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黄泉平坂物語  作者: 川崎 春
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サクヤとカカビコ その1

 イザナギとイザナミは、国生みで、中津国と呼ばれる国を生み出した夫婦の神だ。

 その二柱の神が、国産みの末、イザナミの死をきっかけに仲を違え、離縁して久しい。

 イザナミは大勢の神を産んだが、最後の出産時に大怪我をして命を落とし、地下にある黄泉の国へと移り住んだ。

 それは、天を離れ、現世と呼ばれる地上世界に中津国を作った時からの、神も逃れられない定めだった。

 イザナギは、死んだ妻を恋しく思い、生きたまま死後の世界まで追いかけて来た。そして、醜く腐敗した妻を見て逃げ出した。

 イザナミはそれが許せなかった。

 元々死んだ者の魂は、一度黄泉平坂を下り、腐敗する事で穢れを落とし、穢れを落とし終えたら再生して地上に戻っていく事になっていた。

 神であるイザナミとイザナギも、黄泉で神の力を徐々に失い、やがては人になる事が決まっていたのだ。

 イザナギは恐れをなして、その定めに抵抗を始めた。

 国生みの際の取り決めを破って天に戻り、中津国を放り出し、高天原と呼ばれる、天の国へと逃げ帰ったのだ。

 しかし、国生みの際の契約を破ったイザナギには、呪いがかけられた。

 彼がイザナミの元から逃げ帰り、黄泉の穢れを落とす際に生み出した子供達は、彼の思い通りにはならなかったのだ。

 女神アマテラスは、自らの腹を痛めて子を産む事の出来ない体で、征服欲が強く、戦を好んだ。

 弟である男神スサノオは、イザナギから男神としての強い力を継ぎながらも、イザナミへの強いあこがれを持ち、反抗的だった。

 ツクヨミは月の満ち欠けで性別が変わる特性を持ち、それを恥じて、神々の前に姿を現さない。

 イザナギは、自分の力で産み出した子供達を見て、一人では望む様な神を生み出せない事に気が付いた。

 しかしイザナミと離縁する際に、イザナミが千人殺すなら、千五百人を生み出すと言ってしまった。

 これが出来なければ、離縁は成立しない。

 そうなれば、取り決めを守れないイザナギが、黄泉の国のイザナミの元へ、強制的に向かわされる事になる。不死を失い、死ぬ事になるのだ。

 イザナギはその事実に恐怖し、高天原の統治をアマテラスに任せ、ツクヨミを伴って離宮に籠った。

 イザナギは中津国が夜になると、ツクヨミを剣で傷つけた。ツクヨミの血は人の魂と成って、中津国に降り降り注ぎ、イザナギの言霊を守る要となった。

 ツクヨミの血からは、満月には男だけが、新月には女だけが産まれ、半月には、男と女が半々に産まれた。

 ツクヨミは、天津神として天に居る限り不死で、死ぬ事が出来ない。次の日の夜までに、体は治ってしまう。

 毎晩の様に父神に傷つけられ、ツクヨミは泣きながら、母であるイザナミへ救いを求めた。

 天津神であるツクヨミの涙は、灼熱の光となって、黄泉の国へと下り落ちた。

 一方、イザナミはイザナギと離縁したが、イザナギが死んで黄泉に下って来ない為、人に転生できず、神として黄泉に留まる事になってしまった。

 二人で守らねばならなかった定めをイザナギが破った為、呪いはイザナミにも降りかかったのだ。

 イザナミの魂は、黄泉の大地に取り込まれ、黄泉の国そのものとなってしまった。

 ツクヨミの助けを求める声を聞きながらも、イザナミは何も出来ない。

 ツクヨミの涙は、天の高い温度のまま、黄泉の国へと転がり落ちて来る。

 黄泉の住人達は、その輝く涙によって、火傷を負い、大きく傷つけられる事になった。

 黄泉で安らぐ人の魂を守る為、イザナミは、その形代(災厄を受け止める人形)として、黄泉の国に怪物達を置く事にした。

 イザナミは、ツクヨミを救い出し、イザナギを止める為に、黄泉を訪れる人の魂に細工をする事を考え始めた。

 暗い黄泉の国は高天原からは全く見通す事が出来ない。そんな闇の中で、イザナミは、ひっそりと、準備を進める。

 長い、長い、時間をかけて。

 国生みから時間が経過し、神の子達は産み増えて、六世代程後の世代となった。

 中津国は、国生みの頃に満ちていた神気がすっかり薄れ、神々は、人と大きく変わらなくなって来ていた。

 そんな頃、天から中津国の統治権を求める使者がやって来た。

 当時、中津国を治めていたオオクニヌシは、高齢であり、争い事を嫌っていたので、あっさりと統治の権利を天へと委譲した。

 これには、深い事情があった。

 天津神が、この土地で特別で居られる時間は少ない。高天原の濃密な神気で維持されていた神力は、中津国の大気によって失われる。

 不死で時間の感覚に疎い天津神は、その事を認識せずに、征服しようとやって来ている。

 オオクニヌシは、それを知っていた。

 彼がまだ若い頃、スクナビコと言う天津神が、天から下りて来た。スクナビコは、興味本位で中津国を見に来たと言う変わり者だった。

 オオクニヌシは、悪戯と酒が大好きなスクナビコとすぐに友人となり、あらゆる知識を交換し、その知識を人々に授ける事で国を治めた。

 スクナビコは、今もこの中津国に居る。彼は天から来た時には少年の姿をしていたのに、今ではすっかりオオクニヌシと変らない老人になってしまった。

 スクナビコ曰く、少年の姿は生れながらで、中津国に来るまで、変わらなかったと言う。

 スクナビコはその変化を嘆かなかった。

「死んだら、黄泉へと下れるな。それは楽しみだ」

 物好きな天津神は、老人に似合わない悪戯っ子の様な笑みを浮かべ、今も人々に知識を残すべく、書物を書いている。

 オオクニヌシは、側で見ていただけでなく、スクナビコ自身が、天津神の変化について、細かく推測と記録をした書物も読んでいる。

 だから、天から下った天津神の運命を知っていたのだ。

 しかし人が多く生まれ、争いが頻繁に起こり始めた中津国には、争いを平定する強大な支配者が必要だとも思っていた。

 やがて人と変らなくなるにしても、強い信仰心を集める事の出来る者を据え、争いを減らすべきだと考えていたのだ。

 オオクニヌシはスクナビコの知恵を借りて国を治めていた。しかし、スクナビコも自分も死ぬ。その後、自分の息子達がどうなるのか考えて思い悩んでいたのだ。

 ツクヨミの血から生まれた男の魂は、攻撃的で戦を好む者が多い。満月に産まれる男達はとても強いが、その攻撃性を抑える術を身に付けない。

 黄泉で過ごして転生を繰り返す事で攻撃性は薄れていくとスクナビコは推測していたが、それを待てない程の勢いで攻撃的な男が増えている。

 国生みで生れた神の血筋に、ツクヨミの産み出した魂は入って来ていない。イザナミがそれを阻んでいる事は、まだ残っている神の力で知っている。その為、穏やか過ぎてその攻撃的な性質を抑え込めない。

 オオクニヌシは、天から譲渡を迫る為に下りて来たタケミカヅチにこの事情を全て話し、スクナビコと面会させた。

 タケミカヅチは最初は強硬な態度だったものの、スクナビコを見て愕然とした。

「この事を知れば、誰も中津国へは下りて来ない。しかし、アマテラスには逆らえない。どうすれば良いのだ」

 自らもここで長く過ごせば只では済まない事を悟り、タケミカヅチは慌ててオオクニヌシとスクナビコと相談をして、今後の事を取り決めた。

 タケミカヅチは神力を失う前に天へと戻り、オオクニヌシと打ち合わせた通りに国を譲り受けた事を、アマテラスに報告した。

 オオクニヌシは天津国の神に恐れをなして、大きな社を建てる事を条件に中津国の統治権を、天津神へと譲った。そうタケミカヅチは告げたのだ。

 社はスクナビコが書いた書物と彼自身を、天から来る神から隠す為のものだった。

 タケミカヅチに頼まれたのだ。不死を失うと言う事実をこの地へ統治に来る神に、暫くの間、伏せて欲しいと。この地に留まる事が、流刑である様に思わせてはならないと。

 タケミカヅチは中津国では天津神が神力を数年で失い、老いて死ぬ定めである事をスクナビコの姉であるチヂヒメにだけ打ち明けた。

 天津国を下ったきり、戻ってこない弟を見かけなかったかと、訪ねて来たからだ。

 チヂヒメは、タケミカヅチの話に衝撃を受けた。しかしこの事実を誰にも告げてはいけないと悟り、口を閉ざした。

 高天原と呼ばれる今の天の主神は、アマテラスである。とても強い女神で、支配欲も強い。誰も歯向かう事は出来ない。

 不死を失うのは恐ろしいから行きたくない、などと言ったところで耳を傾けるとは思えない。

 チヂヒメは、アマテラスの子であるオシホミミの妻でもある。オシホミミは、中津国に遣わされる予定になっていた。

 オシホミミが行くのであれば、妻の自分も共に地上に行かねばならない。

 彼女はオシホミミとの間に一人の息子を産んでいたが、夫と相談し、再度子を産む事にした。

 天津神の不死性をあまり理解していない、最も幼い神に、その役目を担わせる為に。

 そして、ニニギが生れた。


 オオクニヌシが中津国を譲った後、ニニギは支配者として降臨した。

 コノハナサクヤヒメ、サクヤは、そんなニニギに花嫁として差し出された。

 それは地上に国生みで生れた神の子孫からニニギへ、中津国で生きる為に足りない力の補助を申し出るものだった。

 オオクニヌシとタケミカヅチが話し合った際、スクナビコが中津国の女との間に、子を設けられなかった事が問題になった。

 そこでオオクヌヌシは、黄泉に居るイザナミに祝詞を捧げて許しを乞い、女児に異能を持たせる事にした。

 転生してくる魂に、イザナミの力を分けてもらうのだ。

 それは黄泉で捨てた神の力を、再度人に宿すと言う非常に危険な行いだった。天地開闢の理を破るものだった。

 祝詞を捧げて生まれた双子の女児を見て、オオクニヌシは自分の犯した罪の大きさを知り、涙を流した。

 オオクニヌシの目には、魂が壊れるまで決して消えない異能が宿っているのが見えたからだ。

 この子達は、呪われてしまった。何度転生しても、異能は消えない。

 それを嬉し泣きだと思った両親に名づけを頼まれ、オオクニヌシはその異能が最大限に発揮される名を付けた。

 そして天からやって来る次の支配者たる神へ、花嫁として捧げよと命じた。

 双子の内の妹がサクヤだった。

 サクヤには、繁栄の力が与えられていた。

 天から来たニニギの子を残す力を補う異能だった。

 ニニギは、物実ものざねと呼ばれる、物を元にして生まれた父神、オシホミミの特性を強く受け継いでいる。

 アマテラスの身に着けていた勾玉から生まれたオシホミミもそうだが、物実の神は、子を残すと言う事に、殆ど興味を持たない。

 オシホミミは、一人は義務として子を成したものの、それ以上の子を成す事は考えていなかった。

 しかし、妻であるチヂヒメから中津国へ下りた天津神の運命を知り、恐れおののいた。

 オシホミミはその役目を任される事になっていたからだ。

 このままでは、老いて死ぬ事になる。

 夫婦は結託し、もう一人子を設け、中津国へ降りる役目を押し付けた。それがニニギだ。

 ニニギはオシホミミの特性を引き継ぎ、女に全く興味が無かった。

 天界の女神と違い、優しくたおやかな姿でニニギの関心を引き、人と同じ様に子を設けさせる為にサクヤは用意されたのだ。

 イワナガヒメ、サクヤの双子の姉も、共に花嫁として差し出された。

 イワナガは中津国の薄い神気をかき集め、ニニギに与える異能を持っていた。そうする事で、ニニギの寿命を延ばそうとしたのだ。

 しかし、ニニギはイワナガを醜いと拒絶した。

 実際には双子で、容姿はほぼ同じだった。違うとすれば、持って生まれた異能と性格の差だ。

 サクヤが大人しく従順だった一方で、イワナガは神気を集める強さを、身の内に秘めていた。それ故に気位が高く、人に負ける事を酷く嫌った。

 それは夫となるニニギにも向けられて、自分の異能がニニギの命を握っているのだから、ニニギは自分を敬うべきだと思っていた。

 そして、それを口に出して言ってしまったのだ。

 ニニギは、その意図を知り、その態度を醜いと罵り、自分の支配下に置けるサクヤだけを花嫁に選んだのだ。

 命令でこの土地に来たものの、イワナガの言葉から、どうあがいても自分は女の支配下から逃れられない事を知った。祖母アマテラスの命令に背けずに天から下っても、今度はイワナガが自分を支配する。

 この女に隷属して長く生きるくらいなら、早く死ぬ方が良いと考え、ニニギはイワナガを拒絶したのだ。

 サクヤとイワナガの両親が、どんなに説得しても、ニニギは元々女に興味が無いのだから、気に食わない女を妻にするのは無理だとしか言わない。

 イワナガは、同じ姿のサクヤに劣っているとされた事が納得できず、強くサクヤを憎む事になった。

 結果、サクヤだけがニニギの妻になった。

 繁栄の異能を持っていたサクヤは、間もなく子を身ごもった。三つ子だった為、早産となった。

 ニニギには、一瞬で何人もの子供が出来た様に感じられた。あまりの早さに、ニニギは驚き、我が子であるかどうか猜疑の目を向けた。

 そして産み月になり、産気づいて産屋にサクヤが入ると、ニニギは産屋に火を放ち、自分の子であれば、無事に生まれるとサクヤに告げたのだ。

 燃え上がる産屋で、サクヤは三人の子供を無事に産み終えた。

 サクヤは無傷で出産を終えた。確かに、出産するまでは、炎に焼かれても無傷だったのだ。

 ニニギの血を引く三人の子供が、自分達の神気を高め合い、胎内にある間は、天津神と同じ様に、サクヤは不死だったのだ。

 しかし、三人目の子を産み落とすと同時に、サクヤは人の娘に戻ってしまった。不死は失われたのだ。

 産屋は既に焼け落ちた後だったが、残り火で火傷を負い、煙に巻かれ、サクヤは命を落とした。

 ニニギは、焼け落ちた産屋の中から、強い繁栄の力を受け継いだ自分の子供達を確認するとサクヤを葬り、後添えとして、他の女を娶るのを止めた。

 そもそも興味が無いのだから、それで良かったのだ。無事に自分は子を残した。子孫の事は、子供達に任せると割り切り、サクヤを妃に据えたままにして、中津国を新たに治める事に専念した。

 中津国の者達は、サクヤを大切に思い続けているからの行為だと信じ込み、ニニギを情の深い神として受け入れた。

 サクヤの現世での一生は、そうして終わった。

 自分の一生は、何だったのか……。

 サクヤは、魂に大きな傷を幾つも負って、黄泉の国へとやって来た。

 現世から少しでも離れたくて、おぼつかない足取りで奥を目指し、動けなくなった場所でうつ伏せに倒れた。

 姉と共に嫁ぐと信じて疑わなかったのに、姉を切り捨てたニニギの所業。そして、ニニギでは無く、サクヤを恨んだイワナガの呪詛の言葉。更に、ニニギに不貞を疑われ、燃える炎の中で子供を産み落とす屈辱。

 全てが、サクヤの魂を傷つけていた。

 このまま、この地で腐り果て、永遠に何も感じないで居たい。

 サクヤの願いは、叶えられようとしていた。

 そんな朽ち果てたサクヤの所に、毎日の様に通って来る誰かが居た。

 姿は見えない。しかし、朽ち果てるのかどうか、毎日見に来ていると言う事だけは分かった。

 ただ様子を見て去って行く。

 殆ど腐敗して、骨だけの様な状態で、声も出ないし、感覚も無い。しかし、毎日決まった時間に誰かの気配を感じる。

 それは、本当は一人で消えて行くのは寂しいと思っているサクヤの、小さな希望になり始めた。

 もう来ないだろう。明日は来ない筈だ。

 サクヤは思っていたが、誰かは飽きずにやって来る。

 とうとうサクヤは好奇心に負けた。

 誰が、こんな自分を見に来ているのか、自らの目で見たくなったのだ。

 そう思い始めると、体が再生を開始した。

 白骨だった体に、肉が付き始め、あらゆる場所が再生され始めた。

 まだ体は動かないし、視覚も戻らない。けれど、感覚は鋭くなり、音が聞こえる様になった。

 地を踏む重い足音と共に、誰かがやって来る。サクヤの姿が変化しているのに驚いたのか、足音はだいぶ手前で止まった。

 そしてゆっくりと数歩、こちらに近づく。

 暫くサクヤを観察したのであろう後、足音は遠ざかって行った。

 その日は、足音が再び戻って来た。いつもとは違い、後頭部の方だった。

 そして、何かを置いて去って行った。

 それが何だったのか知るのは、だいぶ後の事だ。

 サクヤの体は順調に再生し、ようやく視覚を取り戻した。

 ぼんやりと薄暗い黄泉の国の地面に、うつ伏せに倒れた状態のまま、首が横を向いている。体はまだ動かず、同じ方向ばかり見つめている間にも、誰かは、背後に訪れて、何かを置いて行く。

 こちら側に来て、姿を見せてくれればいいのに。

 そう思っても、口はまだ利けない。

 サクヤが首を反対側へと向けるには、もっと再生の力が必要だった。

 サクヤは、背後に置かれて行く何かと、見舞い人見たさに、体の回復を願った。

 サクヤはそうしている内に、首だけを動かすのではなく、仰向けになり、首が自由に動く様にした方が良いと考える様になった。

 見舞い人はサクヤの状態を毎日見ている。首が反対を向いて居たら、また背後へ移動してしまうかも知れない。

 そうなったとき、仰向けの方が、首を巡らせ易い。見舞い人の姿を見るなら、その方が良いと思ったのだ。

 思っている以上に、再生は緩やかだった。長い時間が経って、ようやく体を仰向けに出来た。大きな達成感を覚えて、サクヤは笑みを浮かべた。

 まだ、体を起こす事は出来ない。赤ん坊の寝返りと変らない。それでも、サクヤには大きな事だった。

 見舞い人は、驚くだろうか。

 サクヤは、仰向けになっただけで悲鳴を上げている体に鞭打って、見たかった方向に首を巡らせた。

 そこには、小さな花が、小山になっていた。萎れている花の上に、新しい花が積み重なっている。サクヤが再生を始めてから、毎日置いて行ったのだと分かる。まるで、励ます様に。

 今日もやって来る。それを思うと、サクヤは胸がはち切れそうだった。

 サクヤは、生れた時から、ニニギに用意された贈り物だった。

 きっと大事にしてくれる。両親が何度もそう言うので、姉共々、それを信じて疑わなかった。

 しかし、実際に会ったニニギは、人の情を理解出来ない、物実の神の血を強く引いていて、美しく強いけれど、とても冷たい人だった。

 形式的に求婚はしてくれたけれど、サクヤに何も贈ってはくれなかった。姉のイワナガは、妻にすらしてもらえなかった。

 両親は失望し、イワナガは醜い女だと言われる事になった。

 イワナガは自分の異能を使って、子を身ごもったサクヤに、呪詛を吐いた。子供達の命が短くなる様にと。

 イワナガは、祝詞で宿した異能を歪めて使った為、魂が歪み、本当に醜い姿に成り果ててしまった。

 イワナガはその異能故に、人よりも遥かに長く生きる。それ以来、イワナガは人前に出て来なくなってしまった。

 子供達は、救い出されただろうか。きっと天津神の力は長くは維持できなかった筈だ。イワナガが呪いをかけたから。

 そんな痛みを忘れるには、十分な情けだった。

 醜く腐敗していた頃から、サクヤを見守ってくれていた誰か。

 まず礼をして、名を聞かなくては。

 サクヤは、上手く動かない口が動くようになったらどうするのか考えながら、訪れる者を待った。

 やがて、サクヤの目に映ったのは、巨大な異形の怪物だった。

 赤黒い肌、しゃくれた顎、そこから天を突くように伸びた牙、人と同じ様に、衣褌(古墳時代の男性の衣装)を纏っているが、上の衣には袖が無く、太い丸太の様な腕がむき出しになっている。髪は全て後ろへと乱雑に流されていて、伸ばしたままになっている。

 背中には、槌を背負っており、その重さを想像するに、ただ落ちて来ただけで、サクヤの体を潰しそうな代物だった。

 一瞬、その姿に驚き、恐怖したサクヤだったが、怪物の手を見て冷静さを取り戻した。

 怪物の手には、小さな花が一輪、つまむ様に持たれていたのだ。

 怯えを見透かしたのだろう。怪物は少し離れた場所から近づいて来ない。いつもより離れた場所に花をそっと置くと、そのまま立ち去って行った。

 翌日も、その翌日も、怪物は来たけれど、サクヤに近付こうとはしなかった。少し離れた場所に花を置いて、様子を見ると去って行く。

 サクヤが、怪物を恐れなくなるのに、そう時間はかからなかった。サクヤは、怯えた事を後悔した。

 もっと近くに来てくださって構いません。私はあなたを怖れていません。

 そう伝えたいのに、口が巧く動かない。サクヤは、早く話が出来る様になりたいと思った。

 そんなある日、怪物が手に何かを持って、いつもよりも近づいて来た。

 まだ話す事が出来ない。

 戸惑っていると、初めて怪物が口を利いた。

 落ちつく低い声だった。

「衣裳(古墳時代の女性の衣装)だ。着せるぞ」

 サクヤが、ここへ下って来る時に纏っていた衣は、魂の傷が酷かった為、ボロボロだった。

 骨と腐敗した肉の姿にはふさわしかったものだが、瑞々しい肌を再生し始めた姿にはふさわしくないと怪物は考えたのだ。

 思う様に動かない体に衣を着せてもらっている。サクヤは、とても恥ずかしかった。

 無表情なまま、丁寧な手つきで、衣を整えてくれる手は、ゴツゴツして大きいのに、優しかった。

 礼をしたいが、サクヤは、まだ体が上手く動かない。手の指が少し動くので、衣を着せ終わって離れていく怪物に、指で触れようとした。無理に動かしたせいで、指がピクリと震える。

 怪物は、サクヤの目を見て言った。

「案ずるな。休め」

 姿は怪物でも、この人は人を心配する心を持っているのだ。

 サクヤが、動く首を縦に動かすと、怪物は去って行った。

 魂の姿だと言うのに、花を見る視力があったり、衣が必要だったり……。黄泉の国とは、不思議な場所だとしみじみ思う。

 柔らかく身を包む肌触りの良い布の感触に、サクヤは心地よい気分になった。そう思うと、体の中から何かが湧き出す気がする。体が再生しているのだ。

 それで納得する。腐敗や虫の助けによって魂の悲しみや憎悪は癒されても、前を向いて、再び立ち上がろうとする気力は、あらゆる感覚に支えられているのだと。だからここには、現世と同じ様な感覚があるのだ。

 怪物でありながら、人より優しい心を持つ見舞い人を、サクヤは日に日に信頼していく事になった。

 口が利ける様になる前に、体を起こす事が出来る様になった。

 怪物は、動ける様になったサクヤに、履物を渡した。

 怪物の見守る中、それを履いて、一歩、恐る恐る踏み出す。

 体は以前の様に、動く様だ。

 長い間、地面に横たわっていた体だから、ちゃんと歩けるかサクヤは心配していたが、体は思ったよりも自由に動いた。

「そなたの家がある。案内する」

 怪物はそう言って、付いて来る様にサクヤを促した。

 暫く行った先には、小さな小屋があった。

 サクヤは入り口の前に立つと、横に居る怪物を見上げた。

 怪物が一つ頷くので、垂れ幕をくぐり、中に入った。そこには、寝具が一つ用意されていた。

 他に何も無いけれど、屋根があって、寝具の上で眠れる事が、サクヤには嬉しかった。

「煮炊きはならぬ」

 返事の代わりにサクヤは一つ頷く。……体が完全に再生していないから、食べるなと言う事だと分かる。

 それからは、小屋の周囲を見て回ったり、怪物が持って来てくれた布で衣を仕立てたり、人らしい暮らしを思い出し始めた。

 怪物は、櫛や腕輪、勾玉の首飾りなども土産に持って来てくれた。サクヤは、その場で着けて見せ、笑顔で回って見せた。

 怪物は満足そうに頷くと、帰って行った。

 体が順調に回復し、口の内部の再生も終わって、声が出る様になると、サクヤは人が集まって暮らす集落に住まいを移された。

 黄泉の国では、食事をしなくても困らないが、食べる喜びを味わう為に、飲食が出来る様になっている。それも許可された。ようやく、再生が終わったのだ。

 声が出る様になって、サクヤは礼をすると同時に、怪物の名を尋ねた。

 怪物は、言った。

「カカビコ」

 ヒコと言うのは、男の名前だ。この方は男性なのだと改めて確信する。

「カカビコ様、このご恩は一生忘れません」

「良い。息災であれ」

 怪物は、それだけ言うと、集落の者達にサクヤを預けて去って行った。

 サクヤは、カカビコにまた会えると思っていた。しかし、この日を境に、カカビコはサクヤの元を訪れなくなった。

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