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沈降

 クルーザに向かって潜航のハンドシグナルを送った。船首に立っていたガイドが手をあげて応じた。上部デッキに屹立するマストに気象用レーダが回転している。操舵室内のレーダースコープには多数の雨雲影が映し出されている。クルーザーは木の葉のように揺れながら序助に後退していく。低気圧が接近してきているのだ。ゴーグル越しに空を見上げた。ぬけるような青空が広がっている。今日1日はもつだろう。だが確実にうねりは増している。海面に浮力調整ジャケットにより浮きのように浮いているため、体は上下に大きく揺さぶられる。2メートル以上の落差を上に下にと遊園地のコースターに乗っているかのように、プラスとマイナスのGを交互に受ける。早く潜航したほうが良さそうだった。反対側に向き直ると、島の岸辺にに打ち寄せる波はその波頭がくだけ、波打ち際は白く泡立っている。彼が一人大洋にエントリーした後、彼を乗せてきた船は180度反転し、一旦風下側の島の南側へと待避した。地元大手ダイビングショップの船だった。オーナーは何度も「ここは普段でも波が高い、低気圧が近づいているここ2、3日はなおさらだ。それになんといってもサメの巣だからあまりおすすめはできない。地元のダイバーでもほとんど近寄らないところだ」と何度も警告してくれた。だがそういう場所だからこそプロカメラマンとしての撮影対象がまだ残っているのだ。まだ誰にも荒らされていない場所。彼は沈船を専門に撮影する潜水カメラマン。ここは日本から1万キロ以上も離れた南太平洋の無人島。人の住む本島からまる1日かけてここまで来たのだ。


1ヶ月前 ワシントン 国立国会図書館


歴史的書類が膨大な数所蔵されているアメリカの公文書館、そのひとつが国立国会図書館だった。すでに多くの公文書がデータファイル化され、コンピュータネットワークを通じてある一定の手続きさえクリアすればアクセスすることが可能なまでに整理されている。彼ももともと社会人枠のユニバーシィティーの学生で、前大戦史を専攻していた関係上、ある一定レベルの電子ファイルへのフリーアクセス権を持っていた。そのアクセス権を使って、アメリカ側の資料にかかる戦時公文書、得に太平洋戦争後半で南方洋上での洋上艦の作戦行動について調査をしていた。彼は沈船を専門に撮影するプロのダイバーだった。沈んでいる船であれば、時代と場所を問わなかった。世界中の海に沈没しているあらゆる時代の船を今まで多数とり続けてきた。ヨーロッパの地中海では、遠くローマギリシャ時代のガレー船、カリブ海では海賊の乗っていた帆船。アジアでは明治維新中に沈んだ、旧幕府軍の蒸気船など、時代と場所とジャンルは実にさまざまで、依頼があればどこへでも行き、あらゆる海にもぐり、あらゆる沈船をフィルムに収めてきた。ある日自宅のコンピュータで国立国会図書館のデータベースで興味深いファイルを見つけた。そのファイルにアクセスしたのはある意味偶然だった。ある大学の戦史研究室の依頼を受けて、太平洋戦争中の米軍駆逐艦の艦隊行動を調べていた時だった。頼まれていた艦隊の調べ物の大半を終え、特筆調査すべきめぼしいものはなしと報告書をまとめあげようと、アクセスを終了しようとした時だった。ひとつの交信記録が目にとまった。それは米小型巡洋艦が太平洋南方のある小島の近海で消息を絶った時のハワイオアフ島司令部との最後の更新記録だった。艦長はあるなにかを追って、通常は大型艦艇は入り込まない、珊瑚礁のリーフ内へと艦を進めた。その目標物が輸送船なのか、巡洋艦なのか、その部分がわかる記録はいっさい残っていない。ただ、こうあるだけだった。3日3晩追跡した後、最後の作戦を決行する。総員の真摯な活動に深く感謝する。すべては私一人の責任である。総員退艦されたし本船は・・・・・。自らを持って、敵を・・・・・する。位置通報北緯○○度○○分、東経○○度・・・・。時刻は7月7日。南十字星が艦首方向、まさに燦然と輝く。

・・・主よ我を・・・許したまえ。


 彼はこの艦艇の沈んだ場所を特定するため、すでに直接国立国会図書館を訪れ、一般公開されていないファイル、あるいはいまだ電子化されていない資料にここ1週間連日当たり続けているというわけだ。これまでのアメリカの国立公文書図書館でアメリカ海軍の大戦中の被害記録の詳細な調査から、ここに未調査の小型駆逐艦が雷撃をうけて沈んでいることが分かっている。彼は右手を高くあげて、排気バルブのスイッチを押し、浮力調整ジャケットからエアーを徐々に抜いていった。すーっとからだ沈んだ。彼は水中へと潜航した。耳抜きをしながら、そのまま沈降を続ける。タンク脇から延びているダイブコンピュータを握り、潜航時間、残圧、深度を確認した。水面ではもみくちゃにされていた体も、深度が10メートルにもなると嘘のように静まる。下を見ると黒々とした空間が広がっている。岸に近いにもかかわらず真下の深さは200メートルを超える。この島は海溝から地殻変動で隆起した島だった。スキューバーダイビングではその底までは潜れない。だが目的の沈船はもっと浅い場所にあった。彼はゆっくりとフィンでキックしコンパスを見ながら、島の南島の崖下へ向かってゆっくりと進んでいった。しばらく行くと急に下から海底がせり上がってきた。浅瀬に入ったのだ。深さはおよそ20メートルくらいだろうか、下に小魚が遊泳しているのが見える。日の光も半減はしているが十分に水底にまで届く深さだ。目的のものは意外と早く見つかった。ちょうど浅瀬と海溝の縁の部分だった。船体の約三分の一が海溝側にせり出している。船体が思った以上にきれいに保存されているのに少々驚いた。しかも目立った損傷がない。なぜ沈没したのだろう。もし戦史記録どおり雷撃によるものであれば、この駆逐艦クラスなら船体が二つ折りになっていても不思議ではない。横倒しの形で半分砂にうもれているものの、艦橋や砲塔部分は脱落することなくそのままだった。彼はゆっくりと上方から船体へと近づいていった。船体が砂地に半分埋もれているのだが、そのちょうど東側が土管のような形に大きく盛り上がっているのに気がついた。変わった海底地形だなと不思議に思いながら写真を何枚か撮った。サメ撃ちの水中銃は船内に入るにはじゃまなのでどうしようかとためらったが、捨て置くわけにもいかず肩にかけたままブリッジから船内へと入っていった。ここは海溝部分から冷たい水が吹き上がっているため、意外と海草類やフジツボのたぐいが付着していない。

 とても60年以上もこの海底に鎮座している船とは思えなかった。さすがに船窓はすべて破れていたが、速力指示器や舵輪はそのままだった。舵輪は取り舵一杯に切られている。舵の切れ角を示すアナログ計器がそれを示していた光と影の微妙な陰影でいい絵が何枚か撮れた。周囲には遺骨らしきものは見あたらない。遺骨収集はまだ行われていないポイントのはずだから少々不思議に思ったが、おそらく早い潮流で流されたかしたのだろう。いよいよ船倉へと降りていく。ここからは非常に危険なダイブとなる。迷ったり、なにかに挟まったりすれば、エアー切れをおこして即あの世行きだ。用意してきた50メートルのロープをリールから繰り出し、そばの丈夫そうな支柱にロックする。見た目はやわそうだが、カーボン繊維の強靱なロープだった。これで楽々大人一人をつりあげることができる。持ってきたバールで水密ドアをこじ開ける。ほとんど力を要することなく簡単に開いた。とても今まで長い間閉鎖され続けていた扉とは思えなかった。先人がいるのかとふと頭をよぎった。下へと続く急なラッタルが目にはいる。頭部に装着した強力なLEDライトを点灯した。さすがにここからはライトなしでは進めない。階段の上を滑るように降り下っていく。ライトに照らされ何かがきらりと光った。もう一度その方向を照らし出した。ガラス片かなにかが光ったのだろうか。少しの間そこで立ち止まって周囲を見回したが、それっきりだった。ロープを繰り出しながら再び前進を続けた。完全な中性浮力をとっているため、フィン一蹴りで下でも上でも自由自在だった。ミドルデッキにたどり着く。ここは食堂のようだ。一般水兵がここで食事を取りくつろいだところだ。床にはナイフやフォーク、皿が散乱している。非番の水兵が食事をしていた最中に総員配置がかかったに違いない。不意な襲撃を受けたのだろう。どのような攻撃を受けたのだろうか。突然彼の体が急にぐっと後ろに引かれた。腰から繰り出していたロープに引っ張られたのだ。ロープがなにかに絡んだのか。紐をつかみ何度か引いてみる。拍子抜けするように何の抵抗もなくするりと

たぐり寄せられた「変だな」不思議に思いながらも彼はそれ以上深く考えることもなく先に進んだ。隣には廊下を挟んで士官室があった。ドアはやはり簡単にあいた。遺骨が目にとびこんでくることを覚悟したがなにもなかった。そう言えば靴やメガネ、時計といった遺品のたぐいもここまできてもひとつも見あたらない。まるで幽霊船ようだ。となりの艦長室へと移動した。ドアは半開きになっている。中に入る。机や書棚が散乱していた。壁に金庫が見える。命令書や暗号書、航海記録が中に入っているはずだった。ここは沈潜撮影の時に必ずチェックするポイントだった。持ってきた小型のバールを扉と外枠の間にねじ込もうとライトでその部分を照らし出した。クラックのような大きな傷が見えた。新しい傷だ。明らかに最近だれかがこじ開けようとしたのだ。やはり先人がいたのだ。中には何も残されていなかった。仕方なく、金庫を閉めその外側から何枚か写真を撮った。外に出ようとふり返ると、通路にライトに光りに反射するなにかが見えた。近づいてみる。ガラス製のようだった。なんだろうと思い手にとる。うっすらとかぶっていた。埃が舞い上がる。スキューバー用のマスクだった。周囲に目をやった。円筒形の物体が見えた。上の埃を払いのける。エアータンクだった。なぜか刃物で切り裂いたような亀裂がいくつも入っている。先人者がいた。そして金庫を開けた直後なんらかのトラブルに会った。彼はカメラを取り出しシャッターを切った。

 3回目のフラッシュがたかれた瞬間、彼は猛烈な勢いで後ろに引っ張られた。手にしていたカメラが連写モードで、フラッシュを明滅しながら下に落ちていく。すべてがコマ撮り写真のように断続的な映像で彼の視界をスローモーションのように流れていく。ウインチのような重機で巻き取られていく圧倒的な力を全身に受ける。廊下を後ろ向きにずるずると引きずられる。左手でレギュレターを押さえ、右手でなにかつかまるものはないかと必死でまさぐった。ヘッドランプが闇の中を交錯する。ハッチのところで引っかかっただが引きずられる力は収まらない。頭は混乱の極地に達した。水密扉に体が押しつけられる。彼は渾身の力を振り絞り、扉の隙間から後方をのぞき込んだ。全身の神経という神経が剥き出しされ、心臓の鼓動が100倍に跳ね上り、口から躍り出ようとした。そこに見たものは恐ろしいカミソリのような歯が幾重にも縁取る巨大なあごだった。ライトが当たり、その恐ろしい裂け目がものすごい勢いで左右に振られる。金色の目が光った。は虫類をおもわすような無機的な目だった。エラまで裂けたあごにはカーボン製のロープが食い込んでいる。それは今までみたこともないほどの巨大なサメだった。彼の恐怖の絶頂で凍り付いた。なすすべもなくぐいぐいとひっぱられ、錆び付いた扉の隙間に体が押し込められていく。右腕が蝶番に挟まりダイビングスーツが引き裂かれた。するどい痛み。裂けたスーツからにじみ出す血の臭いを嗅ぎサメはさらに凶暴に踊り狂った。扉の外に引きずり出された瞬間に勝負はつく。彼は満身の力を込めて、ロープを引っ張った。切れてくれ。ダイビンググローブがすり切れ、焼け付くような痛みを手の平に感じる。水中銃が見えた。取り落とした銃を彼は視界にとらえながら必死で手をのばす。あと少し、あともう少し。半分ほどドアの外に出た肩に、やつの鼻面があたる。後10センチ、後5センチ、右手が銃をつかんだ。すかさずグリップを握り直す。銃口を反転させやつののど元めがけてトリガーを引いた。「ドーン」という鋭い反動が右肩を突き抜けた。「パン」乾いた音が水中を通して頭骨を震わせる。矢はサメののど元に突き刺ると同時に、先端の弾頭を炸裂させた。やつのあごから頭頂部へと散弾が突き抜けた。血が怒濤のように噴き出し、周囲を血の海に染める。中枢神経をたたきつぶされた巨大鮫は、ぴくぴくと体を痙攣させたかとおもうと底へと静かに沈んでいった。 状況は最悪だった。巨大なサメの尾びれの威力は想像を絶していた。ミドルデッキの途中で天井と両サイドの壁が崩れ落ちている。埃が舞い上がりよく見えないが、とても人が入り込む隙間はない。サメとの格闘で跳ね上がったアドレナリンが引き潮のように引いていく。満身の力で扉を押してみるが、残骸が互いに複雑に絡み合いびくともしない。

 エアゲージを見る。残圧1.2Kg、さきほどの死闘で大量のエアーを消費していた。普通に活動して30分、すぐにでも浮上を開始しなければならない残量だった。彼は必死に頭を整理しようとした。が、閉じ込められた閉塞感でパニックになるのを押さえるのが精一杯だった。じっとしているのに呼吸が異常に荒い。過呼吸になりかけている。目をつぶり、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせた。後もどりはできない。そうだ、ミドルデッキから上にあがるラッタルは右舷側ではもうひとつあるはずだ。彼は望みを託し、廊下を前進し始めた。10メートルほど進んだだろうか。水密ハッチにぶつかった。この先に上行階段があるに違いない。だが今まですべて半開きになっていたドアが、ここで初めてしっかりと閉鎖されている。ここから先は誰も入っていない証拠だ。いやな予感がした。回転式のハンドルを握り満身の力を込めて回す。びくともしない。完全にさび付いている。当然と言えば当然だった。60年間も海中に沈んでいるのだ。バールをドアの間に突っ込み思いっきり引っ張る。エアーが急速に消費されていく。残圧計を見る0.5kg、エアーが切れるまで後10分。なにか方法は、こじ開ける方法は。爆破でもしないかぎり開かない。そう思ったとき彼はひらめいた。彼は急いで艦長室に戻った。あたりを見回す。恐ろしいサメがまだ下に横たわっている。死んでも開いたままの目は不気味にライトに反射されて金色に輝いている。目を背けるようにして下に落ちているものを拾い上げる。水中銃だった。スペアーの弾頭が3本残っていた。矢を装填し、先端に弾頭を装着する。急いでもとの場所にもどる。蝶番部分を狙い1発目を発射。「カーン」という乾いた音がして水中に火花が散った。びくともしない。2発目を装填。発射。再び火花が散る。今度は見事蝶番が吹き飛んだ。「ガタン」とハッチが下に下がる。後一カ所。最後の弾頭を装着、発射。「ゴトン」という音ともにドアが向こう側に倒れた。次第に息苦しくなるのが分かった。残量が0になりつつある。埃が舞い上がる。夢中で中に飛び込んだ。「ラッタル、ラッタル」、ライトが闇の中を四方八方に交錯する。「ない、どこにもない。」絶望感が全身をおそった。追い打ちをかけるように彼の目の中におそろしい光景が飛び込んだ。そこは墓場だった。床には何十という白骨がごろごろと転がっていた。乗組員達の骨だった。ここはサメが入り込まなかったので遺骨が残っていたのだ。彼の精神は極限に達した。レギュレターを口からはずし、タンクも投げ捨て、上に向かってもがいた。息が苦しくなる。終わりだと観念した。意識が遠のき始めたその時、浮き球が水中から飛び出すように頭が水面に踊り出た。

 驚いたことに上には空間があった。「空気だ」彼はチアノーゼになりかけた顔面を再び紅潮させて、酸欠寸前の肺に思いっきり空気を送り込んだ。かび臭い異様な臭いが鼻腔を刺激した。そこはほんの小さな空間だった。彼は呼吸が落ち着くとともに少しずつ冷静さを取り戻した。頭部のランプの角度を変え、周囲を照らした。ちょうど艦の側壁部分だろうか。電線かなにかが這っている。いくつものパイプが左右を走っている。今までの艦内とは大きく様子が異なっていた。バルブやパイプがそこら中蛇のようにのたうち回っているのだ。「どこだ。ここは。駆逐艦の中のどのあたりなのか。」 彼はとにかく出口を探した。どこか脱出口はないか。彼は壁という壁、天井という天井を血眼になって調べた。なにもない。あるのは黒々とした分厚い隔壁と、その間を縫うパイプの群れだけだった。完全な閉鎖空間だった。万策尽きた。息苦しさの中で諦念ということばが浮かんだ。あのままおぼれた方が、よかったかもしれない。彼は足につけた小さなダイバーナイフを取り出した。おそらく自分の遺体は遅からず発見されるだろう。家族には本当に申し訳ないと思った。子供もまだ小さい。妻はこれからどうやって家族をささえていくのだろう。彼はドロで汚れた壁面を手でぬぐいながら、壁面に刻み込むメッセージを考えた。だが、いざ残そうとすると何も浮かばない。やはり生きたい。もう一度家族に会いたい。「チャンスは一度。バルブを回せ。赤いバルブ。生きろ、生きるんだ。」どこからともなく声が聞こえた。もう一度耳を澄ます。だがそれっきりだった。息が次第に苦しくなる。ついに酸素が切れ始めたようだ。その言葉は耳から聞こえるというよりも頭の中に響いたといったほうが正確だった。「赤いバルブ、赤いバルブとはなんだ。」その時、最後のメッセージを刻もうと汚れを拭ったすぐ目の前の壁に、なにやら文字らしいものがあることに気づいた。こんな状況下でなぜそれを読もうとしたのか自分でも不思議だった。ただ、さっき聞こえてきた声の答えがそこにあるような気がした。古い字体だった。真鍮のパネルにしっかりと彫り込まれている。「緊急浮上手順、メインタンクブローは赤い排水バルブを右に一杯に回せ 昭和19年8月1日進水 日本帝国海軍呉工廠 乙式特殊潜航艇」ここに至ってすべての謎が解けた。ここは潜水艦の中だ。しかも旧日本海軍の特殊潜航艇だ。ちょうど米軍の駆逐艦の横腹部分にめり込むようにつきささっている形だ。ここに入ってくる前に駆逐艦が鎮定している横の海底の砂が妙な形で盛り上がっていた。あの下には潜航艇が埋没していたわけだ。今まさにその潜航艇の艦首部分にいるわけだ。ちょうど損傷した外壁から中に偶然に入り込んだ形になっているのだ。彼は急いでその下に書かれてある艦内図面に目を走らせバルブの位置を確認した。バルブはこの先10メートルの発令室の側面パネルにあった。長い間海中に沈んでいた潜水艇に圧搾空気が残っているのだろうか。だが今はかけるしかない。たどり着くだけで精一杯の距離だった。帰りのエアーはない。

 彼に戸惑いはなかった。誰かが背中を力強く押してくれているような気がした。大きく息を吸い込み、ダイブした。ボンベもレギュレターもない。ここから先もう空気を吸える場所どこにもない。彼はおもいきり足で壁面をけり、神に自らの身を預けた。ほんのわずかの時間が何時間ものように感じた。狭い艦内を通り抜け、前方に発令室らしきところが見えてきた。息苦しい。限界に近づきつつある。だがもう戻るだけの力はない。ライトをあらゆる方向に照らし、バルブをさがす。息がついに尽きかけてきた。視界が次第に狭まってくる。その時、白骨が目に飛び込んできた。それは腕から先しかない手だった。それはなにかをしっかりと握りしめている。バルブだった。赤いバルブだ。彼はその白骨の手の上から自分の手を重ね、全身の力を込めてバルブを回した。これが死の儀式だとしてもかまわないと思った。最初からバルブなど本当は当てにしていなかったのかもしれない。あのまま駆逐艦の乗員の白骨が散らばる空間で死ぬことが耐えられなかったのだ。せめて同胞の乗り込んだ艦艇の中で骨を埋めたかったのかもしれない。信じられないことが起こった。シューというはじけるような音ともに船内に無数の白い泡が充満し始めた。彼は必死でその泡を吸った。天井に空気の層がわずかにできた。60年以上も水没していた潜水艦の艦内の気蓄層に、まだ圧搾空気が残っていたのである。彼の頭が水面に出た。二度手空気が吸えるとは想像もしてなかった。みるみるうちにその空間は広がっていく。と同時に「ガラガラ、ギシギシ」という金属がこすれあう音がし始める。船体がゆっくりと浮き上がっている。艦内の海水が見る間に排水されていく。バルブをつかんでいた白骨の手を彼は無意識のうちに握りしめていた。なぜか恐怖感はなかった。むしろ暖かさとぬくもりを感じた。ふとその白骨の手首になにかが巻かれているのに気づいた。数珠だった。水晶でできた数珠。水面が下がり、数珠が水面上に出たかと思うと、魔法が解けたかのように数珠ははじけ飛び、海中へと沈んでいった。同時に今までバルブを握りしめていた白骨の手も見えなくなった。あの手は潜航艇の乗員の手だったのだろう。特攻を志願した彼も最後の最後で緊急浮上を試みた。生きたかったのだ。艦内の水面が腰の高さまで下がったとき、ザブンという音とともに波の音が飛び込んできた。浮上したのだ。「ゴトン」という音ともに光が差し込んできた。すぐ目の前に一条の光が差し込んでいる。上をみると丸い穴がぽっかりとあき青空が見えた。艦内に漏れ出る圧搾空気の力でハッチが開いたのだ。無我夢中で外に這い出た。

 新鮮な空気が肺の中に流れ込む。彼は目にした。黒々とした円筒形の全長20メートルほどの潜航艇だった。間違いなく旧日本海軍の特殊潜航艇である。しかも特攻作戦用に造られたいわば人間魚雷といわれる部類のものだった。海上に浮上したのもつかの間だった。開いたハッチから艦内の空気が排出されてみるみる内に再び沈み始めた。彼は艦橋から海に飛び込んだ。ゆれる波間から彼はそれを見送った。静かにまた再び艦は海中へと没していった。水底へと沈んでいく途中、駆逐艦のマストに後部のスクリューが絡まった。絡まったというよりお互いが手をつないだかのようにも見えた。潜航艇と駆逐艦は互いにもつれあいながら深い海溝へと沈んでいった。

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