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偽装の心理16

「しかし、あの編集者、時間がないとか言っておきながら、

 けっこうしゃべったな」

首都出版を出ると、赤いダウンジャケットを羽織り、

鳴海は凝った両肩を伸ばして背伸びをした。

大きく深呼吸をすると、彼は氷山遊に視線を落として言った。


「何か、魔法でも使ったのか?」


「魔法なんかじゃないわ。

  色彩による時間感覚を試してみたのよ」

氷山遊はそういいながら、

自分の着ているブルーのコートの襟をつまみ上げた。


「時間感覚?」

鳴海はオウム返しに訊き返した。


「以前、私のゼミをとっている学生たち数十人に、

  被験者として参加してもらったの。

  彼らを無作為にAとBの二つのグループに分けて、

  Aグループは四方の壁紙がブルーの部屋に入ってもらい、

  Bグループは同じように赤い部屋に入ってもらった。

  そしてそこで自由に雑談をしてもらったの。

  ただ、時間は30分に制限してね。

  タイムリミットが来たとき、

  A,Bの両グループの学生に意見を聞いたんだけど、

  青い部屋にいた学生は30分以上いたと

  実感していた学生が多かったわ。

  中には1時間は経過していたはずだという学生もいた。

  ところが、赤い部屋にいた学生たちは

  同じ30分という時間が、

  とても短く感じられたって言うの。

  実際いたのは15分くらい

  だったんじゃないかって言う学生もいたわ。

  つまり、人間の体感時間というのは色彩で

  大きく左右されるという心理の変化が

  起きる可能性が高いってこと」


彼女はそう言って、

いたずらっぽく鳴海を見上げて微笑んだ。

美しく澄んだ彼女に見つめられて、

鳴海は思わず、赤面して目をそらした。


いい歳して、何動揺してんだ?オレは―――。


そんな鳴海の様子に気づいているのか、

そうでないのか、氷山遊は淡々と言葉を継ないだ。


「あの編集者は、質問する私を見つめていた。

  つまり私の着ているブルーのコートが

  視界の大半を占めていたわけ。

  四方を青い壁に囲まれた部屋ほどにではないにしても、

  時間感覚は鈍ったと思う。

  本人は短時間しか話していないと思っていても、

  実際にはそれ以上の対話していたということ」


あんたを見つめていたのは、

ブルーのコートだけじゃないと思うけどな。

あんたみたいな美人に見つめられれば、

大概の男は時間の感覚なんて、

どっかへすっ飛ぶもんだ―――と

鳴海は反論めいた考えが浮かんだが、

それは口にしないでいた。


「オレにジャケットを脱いで、

  あの西川って編集者の目に

  つかないようにしろって言ったのは、

  その時間感覚に理由があるのか?」


「それは少し違うわ」

氷山遊は断言するように言った。


「赤は攻撃色なの。時と場合によるけど、

  相手を威圧したり、

  警戒や不安にさせる傾向があるの。

  だから脱いでもらったのよ。それに・・・」


「それに・・・何だ?」


「鳴海さんのような強面の大男に、

  赤いジャケット着られたら、

  まるで戦国武将のように怖いわ」

氷山遊は含み笑いをしていた。

隣りで聞いていた河合が吹き出したように笑った。


「そりゃそうですよ。鳴海さんは空手四段、柔道三段、

  合気道四段の腕前ですもんね。

  その上、一課に配属される前は四課にいて、

  広域暴力団相手に

  大暴れしたっていう伝説の持ち主なんだから。

  並みの人間じゃ、その威圧感だけで

  尻尾巻いて逃げ出しますよ」


「余計なこと言うんじゃない。もう昔のことだ」

鳴海は険しい顔をして河合をたしなめた。

たちまち河合は閉口した。


「四課っていったら、

  よく聞くマル暴っていうところですか?」

鳴海は氷山遊の方を見るのに逡巡した。

普通、暴力団相手の捜査をしていたような荒っぽい刑事を、

怖れない人間はいない。

彼女もまた、自分に対して恐れを抱いたのではないか?

という危惧を感じたのだ。

だが、そこで鳴海は思った。

もし仮に、氷山遊が自分を見る目を変えたところで、

何を気にすることがある?

なのに、どうしても彼女の反応が気になることが、

鳴海自身不可解でならない。

心のどこかで、彼女から距離を離されるのではないか

という不安が頭をよぎったのは確かだ。


鳴海はためらいがちに氷山遊に視線を向けた。

ところがその瞬間に、鳴海の危惧は氷解していた。

彼女の鳴海を見る目はいつもと変わらなかった。

むしろ彼女のその両の瞳には、

畏敬の色さえ浮かんでいるように感じたのは気のせいだろうか。


「鳴海さん、さっそく牧野善治の仕事場へ行きましょう」


氷山遊はいつもの無表情に戻ると、

幹線道路に視線を戻して、手を上げた。

間もなくして、三人の前に一台のタクシーが停まった。


牧野善治の仕事場のある8階建てのマンションは、

葛飾区の一角にあった。

オートロックでもなく、

難なくマンションロビーに入ることができた。

河合はメモ帳を取り出して、牧野善治の部屋を確認した。

彼の仕事部屋は5階にあった。

鳴海たち三人は、エレベータに向かうと乗り込み、

5階のボタンを押した。


牧野善治のいる部屋は、502号室だ。

鳴海はそのインターホンを押した。

ほどなくして、若い男性らしき声が返ってきた。

カチリというドアのロックが外れる音がして、扉は開いた。


顔を出した人物は、二十歳前後の若い男だった。

しかし両目の下には隈ができており、

疲れきった雰囲気を醸し出していた。


「私、真代橋署の鳴海といいます。

  牧野善治さんはいらっしゃいますか?」

鳴海はそう言って、警察バッジを見せた。


その若い男は、部屋の奥に向かって、

牧野先生、お客さんですと言った。

数瞬の間をおいて、中年の男のものらしい返事が返って来る。


「どうぞ」

若い男はそう言って、鳴海たちを案内した。

通された部屋はフローリングされた十二畳ほどの広さで、

6セットのデスクがあった。

その内5つのデスクのどれにも若い男性の姿があり、

漫画の原稿らしきものに向かって作業していた。

ある者は模様の入ったシートのようなものを、

細いカッターで切り抜きながら貼りこんでいる。

またある者はペンを走らせて背景を描いていた。

彼らが西川の言っていたアシスタントなのだろう。

彼らは入ってきた鳴海たちに軽く会釈すると、

再び作業に戻った。


彼と入れ替わりに、一人の中年の男が現れた。

頭の禿げ上がった、

上下フレーのスエット姿をだらしなく着ている、

小太りの男だった。

黒縁フレームの眼鏡を透かして見える目は、細く冷たい。

その瞳孔は焦点が定まっていないようにも見える。

肌は脂ぎっていて、ぬめぬめと光っていて、

ナメクジを連想させた。


その人間味を感じさせない両目は、

無遠慮に、氷山遊へ注がれていた。

その視線には、明らかに好奇の様子が伺える。

牧野は寛恕の姿を舐めまわすように見ていた。

その様子に気づいた鳴海は、

不快感をあらわすように、咳払いをした。


「私は真代橋署の鳴海という者です」


「知ってますよ。西川君から連絡がありました。

  あなた方ですか、オレに用があるっていうのは?」

そう話しながらも、

男の視線は氷山遊から離れようとしない。

やはりこの不快な男が、牧野善治らしい。


「ある事件について捜査していまして、

  かつて、ここで衣澤康祐さんが

  アシスタントをしていたと聞きまして。

  やはりここに百合加という人物がいないかと

  確認したいのですが」

鳴海がそう言うと、

なぜか隣りにいる氷山遊が、

彼をとがめるように見上げた。


鳴海は何かまずいことでも言ったか?と

言いたげに眉をひそめた。

そして鳴海の問いに、

氷山遊は牧野の両目が細まったのを、

見逃さなかった。


「とにかく上がってください。ここではなんですから」

牧野は室内に入るように促した。

鳴海たちは牧野に案内されて、別の部屋へと通された。


そこはどうやら応接間らしく、ソファとローテーブル、

小型の液晶テレビと本棚、壁に作られた棚には、

アニメキャラのフィギュアらしいものが整然と並んでいる。

それに対して、床は散らかし放題だった。

新聞や雑誌、アイドルの写真集と思われる物で、

足の踏み場も無いくらいだ。


牧野はソファを指し示して、座るように促した。

そのソファは薄緑の生地のものだったが、

あちらこちらにコーヒーか紅茶を

こぼしたようなシミが広がっている、

決して清潔なものには見えなかった。


鳴海たち三人は、そのソファに腰を降ろした。

鳴海が質問に入ろうとした時、

氷山遊が先じて口を開いた・・・。

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