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冬、煌々  作者: 花岡巳殿
5/7

心中

 知らぬ間に夏が終わっていた。

 あの日以来、部屋から出ない生活を続けたので、体中が固くなっている。

 朝起きて窓から通りを眺め、九八郎が朝食を持ってくる。早々に兄を追い出すと数口食べただけですぐ廊下に膳を出す。昼飯も晩飯もそうだ。

 その間に何をしているのか、と言われれば何もしていない。ただ大通りを眺めるくらいだ。時折老舗の和菓子を満面の笑顔で持って部屋にやってくる九八郎の話を聞くくらいでしか、俗世との関係を保っていない。

 吉原など当然行っていない。九八郎は足繁く通っているようだが、それを清之介には語ろうとはしない。

 そうこうしていたらもう秋の終盤だった。緋色の葉をあしらっていた木々は今では丸裸である。四か月も清之介は引き籠っていた。

 そしたらまたお通が騒ぎだした。

 宗治朗と九八郎はどうにかして清之介を部屋から引っ張り出そうとしたが、叶わなかった。

 信助はおろか、半蔵も手を出さなかった。遊女のことで引き籠っていると信助が余計なことを言ったのだ。

 いっそ家から追い出せ、と激昂する半蔵をお通が泣きながら止めた。

「こうなったらいっそ……その遊女を身請けしてあげれば……」

 半蔵がいないところでお通は宗治朗たちに呟いた。遊女を嫁に買うと言うのだ。

 だが人を買うのは犬猫を買うのと話が違う。いくら初島屋に客が来るからと言っても、遊女の持つ借金の桁は計り知れない。

 次第にお通を哀れに思いだした宗治朗の心が揺らぐ。だが反論の声が上がった。

 声を上げたのは、いつも清之介の味方であったはずの九八郎だった。


 玉ノ瀬が呼んでいる、と言って九八郎は清之介を吉原に連れて行った。

 秋の宵はよく冷える。着物の上にもう一枚小袖を羽織ってもまだ寒い。

 遊郭の大通りを進みながら先のことを振り返る。

 屋敷を出る時、目の端に信助の姿を見た。居間で立ち尽くし、九八郎に背を押され出て行く清之介を睨んでいた。お通も玄関先まで清之介を見送りに来ていた。

 唇の皮膚が裂ける音が聞こえてきそうな表情で、信助はいた。屈辱という面を貼りつけたような顔など、清之介しか気づいていなかった。

 ―――まだ黙って俺を罵っている方が賢かっただろうに。

 一件以来、お通は清之介ばかり気にかけた。仏間に籠りがちになり、家事も全て宗治朗の嫁や女中に任せている。毎日毎日清之介が部屋から出るのを仏に頼んだ。

 清之介は信助が向ける嫉妬心をこれ見よがしに無視した。それが胸を痛めつけた代償だと言わんばかりに。

 淀沼屋へ入ると、いつもの座敷には通されず、お前はこっちだ、と九八郎に背を突かれ階段を上らされた。二階に上がると一つの部屋を指差し、九八郎は渋い顔を浮かべて踵を返す。階下へ向かう兄の背は小さかった。

 二階は行灯の淡い光が廊下を照らし、温もりさへ帯びていた。立ち並ぶ部屋に挟まれた廊下を進んで九八郎が指差した右側の部屋の襖を開ける。

 部屋は清之介の部屋と同じほどの大きさだ。一人部屋で、いつもの座敷とは比べものにはならないほど狭い。

 その部屋の中央に一人女が平伏していた。臙脂の着物の上には白い乱菊柄が散らばっている。結上げられている髪にも同様の花の簪が挿してある。

 顔を上げた遊女は白粉を塗し、目尻に紅を塗る玉ノ瀬だ。大きい目をきりりと伸ばし、桃色に色づく唇は固く閉ざされている。

「お久しぶりです」

 清之介が座ると同時に玉ノ瀬は言い、部屋の隅に置いていた膳を引き寄せた。銚子と猪口が乗っている。無言で猪口に酒を注いだ玉ノ瀬は、それを清之介に差し出し、向い合った。

「お元気でしたか?」

「ん」

「もう冬ですね」

「ん」

「先日着物も冬物に新調したんですよ」

「ん」

 続かない会話に、玉ノ瀬が肩をすくめる。清之介は無表情で少ない酒を啜った。

「……あのこと。気になさっているんですか」

 ぴくり、と清之介の肩が跳ねる。酒を呑む手も一瞬止めたが、すぐに俯きながら啜り始める。

 事実である。いくら信助の嫉妬心から適当に言った言葉だとしても、忘れていた現実を穿り返す鋭利な凶器だった。それ故、今まで外に出ることも憚り、現在も玉ノ瀬に顔を見せないようにと俯いている。

 玉ノ瀬にとって清之介のような鬼子など、いい金蔓でしかなかったのだ。そう思うと胸に研ぎ澄まされた刃が突き刺さる。

 それでも清之介はあの時玉ノ瀬が見せた涙を忘れられなかった。例えあの涙が嘘であっても、初めて清之介に普通に接してくれた他人のことを悪く思うなど出来なかった。だから呼ばれているなら、と吉原にやってきた。

「ねぇ、清之介さん」

 突如衣擦れの音が響く。玉ノ瀬が立ちあがり清之介の隣に座る。それから空になった猪口に酒を入れる。

「……清之介さんは、とうとう私を抱いてくれなかったんですね」

 小さい虫の飛ぶ音のような声で言った玉ノ瀬は顔を伏せる。

 遊女屋は娼婦宿。女に飢えた男が欲情を晴らしに来る場所と言ってもいい。だが清之介は半年前から通い出したここで遊女を抱いていない。

 いつも座敷に呼ぶのは玉ノ瀬だった。なら玉ノ瀬を抱くのが普通だろうが、もし抱いてしまえば玉ノ瀬が自分の心からいなくなると感じたのだ。

 遊女を抱くなど、刹那の関係だ。清之介は玉ノ瀬とそんな関係になりたくはなかった。

「……だから私はあなたに惹かれたんです。他の人は皆お金で私を買いに来るけど、あなたは違った。この暗い吉原で、あなたは私に優しくしてくれた人だった」

 清之介の手から猪口を取り上げ膳に置くと、また向かいに座りなおした玉ノ瀬は強張った表情で清之介の顔を覗き込んだ。

「私はあなたを本気で愛しておりました」

 にじり寄る玉ノ瀬の目には涙が浮かぶ。両手を清之介に伸ばすのだが、それを清之介は拒むように手を遠ざけた。

 ―――愛って、何なんだ。

 信助のことと言い、玉ノ瀬の言葉と言い、愛という未知の言葉を言われてもそれがどうしたのだ、と言いたくなる。

 疑念に唸っていると、腹部に圧迫感を覚える。見れば、向かいに座していた玉ノ瀬が足を崩し清之介の背に腕を回していた。

「愛とは、愛しい人を想うことです」

 清之介の胸に頬を埋め、まるで心を透視したかのように呟いた。

「……愛しい人とは」

「大切な人のことです」

「大切とは……守りたいものと一緒か」

 えぇ、と呟いた玉ノ瀬は顔を全て清之介に埋め、くぐもった嗚咽を漏らす。小刻みに揺れる少女の背に手を回した清之介は軽くその背を叩いてやった。その口元に、自然と微笑が浮かぶ。

「なら、俺の愛しい人は、お前だな」

 囁くような小声を聞き、玉ノ瀬の腕に力が籠る。嗚咽も酷くなった。

「清之介さん」

 嗚咽に掻き消されないよう、必死に声を振り絞った玉ノ瀬に返事する。

「私……身請けされることになったんです」

 身請け、と言う聞き慣れない単語に、一瞬戸惑ったが、すぐ玉ノ瀬は答えを教えた。

「嫁に行くんです」

 玉ノ瀬の背に回した手に力が籠る。指先が玉ノ瀬の体に食い込んでいった。

「私を女にした旦那さんで、あの件の後すぐに身請けの話を持って来たんです。あの時あの場にいたらしく、私のことで揉めてると思った旦那さんは、危ないから、なんて言ってましたけど……」

 菊桜に言わせれば、男の意地らしい。自分が仕込んだ女が他の男のところにいるのが気に食わなかっただけなのだ、と。だから別に世帯持ちの旦那のことなど、断ってもいいとまで言われたらしい。

「でも、女将さんや姉さんにお世話になっておきながら我が儘なんて言いたくなかったから。……私の母親も遊女だったんです。私、間夫との子だったから粗野に扱われてたんです。それを女将さんが引き取ってくれて、姉さんには優しくしてもらって……早くここから出ることが恩返しだと思ったんです」

 指先の力がみるみる増していく。胸が玉ノ瀬の涙で湿っていき温かい。それでも寒く思った。胸にぽっかり穴が開いたように、出来た隙間を寒風が行き来している。

 そうか、とだけ呟く清之介の目は部屋の壁を見ていた。ただ真っ直ぐ、何もないその一点を。

「……私…ほんとは嫁になんて行きたくない」

 ぽつり、と小さな部屋に出された言葉は反響などせず、清之介の胸の穴に落ちた。

「旦那さん、いい人で優しいけど、それでも私、清之介さんと一緒にいたいの」

 清之介の頭の裏に玉ノ瀬との会話が一つ一つ蘇る。

 他愛ない話ばかりしていた。ただ見たり聞いたりしたものを清之介が一方的に語って玉ノ瀬を笑わせた。その中でも一番印象に残っているものがある。

『私も、その小川に行ってみたい』

 清之介が暇を埋める小川の話をすると、玉ノ瀬は爛々と目を輝かせた。四季折々で風景が変わるんだ、と教えれば彼女は全部見てみたい、と言っていた。

「……でも、それは叶わないの」

 ゆっくりと体を起こした玉ノ瀬の結った髪は崩れていた。一房垂れ落ちている。

「だから……清之介さん…一緒にいたいから……傍にいたいから」

 弱い心を持つ女は眉間に皺寄せ、暫く涙を堪えて言い放った。

「一緒に死んでください」

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