偽装の心理 17
「衣澤康祐という男性がここで
アシスタントしていたと
編集者の方から聞いたのですが、
覚えてらっしゃいますか?」
氷山遊の問いに、牧野善治はひと呼吸置くと、
胸の前で両腕を組み目を細めて答えた。
眉間には皺を寄せ、わずかに上半身を反らせた。
「衣澤・・・ですか?
アシスタントは入れ替わりが多くてね。
全員覚えてる暇なんかないんですよ」
牧野は片方の口角を捻じ曲げて苦笑を浮かべた。
氷山遊はわずかの間を置くと、
すぐさま次の質問を投げた。
「百合加さんて、美人だったんでしょうね」
氷山遊は牧野善治へ、
同意を求めるように断言して言った。
それは有無を言わさない口調だった。
彼女の突然としたこの問いに、
隣りにいた鳴海の方が目を剥いた。
衣澤康祐というカードをひっくり返すように転じた
彼女の話題の運び方に、動揺を隠せなかった。
それともうひとつ鳴海が気になったのは、
彼女が使った言葉の中で、
『百合加』と『美人』という単語に
強いアクセントをつけているように
思えたのは気のせいか?
たしかに百合加という名は、
衣澤康祐が残した日記に幾度となく出てくる。
その百合加という人物が、今回の事件に
少なからず関与していることは容易に想像がつく。
だが鳴海は、その名を牧野善治に
投げかけた氷山遊の意図が
推し量れないでいた。
だが鳴海以上に動揺を隠せないでいるのは、
問いかけられた牧野自身だった。
牧野善治は、その細い目を見開き、
眼球は左右をいったりきたりさせている。
その後、反り返っていた上半身を
かがませるようにして、
組んでいた両腕を抱きかかえた。
これは心理学者ならずとも、
うろたえていることがわかる
明白な振る舞いだった。
牧野は氷山遊と視線を合わせないまま、
口を開いた。
「ああ、そういえばいましたね。
アシスタントで百合加って人。
でも、彼女すぐに辞めちゃったから、
あまり印象に残ってないんですよ。
それに仕事もできないようだったので、
半ばクビにしたって感じかな。
だから美人だったかはっきり覚えてませんが、
まあ、十人並みってところだったんじゃないかな」
牧野はそう言いながら、自分の顎を手で擦った。
「私は女性だとは言ってませんよ」
氷山遊の声は、冷徹とさえ
感じさせるほど冷ややかなトーンだった。
「だ、だって、美人と言われたら女だと
思うじゃないですか」
牧野善治は口を尖らせ、氷山遊を睨んだ。
彼女は極めて平静に、さらに牧野を問い詰める。
「私は百合加とだけ申し上げました。
なのに牧野さんは覚えてらっしゃる。
普通、人の名を覚えるときは
苗字からだと思うのですが、
あなた名前で思い出した。
それだけ記憶に残っている
女性だということですよね」
鳴海は氷山遊の口調に、
何か怒りのようなものを感じていた。
そこで素朴な疑問が彼の頭をよぎる。
もしそれが鳴海の思い過ごしでないとすると、
どうして彼女は牧野善治という男に対して、
怒りの感情を見せたのか。
当の牧野は答えに窮しているように見えた。
額にうっすらと汗が滲んでいる。
氷山遊はそれまでの緊張を解くかのように、
一変して柔らかい口調で牧野に質問を始めた。
「百合加という女性が、
こちらでアシスタントの仕事をしていたなら、
当然ギャラも支払われているんですよね」
牧野はほとんど反射的に、頭を縦に振っていた。
氷山遊は意味ありげに、鳴海の方へ視線を向けた。
彼女の顔を見て、鳴海の脳裏に閃くものがあった。
氷山遊に代わって、今度は鳴海が質問をした。
「牧野さん、ということは領収書とか、
そういったものがありますよね。
それを確認させてもらえませんか?」
領収書があるとすれば、
百合加という女性のフルネーム、
住所、連絡先がわかるというものだ。
しばらく口ごもっていて、
何を呟いているのかわからない牧野であったが、
鳴海の一言で体を硬直させた。
「これは事件の捜査でもあるので、
もし拒否されるのであれば、
令状をとることも可能なんですが、
我々としてはそこまでしたくない
というのが本音です。
できれば自主的に協力を
してくださいませんか」
疑問形をとりながらも、
鳴海の口調には逃げ場を与えない迫力があった。
特に令状という言葉に、
牧野は怯えたような素振りを見せた。
牧野善治はけだるそうに立ち上がると、
応接室の角にあるキャビネットの引き出しを開け、
領収書の束を取り出した。
そしてその中から一枚の領収書を抜き取り、
ローテーブルの上に置いた。
河合はそれを手にすると、
メモ帳に素早く書き写した。
その領収書には、前原百合加という名が、
女性らしい繊細な文字で書かれていた。
住所は練馬区の江古田のアパートだ。
記されていた電話番号は
携帯電話のものだった。
前原百合加という人物の詳細を
知ることができたのは、
大きな収穫かもしれないと鳴海は思った。
彼女が今回の事件の
キーパーソンのような気がしていたからだ。
鳴海たちは軽く礼を言って、
牧野善治のマンションを辞去した。
牧野は最後まで鳴海たちを、
憎悪と狼狽とのない交ぜになったような、
ぬめった視線を向けたまま、無言で見送った。
マンションの外に出ると、
鳴海は深くため息をついた。
そしておもむろに氷山遊へ向かって言った。
「さっきは驚いたよ。いきなりあの男・・・
牧野に百合加と言う人物について
質問したときは・・・」
氷山遊はコートのポケットから
マカデミアナッツチョコを取り出すと、
それを包んでいる銀紙を剥きながら答えた。
「牧野善治は私たちといる時、
両腕を組んで上半身を反らしていたでしょ?
あれは典型的な防御と警戒のポーズだってことは、
鳴海さんも知ってると思うけど、
いったい彼は何に警戒してるのかと考えたの。
そこでカマをかけたのよ。
意表をつくように、百合加って名前を出してね。
それに美人だったんじゃないかって事も。
これをアンカーっていうの。
相手の意識に強く印象付ける心理的な手法。
それに簡易的な言語連想法も、
応用してみたつもりなんだけど」
「言語連想法?」
鳴海は聞きなれない言葉を、問い返した。
「本来は被験者に対して、百語ほどの単語を読み上げて、
その単語から連想する言葉を聞きだすの。
その時、重要なのは被験者の答えと、答えるまでの時間。
無意識に何気なく出る言葉は2秒とかからないんだけど、
提示された言葉に、何らかの形で抵抗や心理的圧迫、
強迫観念などがあると、答えるまでに時間がかかるの。
だいたい5秒以上、時には数分もかかる場合もあるわ」
「たしかにあんたの質問に対して、牧野は戸惑っていた。
答えに窮しているように見えたな」
「そう。そしたら予想した通り、過敏に反応した。
それも私が質問したこと以上のことを
しゃべりはじめた。
人はやましいことがあると、
黙り込むか、饒舌になるものなの。
百合加って女性のことを美人だったかどうか
覚えてないと言っておきながら、
十人並みの容姿だったと、
相反する矛盾した答えをした。
つまり嘘をついている人間は、
論理に一貫性が無いのよ。
真実を隠すことに集中するあまり、
自分の言動に論理的破綻が
生じていることに気づかないのね。
昔から言うでしょ。語るに落ちるって」
氷山遊はそう言うと、
マカデミアナッツチョコを口に含んだ。
鳴海は得心したように、うなづいた。
やはり氷山遊が、『百合加』と『美人』を強調したのは、
牧野にボロを出させるためだったのだ。
そう納得しながらも、
他人の心理を読む洞察力とそのテクニックに、
少なからずとも怖れに似たようなものを
感じたのも事実だった。
彼女は難なくやっているように話すが、
初対面の人間に対して、
その心を操作しているといっても
過言ではない心理テクニックを
使いこなせるようになるには、
相当な学習と訓練、経験が必要なのは確かだ。
鳴海はあらためて彼女に視線を移した。
目の前にいるのは、若くて美しいひとりの女性。
だが、ただの女性ではない。
人間の心を見通し、読み解く能力に秀でた、
ユングの娘と呼ばれている天才心理学者―――。
鳴海がそんな思いをめぐらしていた時、
ふと氷山遊と目が合った。
鳴海は自分の考えが読まれそうで、慌てて視線をはずす。
それを誤魔化すつもりで、鳴海は言った。
「あんたと結婚する男は大変だな。
何しろ嘘一つつけないんだから。
それともすでに結婚しているのかな。
そうだと旦那さんに同情するよ」
すると氷山遊は左手の手を上げて見せた。
その細く華奢で美しい指―――薬指には何も無かった。
「私、まだ独身なんだけど」
「そ、そうか。じゃあ、彼氏が大変だな」
「付き合ってる男性もいないわ。今はね」
彼女の返事を聞いて、
自分がホッとしていることに鳴海は気づいた。
どうしてそんな気持ちになったのか自分でもわからない。
そんな感情を払拭したい心持ちで、
柄にも無いことを口にした。
「もうすぐクリスマスだっていうのに、寂しいな」
「鳴海さん、それってセクハラよ」
氷山遊の素っ気無い答えに、
鳴海は仏頂面をして閉口した。