生死
玉ノ瀬の両手が清之介の頬を包む。初めは冷たかった手も、次第に温もりだした頃、清之介は玉ノ瀬の脆く壊れそうな手に自身の手を重ねた。
すべすべとした指通りがいい肌の触り心地は、どんな高級な着物に触れているよりも気持ちいい。
清之介にとって、死は生活上、隣合わせだったはずだ。
―――何故生きている
醜い顔を恨み、自分がこの世に存在する意義を見いだせずにいた。それでもいっそ死んでしまった方が、などという考えは一切なかった。死ぬ、と言う選択肢は清之介の頭の中にはなく、どちらかと言うと「何故産まれたんだ」と過去を悩むばかりで未来を見ていなかったのかもしれない。
死んでどうなる、という考えが凌駕し自ら命を絶とうとはしなかったが、もし誰かに示唆されたとすれば、清之介は迷わず死んだ。
だがそれは昔の話。
愛しい人がいなかった頃の話だ。
清之介は口元を引き上げ、目を眇め目前の女を見た。
「それは出来ない」
玉ノ瀬が苦しそうに細めていた目がだんだんと丸くなる。清之介の頬を包む手が小刻みに震えた。
死にたくなかった。
自分が生きている意義を未だに理解できていない清之介だが、それでも以前よりは胸を張って歩ける日が増えていた気がする。
何故か。感性を得たからだ。今まで湧き上がってきた感性の名前など知りもしなかったのに、ここ半年である程度覚えた。それもこれも、玉ノ瀬が傍にいてくれたおかげなのだと常々思う。
玉ノ瀬のおかげで清之介は変わった。彼女といると、胸が温かくなり、守ってやりたいという感情が湧き上がる。
だがそんな愛しい人は嫁に行くという。嫁に行って、清之介ではない別の男に守られ生きて行く。暗い暗い吉原を生きた玉ノ瀬にとって大手門を抜けた先で暮らし守られ生きて行くことは悪いことではないし、愛しい人が幸せに生きてくれるなら清之介にとっては願ってもないことだ。
――お前が生きる世で、俺も生きていく。
清之介は胸で呟くと、憔悴しきった女を胸に抱き寄せた。
「前に話していた小川。今度その旦那と行って来い。うちの近所にあるんだ。日本堤近くの小さな町でな。思い返せば、あそこは今の時期が一番――」
「清之介さん」
言葉を遮り、玉ノ瀬はむくり、と上体を起こす。上げられた面には鮮明な涙痕が太く、長く残っているが、目はからっと乾ききっていた。
「……そうですか」
答えると玉ノ瀬は笑った。
何に対しての答えなのか。悩む前に清之介は息詰まる。
浮かべられた微笑にそぐわぬ眉尻の方向。以前九八郎が見せた表情だ。下げられた眉に、引き上げられた口角は矛盾を呼び、清之介の胸の穴は一段と広げられた。
深く深く。内側から鍬や鋤で削られている感覚に、眉根を寄せる。
何の「そうですか」なのか。何を了承したのか。
聞くことも出来ず、玉ノ瀬も喋らず。暫く無言で酒を呑み交わした後、清之介は席を立った。続こうとする玉ノ瀬を制すと、清之介は半立ちになった玉ノ瀬に笑いかける。
「ありがとう玉ノ瀬。元気でな」
くしゃりと歪む玉ノ瀬の表情。けれどすぐに、あの眉の下がった微笑を浮かべ平伏し、清之介を見送った。
九八郎を淀沼屋に残し、夜の大通りを進んでいく。
重い足取り。ひた、ひた、と歩く清之介は前など見ず俯き、立ち並ぶ見世に吊るされた提灯の淡い灯を頼りに進んだ。
夜空には鉛色の雲が延々と広がっており、星は見えない。
寒さは宵の頃より増し、鼻も耳も赤くなり、痛む。それでも、空いた胸を貫通する鋭い寒さには敵わない。
――これも、感情だろうか。
清之介は片手で自身の胸をさする。玉ノ瀬の涙の名残か、しっとり湿っていて余計に寒さが増した。
それから一週間して。
江戸に雪が積もった。
例年よりもやや早い、寒波の到来に人々は気だるげに白い溜息をつく。
水を張った桶を外に出しておけば氷が張る。
清之介が通っていた小川にも、厚い氷が張った。
最後にもう一度玉ノ瀬に会いたい。
下がった眉に、引き上げられた口元を思い出せば、心をすっぽりくり抜かれた思いに襲われる。
それが何なのか、玉ノ瀬に教えてもらいたくて、見世前まで来た。昼になって久しい。
玉ノ瀬に触れたい。
触れればきっと、言い知れない感情など忘れ、あの温かい、愛しい感情を思いだせると思ったからだ。
見世先で立ち止り、丁度通りに出てきた人物を見てはっとする。
白い着物の菊桜の姿。金糸で描かれた菊の花も、さらに帯びまで白一色であった。普段の赤いものと打って変わり、妖艶に映っていた亜麻色の髪も、今は涼やかに見える。
「玉ノ瀬が死にましたのや」
口を張ったまま、菊桜の着物を魅いっていた清之介に、鋭い、強い口調で投げつけられる。
清之介に息を呑む間などなかった。
「六日前、舌噛み切って蒲団の上に転がってました」
徐々に、言葉の意味と、清之介の目を抉らんばかりに睨みつける菊桜の目の意味を理解する。
何故?
疑問を声で発さず、唇だけで述べてみる。
愛しい人のいるこの世で生きていたい。
だから清之介は死ぬことを拒んだ。
今まで生きることの意味を理解しなかった清之介。だが愛しい人が、玉ノ瀬がいるのなら生きていけると思ったのに。
「な……、ぜ?」
わなわなと震える手が、自身の胸を押さえる。そこは穴が空いていて、すーすーと風が吹き込んできて冷たかった。
「……愛しいは、一抹の喜びのこと。かといって、嬉しいに部類される感情やない」
ぽつり。小さく呟く菊桜の声は、一陣吹いた風に掻き消されそうになる。かろうじて拾った清之介は菊桜を見、また胸の穴が大きく空いた。
眉を下げ、口元に浮かぶ、あの微笑。
この間、玉ノ瀬が見せた、あの微笑だ。
体の中から、空気が抜けて行く感覚に捕らわれ、気づけば清之介は地にへたれ込んでいた。
「離れていく、けれど離したくない、ずっと一緒にいたい、というのが、愛しいというものやねん」
菊桜の眼差しが、何かを清之介に語りかける。その意味が、清之介には判らない。
「……徳川の天下。生まれる男は皆貧弱や。乱世を生きた男のように、死んでまで守りたいものを持つ奴はおらん。だからこそ、女は強くなっていく」
一緒に死んでください
玉ノ瀬の消え入りそうな呟き。耳に残った言葉が、空いた胸の穴にはまり込む。
「現の時代、自刃は女の華や」
想う人と一緒になれないのなら、例え死んでもあの世で一緒になりたい。女は願って死んでいく。
「身請けなんて、強制せなんだのに。あの子、責任感ある子やったから―――」
「丁度この時期の」
ゆっくり立ち上がり、焦点の合わない目で菊桜を見た清之介の口元には、穏やかな微笑が浮かぶ。
「麓の小川は朝方から氷が張っていて、それは夜になっても溶けずにある」
踵を返し、喪に服した菊桜の視線を背に受け歩きだす。一歩一歩、確かに足はある場所へと進む。
「紺碧と茜が交じった光を受け、その表面の霜は煌めき、舞い、何と―――」
闇夜に飲み込まれながらも必死に希望の光を探し、輝く様は、まるで吉原をもがき生きながらも、愛しい光に縋りつく遊女たちのように―――
「美しいことか」
歩きながら清之介は空を仰いだ。
日は傾きつつある。宵が迫っている証に、西山の向こうは明るいというのに、頭上は藍に染まりつつあった。
目を眇め、その藍を見つめる清之介は思う。
―――何故、生きているのか。