は空へと飛び立つ力を蓄える為、休眠している時間が長かった。酒に酔わずとも眠っている時間が多かったのだ。
硬い鱗に覆われた体は、穢れに弱い天津国の剣で傷つける事など出来る筈が無かった。しかし、ここで誤算が産まれた。
アメノハバキリ。スサノオはそう言って剣を抜いた。その剣は禍々しい雰囲気を漂わせていたのだ。
何故その様な剣を持っているのか問い質せば、スサノオは隠す事無く告げる。
スサノオは地上に来てすぐに空腹を満たす為、国津神の穀物神であるオオゲツヒメに食事を求めた。
オオゲツヒメは豊穣を司る女神で、黄泉に行かずに中津国に残る為、大地に同化しかけていた。その為、食材を取り出す姿が、体内から吐き出す様にスサノオには見えてしまった。
吐き出した物を食べさせられたのだと憤ったスサノオは、オオゲツヒメの言い分を聞く事無く斬り殺した。オオゲツヒメの魂は黄泉へと下り、肉体は穀類へと変化してその場に散乱した。
カグツチの斬られた時代と違い、神の体から新たな神が生まれる事は無かったのだ。それ程に地上の神気は薄れていた。しかし、神の力は残っている時代でもあった。
アメノハバキリには無償で食事を与えたにも関わらず、いきなり斬り殺されたオオゲツヒメの強い怨嗟が纏わり付いていたのだ。
国津神の強い怨嗟を纏った剣であるアメノハバキリは、清浄な剣では無かった。魔剣と化していたのだ。
オオゲツヒメの怨嗟を前に、大蛇は全ての首を掻き切られ、飛び立つ事は叶わず死んでしまった。
クシナダは自分の策が失策であった事実に絶望し、肉体を失い櫛に戻ってしまった。
アシナヅチとテナヅチも、使命に失敗した事を見届け、その場で朽ちて消えた。
荒ぶる魂のままに、絶命した大蛇を切り刻んでいたスサノオは、尾を切断しようとして動きをようやく止めた。
尾の中には、アメノムラクモが入っていた為、アメノハバキリの刃が欠けたのだ。
そこで我に返ったスサノオが振り向けば、アシナヅチもテナヅチも居なくなっていて、櫛が一つ落ちているだけだった。
アメノムラクモは、イザナギが死を得た末、大蛇が消えた際にその場に残り、太陽神であるアマテラスの荒魂を鎮める役目を持つ水の剣だった。
女神でありながら、大きく荒魂に傾いたアマテラスの魂を安定させる為、イザナミが和魂を与えようと用意したものだった。
アメノムラクモを手に取る事により、スサノオはイザナミの真意を知り、自分が全てを台無しにしてしまった現実を知る事になった。
同時に、アメノムラクモはスサノオの荒魂を鎮めてその力を失う事になった。
何もかもが、自分の傲慢な行いの末に起こった事である事実にスサノオは苦しみ嘆き、イザナミに許しを乞うた。
しかし、イザナミは答えなかった。
現世から持って黄泉に下った際に身に着けていた装飾品を、櫛以外失った為、もう同じ事は出来ない。イザナミは多くの力を失った挙句、絶望していたのだ。イザナミには眠りが必要だった。
イザナミの持ち物であるクシナダも、スサノオがどれだけ願っても櫛の姿から元の美しい女人の姿には戻らなかった。
黄泉へと下り、スサノオはカカビコに事実を語り、イザナミへの取りなしを求めた。
「母上は答えまい。力を使い果たし眠られている様だ。我の声にも答えが無い」
カカビコの答えに、スサノオは更に打ちのめされる事になった。
スサノオは人の理に入り、転生しながら己の神力をイザナミに差し出す事で贖罪を果たそうと、幾度も転生をした。
そしてようやく得られた誓約が、多くの子を地上で成して来る事で、黄泉に永住し、クシナダを妻とする事が出来ると言うものだった。
それによりスサノオが転生した姿こそオオクニヌシだ。
スサノオは幾度転生しようとも、クシナダに対する強い執着を失わない。現世では記憶を失っているが、黄泉に死んで戻る都度思い出し、櫛のままのクシナダに会いに行くのだ。
クシナダは、イザナミの祭壇に保管されているが、一度として人の姿に戻った事が無い。
名前を得て魂を持ってしまったクシナダは、自分のせいでイザナミの計画が壊れてしまったと言う事実に打ちのめされている。
人として肉体を持ち、動いた結果、取り返しのつかない事をしてしまったと考えているので、人の姿を取りたいと思っていない。
だから転生を望まず、イザナミの聖域から出ないで櫛のままで居続けているのだ。
スサノオに対しては、憎悪に近い感情を抱いている。どれだけ妻に望まれても、決してその心を開こうとしない。
カカビコの前では姿を現し、スサノオが黄泉に来ても近づけないで欲しいと願うばかりだった。
オオクニヌシとして誓約を果たしたスサノオは、そんなクシナダを妻と出来るのだと信じ、イザナミの祭壇へと向かった。
スサノオの神力を得て力を取り戻し、サクヤとイワナガと言う眷属を作り上げたイザナミは、目を覚ましてスサノオの前に幻影として現れた。
それはクシナダを思い出させる姿で、スサノオは息を呑んでから言った。
「母なるイザナミよ。我は誓約を守り、子を多く成し、中津国を潤わせた。約束の通り、クシナダを妻として黄泉に私を置いて下さい」
イザナミは笑った。
「スサノオよ。願いを叶えてやろう」
スサノオはその言葉と同時に己の姿が大きく変化していく事に気付いた。
体が大きく膨れ上がり、手足が落ちて、頭が八つに割れていく。スサノオの姿は、かつて切り刻んだ大蛇と同じ姿になっていた。
あまりのおぞましい変化に、見ていたカカビコは目を逸らした。
惨い仕打ちは目に余るものだった。
「カグツチも罪故に怪物の姿で黄泉に留まっている。お前も罪を持つなら黄泉ではその姿がふさわしかろう」
祭壇に置かれた櫛は、イザナミの幻影が軽く手を触れると、淡い光と共に宙に浮かび上がり、黄泉平坂へ向かって飛び去った。
「約束が違う!」
スサノオの言葉に、イザナミは凍り付く様な冷笑で応じた。
「違えてはいない。クシナダはそなたがその姿で黄泉に居る限り、そなたの妻だ。幾度転生しようとも、誰とも婚姻を果たす事が叶わない。追いかけてそなたが転生すれば誓約は壊れ、クシナダはそなたの妻では無くなる。……現世で出会えなければ、クシナダは誰かと契る事になるだろう。そなたが多くの女にした事と同じ事を他の男にさせる事になる。そなた、耐えられるのか?」
スサノオは、オオクニヌシとして大勢の子を成す為に何人もの妻を持った。
誰かの妻の一人として、クシナダが子を成すのだと考えると、スサノオはおぞましい怪物のまま、クシナダの魂が黄泉に戻って来るのを待つしかない。
幾度転生しても失われない強い執着故に、クシナダを諦められないのだ。
「既に使命を与えた魂に新しい使命を与える事は出来ない。クシナダは、果たせなかった使命の記憶を抱いたまま、そなたの妻として転生を繰り返す魂と成ったのだ」
クシナダは黄泉に戻る都度、自分の使命を思い出し、怪物であるスサノオを憎悪して避けるだろう。
誓約は守られているが、スサノオは完全にイザナミに騙され、報復を受けた事になる。
「今後はカカビコと共に、黄泉をツクヨミの落涙から守るが良い。あの落涙さえ止まればそなたの罪は消える。元の姿に戻り、クシナダに許されたいならば、その大蛇の果たせなかった使命を果たす事だ」
イザナミはそう告げると祭壇から消えた。
泣き叫ぶ様な大蛇の咆哮が祭壇に響き渡り、カカビコはそれを見ているしか無かった。
ヤマタノオロチ。
スサノオが中津国でそう名付けて討伐した怪物は、今やスサノオの姿と成った。
スサノオは巨大な体を黄泉平坂の近くに置き、灼熱の落涙から黄泉を守る様になった。
クシナダの魂が戻って来るその瞬間だけを一縷の望みにして。