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なれそめシリーズ

国王夫妻のなれそめ

作者: 独蛇夏子

 昼下がりの若木は、透き通る緑色の陰をつくって、麗らかな春の日差しを柔らかく遮っていた。

 樹下では、貴婦人たちが茶会を開いている。

 白いつば広の帽子の横顔は、愛らしい少女のものだ。

 ぷくっとふくらました頬に、流れるような紅の髪が沿う。

 何も見てやるものか、というように閉じられた瞼には紅の長い睫毛が縁取り、眉は不満げに歪められている。


 樹下の少女の母は、ヴェール越しに、そんな娘の様子をしげしげと観察して、やがて微笑んだ。


「まだ怒っているの」


 空は青く晴れ渡っており、穏やかな風が木漏れ日を揺らす。申し分のない気候の午後のお茶であるというのに、娘はまだご立腹らしい。

 娘はイライラした様子で、溜め息をつくとツンとして言った。


「気が済むものですか。お父様は横暴よ」


 途端、母はころころと笑い声を上げた。背後にいる老齢のメイドの苦笑顔と見合わせる。

 ここは王城の敷地内の一画である。気持ちのよい草原に、さまざまな木々が植わる開放的な空間は、王族や城勤めの者、訪れる貴族の気軽な休憩場所だ。

 そんな場所に、丸テーブル、レースのクロス、ティーポットやカップ、お菓子の一式を持ち出して茶会を開いている貴婦人の母娘といえば、このホルン王国のトゥーイム王妃とフレイア王女である。

 なんせ、王妃の赤毛と王女の紅髪は、その人がその人たる証明のようなもので、この国に二人といない。王妃は異民族の国の王室から嫁ぎ、フレイアはその色を受け継いだ。姉と弟は、父譲りの藍色がかった黒髪だったが。


 ふっと、フレイアが目を開けた。

 氷山の分厚い氷の青が込められたような瞳が現れ、むっと母を睨んだ。


「笑いごとではないわ。」


 赤毛をゆるやかに結い上げ、アイボリーのヴェールを被った、美しい貴婦人は、にこにこしてティーカップに口を付ける。


「悪かったわ。それでも、おもしろいんだもの。仕方ないでしょう?」


 全然、「悪かった」と思っていなさそうだ。

 腹の底で不満が燻るが、やれやれとフレイアは肩の力を抜いた。所詮、自分のような小娘が、この国の王妃に敵いっこない。

 それは、この国の国王である、父に対しても同じことがいえる、だが。

 思い出して、むっとする。




 何がフレイアの怒気に触れたかといえば、次の通りである。




 フレイアには幼い頃に昵懇にしていた少年がいた。二つ年上のその少年、ジュアンは、ホルン王国の一地方を治める領主の息子である。

 同年代の貴族子息子女の中でも、フレイアとジュアンはやんちゃな気質が合い、小さなときから城の広い庭を遊び場にして、よく走り回った。フレイアにとって、彼はよき兄貴分であった。

 ジュアンは今、王城の騎士団に入団して鍛錬を積んでいる。成長してからは城で公式の会で顔を合わせるくらいで、めっきり会う機会が減っていたが、この日の朝、久々に再会した。

 背が高くなって、日に焼けたジュアンはとても素敵だった。厳しい訓練の賜物だろう。騎士団に入団する前より、ずっとしっかりして精悍になったように見えた。

 小さい頃は気付かなかったが、ジュアンはとてもハンサムだった。新しい発見をしてフレイアは戸惑った。一緒に遊び回った頃とはもう違うのだと思った。

 そんなジュアンが甘い笑顔で「少し見ない間に綺麗になった気がするな」なんて言うものだから、フレイアは少しぼうっとしていた。

 と、騎士団の生活を熱心に語る幼馴染に見惚れていたその時。


「何をしている」


 鋭い一言に、彼ははっとして、すぐさま膝をついた。

 フレイアが振り返ると、藍色がかった黒髪に、氷山の青を思わせる凍てついた瞳、岩盤が聳え立つかのような威圧感をもつ、頑健な大男が、大臣連を引きつれて、渡り廊下に立っていた。

 フレイアの父であり、国王である、シャインだった。

 城の会議室と騎士団の鍛錬所は近く、城から鍛錬所に続く渡り廊下は外から見えるようになっている。大臣連を引きつれて城の廊下を移動していた父は、そこから娘の姿を認めたのだろう。

 幼馴染との楽しい時間を邪魔されて、フレイアはむっとした。


「ご機嫌よう、お父様。久しく会っていなかったジュアンと偶然会いましたので、話をしていたのです」


 シャインは膝をついたジュアンの前に来て、見下ろした。


「騎士団の若手はこんなところで立ち話している余裕があるのか」


 低く轟くような声に、ジュアンの肩は震えたようだった。

 思った以上の父の厳しさに、フレイアは慌てた。フレイアが家庭教師に呼ばれて騎士団の鍛錬所を見学しに行く途中で、ジュアンにばったり出会っただけだった。ジュアンもこんなところで懐かしい幼馴染に会わなければ、立ち話などしなかったに違いない。

 伝えなければ、とフレイアは口を開いた。


「おとうさ・・・」

「来い。私が鍛錬の成果をみてやろう」


 有無を言わせず、シャインは決定を下し、戸惑うジュアンを立ち上がらせ、渡り廊下を引きずって行った。唖然としたフレイアは、その後を慌てて追いかけた。

 大臣連は微笑ましいような表情を浮かべたり、苦笑しているような顔つきで、若い騎士を引きずる王と紅い髪を揺らして追いかける王女の後を、少し間隔を空けてついていった。


 その後はひどかった。突然の国王の来訪に硬直した騎士鍛錬所の面々を前に、シャインはジュアンに調練用の木刀を持たせ、相対した。

 壮年に差し掛かった年齢にあるのに関わらず、シャインは恐ろしいばかりに強かった。

 懸命に踏み込み、切りかかるジュアンだったが、片腕で木刀を振るうシャインに一度として報いることができなかった。

 精悍にみえたその姿も、岩壁のように立ちはだかる王の前には頼りなく、幾度となく薙ぎ払われて、鍛錬所の地面に叩きつけられた。

 あまりのことに、フレイアは声も上げられず、ただひたすらはらはらして見ているしかなかった。暴挙でしかない王の所業に、大臣連も済ました顔をして見物しているばかりである。

 一度、そばにいた重鎮に「やめるように言ってもらえませんか」と言ってはみたが、大臣はにべもなく「とんでもありません」と断った。


「王女様に関わりのあることですぞ。我輩は当然の処置と存じますな」


 誰も助けようという気持ちにはならないらしい。

 やきもきしているところに、分厚いレンズの黒縁眼鏡をかけ、黒髪をきっちり撫でつけた家庭教師クロッサもやってきた。王が少年を叩きのめしているのを看取すると、おや、という表情をしたが、少年がフレイアの幼馴染のジュアンだと分かると、得心いった顔で大臣たちと同じく大人しく見守る側に回った。

 散々地面に転がされたジュアンは、ついに息も絶え絶えに仰向けに倒れた。

 思わず駆け寄りたくなったが、シャインの低い声にフレイアはびくりとして(とど)まった。


「これしきのことで音を上げるとは、鍛錬が足りないようだ。見習いとはいえ王城の騎士団の一員である心得を何とする。しっかり励め」


 冷や汗をかいている騎士団の高官に木刀を渡すと、シャインは最早何も意に介さないといった態で颯爽と鍛錬所を立ち去った。

 高い壁のように聳える父の黒いマントの背中姿に、フレイアは何一つ声をかけることを許されなかった。

 王の後について、肩をすくめたり、気の毒そうに転がる若騎士を一瞥したりしながら、大臣たちがぞろぞろと退散した。同輩や先輩の騎士たちに囲まれて、まだ寝転んだまま荒い息に胸を上下させているジュアンの姿を呆然と見つめていたフレイアは、クロッサが「鍛錬所の見学はもう十分でしょう。座学に致しましょうか」と声をかけて連れ出した。


 王城の教室に戻るまで、半ば呆然としていたフレイアだったが、クロッサに事情を聞かれて説明していくうちにじわじわと怒りが湧いてきて、教室に着くや否や「何なの、あれっ」と爆発させた。


「何も聞かずにジュアンをめっためたにするなんて!信じられない!」

「フレイアさま、言葉遣いが少々荒いかと存じます」

「皆、しらっとして助けもしないし!あの人、まだ入団して半年よ。お父様に勝てるわけがないじゃない、毎年剣闘会で無敗の最終関門になっているくらいなんだからっ」


 剣闘会とは、毎年春祭りに行われる行事である。国内の剣士が集まり、一対一で戦って、最強を競うのだ。

 一般の部と、王と騎士団が参加する部とで分け、トーナメント戦を行い、最後にそれぞれのグループで一番になった者が戦う。王太子時代からその行事に参加しているシャインは、国内外に認められる剣豪であり、長じてからは一度として、最強の座を下ろされたことがないという。

 今年の春祭りでも、四十になるのに関わらず、シャインは騎士団の剣士を軒並み倒し、一般で勝ち上がってきた剣士にも勝利して、未だに無敗を誇っている。

 騎士団に入ったばかりのジュアンが、最初から敵いっこないのだ。


 フレイアの台詞に、クロッサは分厚いレンズの向こうの垂れ目端でフレイアを見下ろし、やや呆れたように言った。


「騎士は強くあって欲しいものです。王に負けないくらいに。そうでなくて、誰が国家を、国民を、守れますか」

「・・・そうだけど」

「それに、最強の王と、木刀とはいえ直接剣を交える機会など、若輩者にはありません。フレイアさまのおっしゃる通り、彼はトーナメントに出場しても、一回戦か二回戦で負けるほどの者でしょう。私はむしろ、王は格別に目をおかけになったと思いますね」


 ぐっと言葉に詰まる。なるほど、そうかも知れない。

 しかし。フレイアはまだ納得できなかった。

 久々に会えた幼馴染へのときめきをぶち壊し、ただ廊下で話していただけなのに、理由も聞かず「騎士団はそんなに余裕があるのか」とジュアンが怠けていると決めつけた。おまけに力づくでジュアンを叩きのめした。クロッサの言う通り、いい機会だったのかも知れない。だが、多くの人の前で立ち上がれなくなるほど打たれるなど、ジュアンにとって屈辱に違いない。

 父は元来、厳しくて、フレイアに畏怖を与える存在だったが、理不尽なことはしない人のはずであった。


「でも、横暴だわ」


 フレイアは父と同じ色の瞳でクロッサを真っ直ぐ見つめ、言った。


「わざわざ、大勢の紳士や、仲間の前で、恥をかかせたようなものじゃないの」


 クロッサはゆっくり、頷いた。彼は王の味方のようだったが、フレイアの言うことにも一理あると思っている。それを知って、少しフレイアはほっとした。

 ふと、フレイアは、やめさせてくれないかと大臣に声をかけたときに返された言葉を思い出した。まるで、フレイアが関わったがためと言っているようだった。

 そう思うと急に心配になった。


「それとも、わたくしが何かしたのかしら、知らないうちに」


 自らに問いかけるように口に出したフレイアに、クロッサはふっと表情を緩ませた。


「トゥーイムさまに、似てこられましたね」


 唐突に言われて、フレイアは目を丸くした。


「王さまも、そう思っておいでなのでしょう」


 それはどういうこと、と詰め寄ろうとしたとき、従者がやってきて王がクロッサを呼んでいると言った。

 もやもやしたままクロッサを見送らざるを得ないフレイアに、クロッサは微笑みかけてこう言い残していった。


「きっと私は注意されますよ。今度は貴女さまにしっかりついていて、変な虫がつかないよう見ていなさい、とね」





「あったまきたーーーーーーーーーー!!!わたくしが!彼に見惚れていたからって!!」

「見惚れていたのね」


 クロッサとのやりとりを話し終えて、再び噴火した娘を母は目を丸くして見つめる。

 頬を紅潮させ、腹立たしさを全身で表したフレイアは、それでも丁寧にティーカップを持ち上げて、高貴な身分の娘らしく紅茶を一口飲んだ。


「だって久し振りに会って、本当に素敵になったと思ったのよ。少しときめいたって、いいじゃない。何も、わたくしがその場で恋に落ちたわけではあるまいに」

「だけど、分かっているわね?王家の結婚は、ただの結婚にはならないと」


 涼しげに、さらっと言った母の言葉に、フレイアは黙らざるを得なかった。

 カップに添えていた手を膝の上に置いて、仏頂面で答える。


「分かってます。だからって、素敵になった幼馴染と話せて、嬉しかったのに」

「そうだって、ジュアンも身分ある男子ですよ。彼にとっても結婚は意味あるもの。特に、貴女となら尚更。火遊びの相手であっても、貴女は国の中枢にいる王女。貴女には彼に様々な恩恵を与えることができる」


 トゥーイム王妃の、猫目石のような色合いを持った茶の瞳が、悪戯っぽくキラリと光った。


「小さな恋心もそのままにしておけば、政を左右する事態になりかねない」


 そんなつもりは毛頭ない、とか、ジュアンはそんな人間ではない、とか、反論したくなることはたくさんあるが、フレイアには結局返す言葉はない。

 母の、押しつけがましくない、しかし人を動かすに長けた言い方には、フレイアも納得せざるを得ない。

 そんなつもりは毛頭なくても、いつかはそうなるかも知れないし、ジュアンが人を利用する人間ではないと、信じてはいても、そこまでジュアンと今は親しくないのは確かだ。

 自分の行動が浅はかであったことを、認めないわけにはいかないのだ。


 ふっとついた溜め息が、春風に攫われた。

 母のアイボリーのヴェールがふわりと浮かび、ごく自然にその紅い唇にカップをつけ、紅茶を飲む様が見えた。

 フレイアは、こうしたふとした瞬間に、母が空気をも身に纏い、遣わせているのかと錯覚することがある。

 背後につき従うメイドを、近くに見える城にいる臣家たちを、遥かに広がる山麓に守られた国土に住まう国民を、アイボリーの簡素なデザインだが最高級品である絹で作られたドレスを自然に着こなしているのと同じように、当たり前に背負っている。

 無理矢理にではなく、また拒まれることもなく、日の光りや若葉の緑に溶け込んで、存在を放っている。


「レイは十五になるわね」


 半ば夢心地だったフレイアは、目をぱちくりさせて答えた。


「ええ」

「そう。わたくしは十五のときこの国に嫁いだわ」


 少し考えて、フレイアはそうだった、と思い出した。

 母は異民族・異国の王室の王女である。それも、休戦中の平和条約を担ってこの国に嫁いできた、仇敵の姫君だ。


 今でこそ平和なホルン王国だが、フレイアの曽祖父の代まで戦争が絶えなかった。

 フレイアの曽祖父が為した政治の大部分は、地方の有力諸侯を制圧し、国を領邦国家として一つにまとめる大事業にあったといっていい。フレイアの曽祖父レイファは、内紛の絶えなかったホルン王国を武力を以て制圧し、ホルン王家と中央政権の威光を国内の隅々まで行き渡らせた。その安定した政治は、平和な生活を国民にもたらし、武王といわれながらレイファは未だに誉れ高い王として有名である。

 しかし、その晩年に起こした侵略戦争だけは、後世への負の遺産となった。

 ホルン王国は四方を山に囲まれた国である。その南の山を越えたところに大河があり、その向こうに、海に面したサウラ=フィフィール王国がある。レイファは、晩年になって、大河を越えて木を伐り倒し、開発を進めていたことを理由に、サウラ=フィフィール王国にいきなり宣戦布告をしたのである。

 長年戦に明け暮れた習性とも、耄碌ともいわれている戦争は、泥沼の長期戦となった。

 海洋国家のサウラ=フィフィール王国は商人の国であり、七つの群島をも支配下に置いている富裕な国家であった。ホルン王国とは親密でないにしても、民間交易は行っていたし小競り合いもなかった。ほんの少し前まで、ホルン王国は国内の内紛で手一杯であったので、境界となっていた大河を越えて開発を進めていたのは、そうしたホルンの状況をサウラ=フィフィールが侮っていたがゆえともいえよう。

 交渉もなく、いきなり向けられた宣戦布告は、サウラ=フィフィール側にとっては寝耳に水であった。

 戦争に長けているホルン王国であっても、山を越えた土地は基本的に慣れぬ土地であり、サウラ=フィフィール王国はその財と通商を駆使して珍しい兵器を次々に仕入れ、実践することによって善戦した。その結果、ホルン王国は大河の向こうにフィフィールの民を追いやることまでは出来たが、その後は苦戦し、両者は大河を挟んで睨み合いになった。

 この両国の膠着状態を外交問題として受け継いだのが、シャインの父であるライナ王だった。

 ライナ王は父レイファから受け継いだ武の精神と、国民の支持があって、当初は徹底抗戦の姿勢をとっていたものの、長引く膠着状態に財政難や物資不足が慢性化するようになっていく状況に年々悩まされた。負担を強いられる諸侯の不満も募り、国内に争いの火種の気配がみえはじめ、ライナ王は王太子シャインが長じてくるにつれて、戦争を継続するデメリットを強く意識するようになった。やがて、戦争に疲れきた国民の雰囲気が生じた頃、重臣たちの進言もあって、ライナ王は事態収拾へと舵を切る決意をした。

 ライナ王は何度か使者を立て、サウラ=フィフィール王国のスライナス王に向けて和平交渉の意向を伝え続けた。スライナス王は何度も使者を跳ね除けた後、内密に使者を送り出し、ライナ王に交渉を持ちかけた。商売相手になりうる国相手に莫大な財を投じて戦争を続けるのはサウラ=フィフィールにとっても得策ではなかったのである。しかし、簡単に交渉に応じる意思はなかった。

 戦争によって人が死んでいる限り、平然と和平を結ぶことは出来ない。戦争によって植えつけられた国民の敵愾心は、理屈で説得できるものではないのだ。

 和平交渉は段階的に、まず休戦協定から始めることにし、ライナ王とスライナス王は内密に交渉を続け、やがて両国の落としどころを決めた。大河を挟むことによる両国の境界、共同で駐屯基地を造営し交流の場とすること、正式な国交の取り決め、といった種々の条件だが、大前提となったのが、両王家の婚姻であった。ホルン王国の王太子シャインにフィフィール王室から妃を娶り、シャインと妃の間に生まれた子を、更にフィフィール王室の子と婚姻を挙げさせる。休戦を長期化させ、段階的に和平を成立させるために練られた計画だった。

 王たちが内密に取り決めたこの長期的な和平成立計画に、ホルン王国の重鎮たちもサウラ=フィフィール王国の中枢部も「気が遠くなりそうな難事」と唸り声を上げたが、結局は受け容れ、婚姻関係の約束を大前提とした和平計画を内外に情報開示して、ようやく両国は長引いた戦争を休戦へと転換させる好機を得た。


 ここで、ホルン王国の王太子シャインに嫁ぐ姫として白羽の矢が立ったのが、スライナス王の十三番目の娘であるトゥーイムであった。

 十五で嫁いできた貴き異国の少女の姿は語り草である。

 新しくやってきた王妃となる姫のお披露目の日、多くの人々が、庁舎を兼ねた城の、広場に押しかけた。

 その日は長年の仇敵相手に、休戦条約の第一歩を、踏み出す日でもあった。

 バルコニーに現れた少女は、ホルンの人々が見た事のない青色をした紗をすっぽりと纏っていた。

 たっぷりと薄絹を使った、海を写したドレスをひらひらと揺らめかせて登場した少女は、仇国の王女でもあった。

 ヴェールを被る姿は、人々の目には不遜に映った。ホルンに心を開かない姿勢に見えたのである。

 不審と敵意との目に晒されていた少女は、突如、ひょいと白岩で造られたバルコニーの上に乗り、座り込んだ。

 細長い、赤茶の木に弦を張った楽器を膝に抱え、弦に手を添えると、ざわめく民衆の中で、その弦楽器を爪弾き始めた。

 物悲しい、聴いたこともない独特のメロディーに、広間は静まっていき、少女はやがてよく通る声で歌い始めた。



  海底に孤独な少女

  波に髪を揺らして

  極彩を拒み透明な闇に溶けた

  去る日の得られぬ愛に

  胸の紅玉は割れそうに焦がれ

  深き真澄の海水に秘して

  誰が拭うでもない涙を流す

 


 

 異国の言葉の甘やかな歌声は、ホルンの人々が臨んだことのない海に、溶けて広がるように広場に浸透していき、伝わっていった。

 歌詞が分かれば「故国に恋人でも残してきたのか」と穿鑿(せんさく)されただろうが、そのときはフィフィール語が分かる者は少なく、楽器の旋律と少女の歌声だけが多くの人々に受け容れられた。

 人々は切ない叙情に聞き惚れ、涙を流す者までいた。


 フィフィールに伝わる民謡のようなものよ。私もとても好きな曲で、人の心を揺さぶる曲だと思うから、どう思われようとこの歌を皆の前で歌おうと思ったわ。あまり言葉が分かる人がいなかったのは、幸運な誤算だったかも知れないわね。

 歌なら、旋律なら、きっと何かが伝わると思ったわ、敵国の民も血が通い、心があるのだと。


 後にトゥーイム王妃はこう語ったという。

 交流の絶えた国同士を繋ぐため、少女が腐心したゆえの、歌声だった。


 やがて歌い終わった少女は、紗のヴェールを脱ぎ、バルコニーの上に立ち上がった。

 癖のある長い赤い髪が露わになり、風に流れた。愛らしい顔立ちの小麦色の肌の少女が微笑む。すると、水を打ったように静まり返っていた広間から一斉に「トゥーイム王女、我らが王太子妃、万歳!」と声が上がった。

 割れんばかりの歓声を堂々とトゥーイムは受け止め、青い紗の装束は風に靡き、赤い髪は翻り、まるで風をも従えて降り立った女神のようだった。

 その背後では、和平交渉に来たサウラ=フィフィール国の大使や付き人をはじめ、ホルン王家・大臣各位、ライナ王と王太子シャインが蒼白になってバルコニーから落ちやしないかとやきもきしていたそうだが。


 ともかくも、この型破りの王女は、敵国の姫でありながら異例の大歓迎によって受け容れられることになった。

 その伝説じみた話が、母の功績であると、フレイアは時々忘れてしまう。

 ホルン王国とサウラ=フィフィール王国の通商友好関係が思いのほかスムーズに進み、正式な国交回復や民間交流の復活が早かったのは、トゥーイム王妃の影響が強いといわれている。

 トゥーイム王妃が歌ったそのサウラ=フィフィール王国の民謡は、ホルン王国で翻訳され、歌われるようになった第一の歌であり、今は人々の間で愛され、口元に上るお馴染みの歌となった。

 トゥーイム王妃がサウラ=フィフィール王国から持ち込んだ楽器は輸入が推進され、王妃はホルン国内のものも含めたさまざまな楽器の弾き方を教える教育機関を設立、その他絵画や彫刻といった美術や文芸を手厚く保護した。

 田畑が不作のときは、不毛な土地でも育つ食物の種を検討して、サウラ=フィフィール王国を始めとした外国から知識を取り入れ、研究機関の発展に寄与し、農業の革新にも努めた。

 厳めしい王の隣に可憐に寄り添い、武骨なイメージのあった王家に和らぎを与えた。

 とかく、仇敵の姫君というにしては破格の人気を得て、母は完全にホルン王国に根付いている。


 母は今年三十五である。年相応の美しさを持ち、馴染みやすい愛らしさは人を威圧しない。

 その母が十五の、自分と同じ年齢のときに、結婚が決まっていて、敵国に嫁がなければならなかったなんて、フレイアには実感が湧かなかった。実際、母は自分の功績など娘に語らないし、誇らない。それを意識させないのだ。

 だからこそ、フレイアは母の逸話を思い出して、今の自分と比較し、安穏と暮らしているこの身を理解する。母は十五の時には、国と和平をその双肩に担っていたのだ。そんな母からしてみれば、幼馴染と再会して浮ついているフレイアは、甘っちょろいだろう。

 母を尊敬する気持ちになって、フレイアは聞いた。


「見も知らぬ異国に嫁ぐのは、不安だった?」

「勿論よ」


 トゥーイムはあっさり、肯定した。


「打倒ホルンだ向こうの王や王子は鬼だ化け物だと言われながら育ってきたのよ。嫁ぐなんて嫌で嫌でたまらなかったわ」


 フレイアはずっこけそうになった。


「ずいぶん酷いのね・・・」

「戦争なんてそんなものよ。酷いところに嫁がされると、お母様のお母様にも姉妹兄弟にも哀れがられて泣かれたわ」


 父の厳しく、畏怖を与える偉容を思い浮かべる。確かに怖いが、母のことは心底大事にしているように見えるし、母も父に心を許して頼っている。黒い鉄壁のような父と野に咲く花のような母が並ぶと、デコボコ夫婦だと貴族たちからからかわれるそうだが、仲睦まじいのが知られている上でだ。

 もやもやした気持ちで、涼しげにお茶を飲む母をフレイアは見つめた。


「じゃあ、ホルン王国なんて嫌いだった?」

「そうね、ここだけの話、嫌いだと思っていたわ」

「そうなの」

「でもスライナス父様に、向こうの王様は話が分かる人だし、きっと大丈夫だと思う、両国の和平のために精一杯やってくれ、って言われたわ。戦争で失う人がいないようにするために、トゥーの力を借りたいのだと」


 トゥーイムはフレイアににこりと微笑みかけた。


「貴女はサウラ=フィフィール王国に行ったことがあるでしょ」

「そうね」

「貴女のお姉様はサウラ=フィフィールの王子様に嫁がれた」

「素敵だったわ」

「お姉様は嫌われていた?」

「いいえ」


 十八のフレイアの姉、リィンルーは、昨年サウラ=フィフィール王国の王太子に嫁いだ。

 例の休戦の条件により、生まれたときからサウラ=フィフィール王国に嫁ぐことが決まっていた姉だったが、父譲りの黒髪と母の猫目石の瞳が魅惑的な女性であり、幼いころから度々サウラ=フィフィール王国に滞在しながら育ち、懸命に両国の文化を学んだ。幸い王太子と仲が良く、努力実って両国の文化と王室に通じ、フィフィール語も自在に操るようになったリィンルーは、両国念願の完全なる和平を担って嫁ぎ、ホルン王国とサウラ=フィフィール王国の戦争はようやく終結した。

 国を空けて、ホルン国王一家はリィンルーの結婚式に出席した。海辺の国家は眩いばかりの太陽と白亜の城と、青海原の世界であり、高貴な紳士たちは宝石で自らを飾り、姫君たちは色とりどりの紗のヴェールを被っていた。

 夢のように美しい結婚式の最高の華は、姉のリィンルーであった。溜め息の出そうなくらい豪奢な金糸の婚礼衣装に王冠を被って、背筋を伸ばし凛として、王太子に寄り添って微笑み合う姿は、絵物語の一場面と見まごうようだった。

 街には人々が押し寄せ、色とりどりの花を街路に撒き、酒に興じ、声を上げて、王太子と王太子妃の婚姻を盛大に祝っていた。


「そう、ホルンの人々が、それからフィフィールの国の人たちが頑張ったからよ。いつか憎み合わない日が、貴女たちのようにまっさらな心で分かり合える者同士がいるようになってくると信じて」


 帰国後、国王がいない間の代行を務めた、叔父であるガウスに夢中で話してしまったほど、フレイアはサウラ=フィフィール王国にすっかり魅せられてしまった。

 父の弟であるガウスは普段は、王立図書館の館長に引きこもっている。見た目は父とそっくりだが、身体の線は細く、柔和な笑みを浮かべているので全く違う印象の人物だ。

「それほど綺麗だったかね、リィンルーは。よかったね、お姉様のお蔭で平和は保たれるし、レイは好きな人と結婚できるね。レイまでフィフィールに行きたいなんて言わないでおくれよ、叔父さんは可愛い姪っ子がいなくなるのは悲しくて仕方ないんだ」

 よく考えると、叔父の言葉には複雑な思いが滲み出ていたと思う。生まれたときから政略結婚が決まっていた姉に憐れみを感じていたのだろうし、無邪気に興奮するフレイアとて結婚できる年齢になった。戦争をしていた時代を知っていて、休戦への経緯をずっと見守ってきた叔父にとって、サウラ=フィフィール王国は複雑な思いを抱いている国なのだろう。

 柔和な文人風で、王立図書館の館長などをしているから忘れられがちだが、叔父も自分の身長の一・五倍はある棘つき鉄球を鉄鎖でぶんぶん振り回すような武闘派だ。

 シャインとトゥーイムがホルン王と王妃に即位した当時、

「王様とお妃様をはじめとするみんなが幸せそうならそれでいいけどね。そうじゃなかったら、僕は暴れるよ?」

 と、にこりと笑って発言し、周囲を震え上がらせたという話も伝わっている。

 話で聞いているほど、ホルンとフィフィールの関係は、すんなりといったものではないのだろう。


「まあ、貴女もそういう年齢になったのだし、ある程度は自由に結婚相手を考えられるのだから、むしろ自分でしっかり認識をしておいた方がいいわよ。お父様も心配なのよ、多めにみてあげて」


 自分も、重大事を任されてもおかしくない年齢なのだ。多めにみてあげて、と言われて、フレイアはぶすっとして頷いた。結局自分は子供っぽいのだろう。

 そんなフレイアに、トゥーイムは艱難辛苦を乗り越えてきた王妃とは思えないほど、晴れ晴れとした笑顔をみせる。

 フレイアは首を傾げた。姉だって緊張していたようだった。母は何故、今、こんなにも伸び伸びとしていられるのだろう。


「ねぇお母様」

「ん?」

「お父様と結婚して大変じゃなかった?」


 聞いた途端、高らかに笑い声を上げたトゥーイムに、フレイアはぎょっとした。


「な、何?」

「あの方も損な方ね」


 苦笑いする老齢のメイドと顔を見合わせて、紅茶のお代わりをもらう。

 コポコポと注がれる紅茶を横目に、戸惑いながらフレイアはトゥーイムに問う。


「何が損なの?」

「あなた、お父様を随分怖い人だと思っているのね」

「だって」


 怖いじゃない、とジュアンを叩きのめした父を思い出して顔を引きつらせる。

 トゥーイムは笑って、話しかけた。


「お父様も不器用なのよ。王の風格としてはあれでばっちりだし、厳しい方だとは思いますけど。あのね、お母様はね、お父様に嫁ぐのが嫌で嫌で仕方なかったのよ」

「さっきの話?」

「そうよ。お母様のお母様には怖ろしい人間に嫁がされて可哀そうだって泣かれるし、鬼だ悪魔だって言われているし。お姉様方には哀れがられる。どんな怖い人だろう、きっと酷い人なんだろう、それでも私は堪えてみせるって覚悟を決めて嫁いだわ」


 ふふ、とトゥーイムは肩を震わせた。


「頑なに、絶対負けてなるものかって思って、暫くは過ごしていたの」


 フレイアは青い双眸をぱちくりとさせた。


「でも、お父様は怖いけど、酷い方ではないわ」

「ええ、勿論」

「お父様とお母様は、仲が良いじゃない」

「ええそうよ」

「信じられない」


 悪戯っぽく笑ったトゥーイムは、娘にウインクしてみせた。


「ここだけの話よ。お父様とお母様のなれそめを教えてあげる」




 国民を前に歌ってみせ、異例の大歓迎を受けてから半年。

 とっくに婚礼も上げ、初夜も過ごし、トゥーイムが慣れないホルンでの生活にようやく馴染んできた頃の事。

 ホルン国北方の領への三週間の視察が急に決まった。しかも夫婦で行くのだそうだ。シャインが決めたことと付き人から聞いて、トゥーイムはなんて人だと激怒した。

 山の上の国であるホルンは寒く、海辺の温暖な気候の国で過ごしてきたトゥーイムは、比較的暖に配慮された居城でも度々体調を崩していた。

 それがホルン国の、城のある地域より更に北方の領に視察。トゥーイムの体調不良がシャインに伝わっていないはずがないので、全く配慮のない行程にショックを受けた。

 ある程度の軋轢は覚悟していたが、配慮のない不当な扱いには断固として抗議する。このままではいけないと、やや体調を回復したトゥーイムは、会議終わりの王子を尋ねて王城の廊下をずんずんと進んだ。

 父に懇願されて、嫁いだ敵国の王太子は、聞いていた通りの威圧的な人物であった。藍色がかった黒髪に冷たい青い瞳。彫りが深く美しい顔立ちをしているが、無表情で人間味がない。氷のような瞳をした彫像と、ある意味、鬼より恐ろしい王子だった。

 半年経って、威圧的であるものの、横暴でもないし、議論の場できちんと応対し、トゥーイムの意見も反映させて国政に参加させていたので、トゥーイムはそれほど悪い人ではないという認識を持っていた。

 それだけに、その仕打ちにトゥーイムはがっかりした。サウラ=フィフィールから来た姫が気に入らないのだと思った。やはり、国の会議に参加し、外交だけならず、内政にも口を出す異国女に反感を持つのは避けられないのだと、自分が成さねばならない使命の壁の厚さを実感したといっていい。

 しかし、真に和平を結ぶには、トゥーイムはホルンに溶け込まなくてはならない。国民から信頼を得、やがてサウラ=フィフィールに送り出す自分の子供を、認めてもらわねばならない。トゥーイムは形式だけの王妃に収まる気はさらさらなかった。

 それならば、自分が不利な状況に追い込まれる、その素地を作ってはならない。初めが肝心なのだ。トゥーイムを貶めればホルンにとってもよくないと、尊厳を保てと王太子に訴えなければ。

 王太子の執務室の前にいた衛兵は、王太子妃の登場に目を丸くした。


「トゥーイムさま、体調がお悪いのでは」

「王太子は中にいますね」


 慌てて、衛兵は扉を開けた。

 執務机で書類を見ていたシャインは、トゥーイムの姿を認めると立ち上がった。

 シャインの背後の窓外は、雪が降って真っ白だった。部屋の中では、暖炉の薪がぱちぱちと音を立ててオレンジ色の火で燃えている。廊下にも分厚い絨毯が敷いてあったが、暖房が効いたこの部屋は格段に暖かい。

 トゥーイムはつかつかと執務机の前まで来ると、腰に手を当ててシャインの顔をぐっと睨み上げた。鉄壁の如く背が高いが、怖くなんかない。スライナス王はもっと荒くれた雰囲気の偉丈夫だった。

 憮然とした様子でシャインはトゥーイムを見下ろし、話しかけた。


「体調はどうした」

「会議をお休みして申し訳ありません」

「いや。あとで楽器の輸入についてと工房の設立について書類を届けようと思っていたのだ」


 暢気に書類の中を探し始めるシャインに、トゥーイムは鋭く言った。


「北方への視察とはどういうことですか」

「今週末のか。私が決めた」

「行けません」


 手を止めて、シャインは鋭利な目線でトゥーイムを見た。


「もう領主に使いをやった」

「殿下お一人で行って下さい」

「国政のひとつでもあるのだ。それぞれの領に赴くことで、中央集権を知らしめる」


 国政、と言われてぐっと詰まる。ホルンの情勢を知らねばならないのは承知している。公務に穴を開けるわけにはいかないのだ。

 しかし、引きたくはなかった。


「だからといって、この時季に行かなくても。わたしの体調を知っているでしょう」

「だからダウス山麓の方へ視察を決めたのだ」


 だから?トゥーイムの体調が悪化するかも知れないことを考慮したとでも言うのだろうか。

 この悪魔、と罵る声が、頭の中で響く。鋼鉄のような色の黒髪も、冷たい瞳も、この男の残虐な悪心の表れなのだ。

 痛む頭に手を当てると、シャインは目を瞬かせた。


「顔色が悪い。寝床に戻ったらどうだ」

「大丈夫です」


 すると、シャインが眉間に皺を寄せて凶悪な顔をしたので、少なからずトゥーイムはぎょっとした。

 何ですか、と声をかける前に、シャインは机を周ってトゥーイムのそばに来て、やや強引に肩を抱いて、応接間のソファに誘導して座らせた。

 ぽかんとしていると、シャインは次に毛織物の温かいひざ掛けを持って来て、トゥーイムの膝にかけた。

 何が起きたのか分からず、呆気にとられていると、シャインがトゥーイムの隣に座って苛立たしげに尋ねた。


「何が嫌なんだ。筋の通らない我が儘を言っているように聞こえるぞ」


 むっとして、トゥーイムはシャインの冷たい双眸を見上げた。


「別にそうした私心ではありません」

「意味が分からん」

「こっちが辛いのに、更に寒いところに連れて行こうとするのはあなたじゃないですか。わたしの立場を侮られては困ります。それを言いに来たんです」


 一瞬シャインは怒ったような顔をしたが、ふと困惑したように明後日の方向を見て、それからトゥーイムに再度問うた。


「温泉は嫌いなのか」


 トゥーイムは固まった。


 お ん せ ん 。


 口を開けてトゥーイムはシャインの真剣な顔をまじまじと見つめた。

 拍子抜けしてしまった。いつも「○○は~でなければならない」とか「○○は~であるべきだ」とか「○○せよ」とかそんな口調ばかりのこの鉄面皮から、まさか「温泉」という言葉が飛び出て来るとは思わなかった。

 黙ったままじろじろ見てくるトゥーイムに、シャインは困ったふうに「公務は建前のようなものだぞ」と呟いた。

 この間にトゥーイムの中に去来し、混在した思いは計り知れない。

 温泉は嫌いではない。むしろ好きでフィフィールの群島に遊びに行くときはよく入っていた。というかダウス山麓と温泉はどういう関係があるのだ。

 というか「公務は建前のようなもの」て。

 この鉄面皮が「温泉」て。「温泉は嫌いなのか」て。

 公務以外で温泉て一体どういうつもりだ。

 やや困惑を引きずりながら、トゥーイムは問うた。


「ダウス山麓と温泉は関係が?」


 王太子が今回の急な視察を決めたと付き人が言っていたので答えられないわけがないだろう。

 シャインは一瞬言葉を失くしてから、頷いた。


「ダウス山麓の温泉は冷えや疲労回復に効果があるといわれている。初めて行くところだから疲れもするとは思うが、ゆっくり療養できるようにする。トゥーイム・・・殿は結婚してから休みなしに働いている。常に緊張しているようにも見える。・・・まともに休まないと、倒れてしまうぞ」


 説得するように懇々と言われて、トゥーイムの頭の中は真っ白になった。

 いつも会議では議論を交わしていた。が、なんだ、この至れり尽くせりの発言は。本当に目の前にいるのは鉄面皮の鬼な王太子か。

 と、ここまで考えて、トゥーイムははっとした。

 会議での議論以外でまともに話をしたことがない気がする。

 黙ったままのトゥーイムに何を思ったのか、シャインは苦々しい表情になった。


「トゥーイム殿の立場を侮るつもりはなかった。あなたは我が国のことをよく勉強しているので、ダウスが温泉地であるととっくに知っているものと思っていたのだ」


 また「温泉」。

 停止状態に陥っているトゥーイムは一つ理解した。

 この彫刻鉄面皮はトゥーイムを温泉に連れ出そうと説得を試みているのだと。

 具合の良くないトゥーイムを寒い地方に連れていって病状が悪化するのを期待しているのではなく、なかなか休もうとしないトゥーイムを公務と休養を兼ねて城から連れ出そうとしている。

 にわかには信じられないことに気が付いて、トゥーイムは珍妙なものを見る目でシャインをまじまじと見つめた。

 シャインはやや引いて、その眼差しを受け止め、躊躇しいしい尋ねかけた。


「それとも、私のことがそんなに嫌いなのか」


 トゥーイムは吹き出しかけてソファの肘掛に倒れ込んだ。

 まさかの展開すぎてついていけない。しかし笑ったらあまりに失礼だ。間違いでなければ、シャインは今の問いかけを気にしている。

 やや混乱しながら、トゥーイムはどうしてこんなことになったのかと考えた。目の前の人物は、本当にトゥーイムの感情を気にするような人物だったろうか。

 あまり言葉は交わさず、顔も見ないようにしてきた。恐ろしい人物に、自分は御せぬ姫なのだとトゥーイムは態度で示してきたつもりだった。しかし、そういえば今まで無体なことはされなかった、と思う。命令口調や威圧的な言葉遣いにイラっとすることはあったが、国民の前に出るときや、パーティーのとき、夜も、不愉快な思いをしたことはない。

 なるべくトゥーイムに寄り添い、しかし近づき過ぎないようにしていたのだろうか。

 そういえば、と思い出した。妃となった当時から、王太子妃の部屋に、紗幕を張って絨毯を敷いた一画が作られていた。フィフィール様式に倣ったその空間は、トゥーイムの憩いの場である。付き人もフィフィール人で、ホルン国でついたメイドは日常会話程度のフィフィール語ができる者だ。ヴェールはこちらに来てからあからさまに顔を隠すものは止めたが、ないと落ち着かないので、フィフィールのものより小さく薄いホルンのものを日常的に付けている。ホルンの婦人はそんな飾りのヴェールも付ける習慣がないらしいが、今までそれを咎められたことはない。

 よくよく考えてみれば、ホルンに来てからのトゥーイムの生活様式は、王太子が「是」としていたからまかり通っていたのであろう。紗幕など部屋の配慮だって、誰かがそれを気遣ったからなされていたのだ。


 どうしてこれまで気付かなかったのだろう。トゥーイムはちくりと痛む胸に手をあて、瞬時に理解した。なんだ。いつも政治の議論以外で話をしたくないという態度をとってきたのは自分の方だ。完全に自分はシャインに鬼のような心しかないものだと思って、背を向けていた。

 別にそういうわけではない、と前提に考えれば、最初からシャインはトゥーイムを気遣って、近づこうとしていた。シャインは時折、フィフィール語でトゥーイムのホルン語を正してくれる。ホルン国にとってマイナーなはずのフィフィール語を、シャインは学び、支障のないようにしてくれていた。


 鬼。化け物。人でなしの王子に嫁ぐなんて可哀そうな子。敵国の人々に、ゆめゆめ負けるでない。


 その言葉たちは、この国に来てから王太子やホルンの人々から受け取ったトゥーイムの印象ではなく、サウラ=フィフィールで戦争に神経をすり減らした母や姉たちの呪詛だった。


 ああもう、曇らされ、目の前の物事を正確に判断できずとは。

 後悔しているところに、低く響く声が降ってきた。


「体調が悪いのだな。動きたくないほどだとは思わなかった。部屋に戻り、寝てろ。視察のことは、使者を追わせてなかったことに・・・」


 心なしか沈んだ声に、トゥーイムは身体を起こして、隣に座るシャインを見上げた。

 じっと目を合わせるトゥーイムに怯んだように、シャインは口を噤んだ。

 素直に、自分の非を認めて控え目に振る舞えるほど、トゥーイムは大人ではなかった。ただ、物凄く申し訳ない気持ちと、自分の誤りの恥ずかしさを抑えながら、おそるおそる声をかけるぐらいには反省していた。


「あのですね王子様」

「お・・・?!」

「私、温泉好きです」

「・・・そ、そうか」

「寒いのはイヤですが、行きます」

「・・・それはよかった」

「すいません、変な批判に来て」

「・・・いや」


 シャインは、トゥーイムの態度が何故急に軟化したのか分からず、戸惑っているらしい。しかし、彫刻のような鉄面皮は、やがてそわそわして、氷のような瞳を輝かせて、トゥーイムの猫目石のような瞳を映した。

 どこか異様なその表情に、トゥーイムは首を傾げた。


「なんですか?」

「初めて目が合った気がする」


 確かに初めて目を合わせた気がする、とトゥーイムはがくっと肩を落としかけた。

 分かっていたではないか。両国の和平のためには、夫婦仲が良いのが一番だと。

 政治的な議論の場では幾度も顔を合わせて納得するまで話し合ったことがある。何故、今まで自分はシャインと目線を合わせることすらしてこなかったのだろう。

 結局自分は、たかだか十五の小娘だ。人の気持ちすら分からない。

 それにしても、よくまあシャインは根気よくトゥーイムに付き合おうとしてくれているものだ。

 この際だから、とトゥーイムは背筋を伸ばし、シャインに言った。


「あのですね王子様」

「シャインと呼んでくれないか」

「・・・シャインさま、それとですね、心配だったのです」

「何がだ」

「北方の領主様の奥さまは、わたしのことをよく思っていません。温泉はいいのですけれど、わたしと向こうの両者の心が休まるか」


 ふむ、とシャインは頷く。

 秋の舞踏会で、女性だけのサロンで散々嫌味を言われた。トゥーイムがホルン語が分からないと思っていたらしい。自国の王子がサウラ=フィフィールの姫と婚姻を上げるなど、領主たちはよく思っていないという内容で、トゥーイムは大分貶められた悪口を聞かされた。

 ホルン語で外交の大義を滔々と語ったら尻尾を巻いて逃げて行ったが。


「それを何故教えてくれなかった」


 経緯を説明したシャインは怒ったように言った。

 この人を頼りにしていいのだろうか。

 自らの揺れる心を宥めて、トゥーイムは問いかけた。


「一人で対処するものと思ってました。どうにかして下さいますか」

「それなら、尚更二人でダウスに赴く価値があるというものだ」

「え?」

「私とトゥーイム殿の仲が芳しいことが分かれば、その内口さがない悪言も止むだろう。トゥーイム殿の評判と国民からの人気は本物だ」


 認められていたとは、驚きだ。

 嬉しさに、頬が熱くなるのを感じる。だが、気になることがある。


「わたしたちって仲良いですか?」


 シャインはややのけ反って、黙った。暫しの沈黙の後、かすれた声で尋ねた。


「私のことはお嫌いか」

「いいえ、今は」

「・・・・・・今は」

「すいません、さっきまで怖い人だと思っていました」


 シャインは肩を落として、落ち込んだふうだったが、トゥーイムを見つめて「しかし、さっきまで、ということなら、今は怖い人ではないな」と念を押した。


「少なくとも、私はトゥーイム殿との仲が芳しいものであればと思っている」


 シャインの真摯な言葉に、トゥーイムは小首を傾げ、それから唐突に両腕を広げた。


「シャインさま」

「・・・なんだ」

「それならば、抱きついていいですか」

「なんだと?!」


 ぎょっとして目を丸くするシャインに、動揺しているところを初めて見た、とトゥーイムはにやりとした。

 一体どういうつもりかという目を向けて、バツが悪そうにしていたが、シャインは結局何かを譲歩したような表情で、ぎこちなく腕を広げた。

 トゥーイムが腕の中に飛び込み、首に手を回すと、本当にシャインは大きいと分かった。すっぽりと抱き締められて、胸がドキリと鳴った。

 シャインの肩口に頬を寄せて、ゆっくり深呼吸し、とっくにそのぬくもりが自分にとって安心できるものであったと気付いてトゥーイムは泣きたくなった。

 出立前に、父の腕に抱かれたことを思い出した。

 これが父に抱かれる最後なのだと思って、一人で立って歩いていくつもりだった。例え孤独であろうと、ホルン王国で地盤を固め、王妃として立派に和平を成立させるつもりだった。

 だけど、知らないうちに、トゥーイムは自分を守ってくれる新たな腕の中に抱かれていたらしい。

 涙が滲んだ目尻が、指先で拭われた。目を開けると、おっかなびっくりというシャインの顔があって、目が合うと優しく微笑んだ。

 初めて、緊張が解けた気がした。満たされて、ほっとした。


「シャインさま、わたし頑張ります」

「・・・頼んだぞ」


 それが、初めてトゥーイムとシャインの心が通いあった瞬間だった。




 視察では楽器を持って行き、北方の領の女性たちにトゥーイムは楽器の弾き方を教えた。噂に聞いていた異国の姫君とその楽器に女性たちは大いに興味を持ち、領主の夫人もバツが悪いながらトゥーイムから楽器の弾き方を習った。シャインと打ち解けているところを見て、倦厭(けんえん)するのは得策ではないと判断したのだろう。

 温泉は気持ち良かった。寒い地方の温泉もよいものだと思った、とトゥーイムは笑う。


 フレイアは氷のような青い瞳を丸くしてトゥーイムを見つめた。


「お父様が」

「あなた、そういう顔をするとお父様にそっくりね」

「どうしよう。お父様が優しい」

「あら、最初から優しい方なのよ。ただ、見た目と物言いがああだから」

「ダウスって、毎年家族旅行で行くあの温泉」

「そうよ。思い出の場所なの」


 というか、国王夫妻万歳とでも言いそうなほど気の良いあの領主の奥方が、そんな陰険な人物だと思わなかった、というのは口に出さないでおいた。多少ショックである。

 トゥーイムはにこやかに言葉を紡いだ。


「この国で私がその後も前向きに頑張れたのは、あの方のお陰。あの方の優しさのお陰。今は心底、この国のシャインさまに嫁いでよかったと思っているのよ。あの方なしでは、今の私はいないから。国に貢献し、愛する家族を得て、共に支え合い、愛し合う。信頼し合える伴侶こそいたから、母様は母様でいられるのよ」


 風が吹いて、若木の葉をさわさわと揺らし、日の光りがキラキラと母の頭上に散った。




 尊敬する母様が言うのだから、父様のことを許さないでもない。

 言うことを聞かないでもない。


 お茶会の終わった庭で一人佇んで、日光浴をしながら、フレイアはそう結論づけた。

 母と老齢のメイドはとっくに城に帰った。午後の公務があるのだ。弟はこれから剣術の授業があるだろう。フレイアもこれから城に帰って、クロッサの授業を受けなければならない。

 いつもだったら気が進まないが、今日は何故か、心持が違った。

 そう。母は父に愛された。母は父にきっと、あの機知と才と朗らかな心をもたらした。母の覚悟はきっと真っ直ぐで、バルコニーに立ったその時の姿は、きっと眩しかったに違いない。何故か父の気持ちが分かる気がした。母はその時、国民を惹きつけただけではない。父の心も、永遠に捕えてしまったのだ。でなければ、半年も無視されておいて、なおも妻に寄り添おうとする気持ちなどもたないだろう。


 さて、振り返って、自分はどうだろう。


 果たして今の自分は、誰かに愛してもらえるほどの姫君なのだろうか。

 例えば、その後、結婚するとして、夫となる人に何かをもたらせるだろうが。何がしてあげられるのだろうか。

 恋愛結婚であっても、政略結婚であっても、なお夫に寄り添えるだろうか。

 必ずしも、夫となる人と気が合うとは限らないし、愛せるとは限らない。

 が、しかし。

 こうしてはいられない、という気持ちになってくる。

 草原に立ち上がる。目の前には堅牢な石造りの城がある。

 自分には学ぶべきことが、まだたくさんある。

 さぁて、クロッサを探しに行かなくては。未来に、誰かを愛し、愛され、支え合うために。

 それを望める者となるために。

 深紅の髪を春の光りに踊らせ、フレイアは城へ駆けて行った。

最近読んだなろう作家さまの小説の登場人物名とやや被りしていたので、王妃様の名前と出身国名を変更しました。(2013.2.28)



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