菖蒲
季節は移り変わる。
今年は梅雨が思いの外すぐに明け、気づけばもう蝉が五月蝿く鳴いていた。ぎらぎらと地に照る太陽の日は反射しては大通りを行き交う人の肌を焦がす。もとより色の黒かった清之介は日焼けなど気にしなかったが、他の兄弟たちはそうもいかなかった。特に色白な上に肌の弱い九八郎は、贔屓の仕立て屋に使いから帰るたびに顔を真っ赤にしていた。距離にして僅か三間ほどだと言うのに。
皮が剥けて痛い、とうだうだ言っている昼間にもかかわらず、夜になればそんなこところっと忘れて清之介を遊びに連れ回す九八郎。謹慎は梅雨の中頃に解け、今は店にも出ている。二月ほど女遊びを反省しろと期間を与えられたにもかかわらず、この男はまだ吉原に通っていた。そのたびに眠そうにしている清之介も引っ張られていくのだ。
半蔵も諦めた。はじめは「吉原通いなどみっともない」と仏頂面でいたが、言っても聞かない三十半ばの息子に愛想を尽かし、目を瞑っている。
―――あの小川……。ちょうど青い花が咲く時期か。
酩酊する九八郎の向かい、猪口を呷って清之介は思う。夏には清之介の暇潰し場所だった小川には茎と葉の長い、青い花弁を持った花が咲くのだ。今年はまだ見に行っていない。
と言うより、ここ最近小川には行っていなかった。そんな暇がなくなったからだ。
清之介は春の終わり頃から店を手伝い始めた。たまたま夏物の着物を買いに来る客で繁盛していた際のこと。九八郎の謹慎と宗治朗の嫁が懐妊で店の手伝いを休業し人手が減ってしまっていた。宗治朗と信助。番頭や雇った女中だけでも間に合わず、次から次へと顔を覗かせる客の相手をしていた。半蔵が手伝えばいいのだが、お通がちょうど体調を崩してしまい、その看病に明け暮れていたせいで半蔵は店より妻を優先していた。
宗治朗も文句は当然言わなかった。病人がいればそれを優先するのは当然だろうし、第一あの朴念仁が看病、という妙な光景に声をかけられないほどの恐怖を覚えていたように思える。蒲団に潜って行儀悪く昼飯の芋の煮物を咀嚼していた九八郎は「雨戸閉めとけよ。大笑いした神様の唾降ってくるから」などと清之介に減らず口を叩いていた。
とはいっても、夏着を求める大人数の客に対し店番四人は少々効率が悪い。九八郎を叩き起こしたいところだが、半蔵は妙なことに威厳を持っていて、それを許さなかった。だから宗治朗は清之介に手を合わせて頼んだ。
「頼む清之介。笑っていてくれればそれでいい」
後取り息子と言うのは荷が重い。自分の下で働く者を取りまとめ、毅然と振る舞い厳格を示さなくてはいけない。なよなよしていれば誰もついてこない。人に頼ることなどこの時代情けないことだった。
今までの清之介なら瞬時に嫌だと答えたであろう。店に出れば信助が五月蝿く出しゃばる。さらに客も清之介の接客を拒む。心を刃物で抉られることなど、基本したくなかった。
だが、そんな懇願に躊躇なく頷いてしまったのは「笑っていればいい」と言われたからだ。
笑い方なんて知らなかった。けれど吉原で自分は確かに笑ったんだ。
心で言い聞かせると胸を張って店番をした。当然信助が片眉を吊り上げたが、いちいちちゃちゃを入れるほど暇ではないらしく、座敷の上で赤い着物を広げて中年の女に笑顔で接客していた。
初め客も清之介を訝しみ見たが、それでも笑みを深めて接客する清之介の姿を嘲笑う者はいなかった。よく店に来る老婆も、
「鬼子が笑うか」
と眉を顰めて言っていたが、最後には清之介の接客で着物を一着買い、ありがとう、と眉尻を下げて笑い、帰って行った。
今、俺は嬉しいのだろうか。
清之介は玉ノ瀬にそう聞きたくなった。脳裏に玉ノ瀬の小首を傾げた微笑が思い起こされる。
清之介は「ありがとう」と声をかけ、着物を抱え帰って行く客一人一人の背を、目を眇め見えなくなるまで見送り続けた。
「どうかしましたか?」
はっと我に返り、振り向いた先に玉ノ瀬がいた。銚子を手に持ち小首を傾げている。辺りには酒の甘い匂いと九八郎の酔って騒ぐ声、それに答える市ノ瀬の笑い声が聞こえた。
どうやら耽っていたらしい。
いや、と頭を振ると猪口を呷る。すかさず玉ノ瀬が次の酒を満たした。
「そういえばこの前、女中奉公に行く娘に持たせる着物を買いに男の人が店に来たんだ。それで菖蒲の花の柄の着物を買って、持っていった。思い出の花だったらしい」
菖蒲とは、清之介が夏になればいつも小川で見ていた青い花である。名前など知らなかったのだが、先日店に来た白髪の男が教えてくれ、思い出の花の柄だ、と黒地に青い花を描いた着物を買って行った。
語る清之介を見る玉ノ瀬の表情が一瞬翳る。まぁ、という相槌はどこか遠い所に投げかけているようで、気になった。
「どうした?」
「私、菖蒲の花がどんなものか、知らないんです」
「夏に咲く青い花だぞ?」
「私、生まれた時からここにいて、あんまり出歩きもしないから……。桜は、かろうじて見たことありますよ」
その言葉の重さを、清之介は知らない。花の種類など清之介も気に留めたことなどなかったし、その感覚に似ているのだろうと思っただけだった。
身を縮め、微笑を浮かべる玉ノ瀬の小さな姿に、歯痒い感情を抱く。この感情の名前を、まだ知らない。
「なら今度持って来てやろう」
玉ノ瀬は一瞬目を張って、その目に水気を帯びさせたと思うと、次には妖艶な笑顔を浮かべた。白粉を塗っているせいでそう見えるだけだ。化粧を落とせば、幼い年相応の笑顔なのだろう。
清之介が変わった。宗治朗は頻りにそう繰り返した。
九八郎が仕事場に復帰してもなお、清之介は接客を続けた。
客の声に答えられるように、色の勉強もした。熱心なところや客への対応は、これまで人に与えていた“醜男”という嫌悪感を一瞬で取り払った。
そうなれば面白くないのが信助である。
日が天に昇ると、菖蒲を手にし淀沼屋へ向かう。
久々に小川に行けば毎年以上に青い花が多く咲いていた。時折吹く風に、緑の長い茎と葉は忙しく揺られていた。
二本の花を片手に持ち、暖簾を潜ろうとした矢先に地を踏みしめる音が背後からする。目だけで振り返れば、見知った顔が立っていた。
長身で色白の美丈夫が、麗しい面の半分を皮肉に吊り上げ清之介を見ている。それは今朝も店で見た男の顔だ。
「その顔で花なんぞ持って……気色悪い」
鼻で笑うのは三番目の兄、信助だ。確か信助は昼からも店番であったはずなのに、何故か吉原にいる。大通りを行く人々が泥沼屋で異様な雰囲気を放つ男二人に興味を持ち立ち止り、小声で隣人と会話する。その声は次第に大きくなり、淀沼屋の遊女たちが、何事かを確かめるために見世からわらわらと湧いた。信助はさらにほくそ笑む。
「お前なんぞの相手する、哀れな女はどいつだ」
大通りを行く遊女たちも騒ぎに足を止める。また泥沼屋だ、と尻目に映して足早に去る者もいた。それでも江戸の人間。喧嘩を華と例えるあたり見ずにはいられない人間がほとんどである。
怪訝を面に貼りつけ、常連の清之介と、その奥に佇む色男を交互に見る淀沼の遊女。雑多な人混みを掻き分け見世の奥から出てきた菊桜は清之介の腕を掴んで目線を引きつけた。
「どなたやの?」
眉間に皺寄せ、若干怒気を孕んだ声色に肝が冷える。泥沼屋と言われ嫌悪されても歯牙にかけていなかったこの見世も、流石に大通りを行く人の大半が足を止めるような大仰なことを起こしたくないのだろう。
「兄です」
背を信助に向けたまま、小声で菊桜に述べる。目を伏せ騒ぎを謝ろうとした時、下駄の音を鳴らして見世から市ノ瀬が飛び出てきた。菊桜の背に身をぶつけ静止すると、肩越しに信助を見て「あらいい男」など呟いている。
それでも険相な面持ちで相手を睨む。化粧前のせいか、普段でさえ気の強い顔を持つ彼女はさらにおっかない顔になっていた。
「女将さん」
「かまん。これくらいやったら、そんなんいらん」
菊桜の耳元で小さく囁いた市ノ瀬は、後ろに手を回し持っていたものを、菊桜の背と自分の間に挟む。黒塗りの細い棒の先端にぎらぎらと光る獲物は、紛うことなき、薙刀であった。物騒なものを見た清之介は一歩菊桜たちから離れる。
「清之介さん……」
野次や遊女の囁き声が聞こえる中、一つ鈴が転がるような声がした。目線を下に移せば、首一つしか変わらない玉ノ瀬が、白粉も塗らず目を潤ませ見上げている。大人数や市ノ瀬が持つ薙刀に気を取られていたせいで、玉ノ瀬がそこにいることに気づいていなかった。
玉ノ瀬は引き上がった目を潤ませ清之介を見上げている。無性に撫でてやりたい、落ち着かせてやりたい、と花を持たない方の手を彼女の頭に伸ばしたのだが、即座にその考えを消す。
だが遅かった。
触れる前に手を引っ込めたというのに、信助が高らかに笑い声を上げたのだ。
「それか。お前みたいな貧相な顔に抱かれる、可哀想な女は」
いくら清之介が感性に疎いと言っても、意味くらいは知っている。自分が抱く感情に名前がつけられないだけだ。心臓を針で突かれる気がした。
「何あの人……」
「口悪ぅ……」
淀沼屋の遊女が苛立ちを孕んだ目で信助を見る。毎日のように九八郎に連れられて来る清之介だ。羽振りのいい九八郎はよく市ノ瀬と玉ノ瀬以外の遊女も座敷に呼んだりしている。だから遊女たちも、顔をどうこう言う以前に清之介の人柄の良さを承知している。当然、彼女らは清之介の味方に立つ。
女大人数に信助一人は分が悪いが、そうでもない。信助が先に言った言葉に湧いた野次の様子を窺えば判る。
野次馬は清之介の顔を見て大笑いした。半ば閉ざされた目に低い鼻。男に交じって野次を飛ばしていた他の見世の遊女たちも口を手で押さえ笑った。
この状況は非常にいけなかった。なんせ粋がりの信助だ。家族団欒の食事中に誰かが口を開けば、真っ先に清之介に罵声を浴びせる信助にとって、野次馬を味方につけることは帯刀するより心強いだろう。文字通り背に風を受けた本人は、鼻を高々上げ誇らしげな笑みを満面に浮かべている。
「よ! 色男! もいっちょ言ったりな!」
「泥沼屋の鼻折ったりんせ~」
男の掛け声に交じる遊女のありんす言葉の野次はもはや清之介へのものではない。吉原という闇を肩身狭く生きる故、幕府の束縛を受けずにいる淀沼屋の遊女をひがんでいる遊女は多い。高慢な女の甲高い笑い以上に耳障りなものはないと、清之介は思った。
野次は大音声になっていく。淀沼屋の遊女の表情に翳が生まれ始めた。玉ノ瀬が肩を震わせ清之介の肩に縋りつく。
それを目聡く信助は見逃さなかった。
「まぁ、どんな醜男でも、縋って甘えていれば金は出してくれるからな。若いのに、よく理解してるな」
玉ノ瀬の肩が波打つ。
その波紋は縋られている清之介の体にも広がった。
―――ふるふると湧き上がる赤い焔のようなもの。
清之介の腹の底から燃え上がったそれは体から出たいとばかり、火の粉を散らす。
縋りつく玉ノ瀬の背に、花を持ったまま手を回し、清之介は少女を宥めた。そうすることで自分の中に燃え上がったものも鎮火出来ると思ったからだ。
「さっきから聞いてたら偉そうに……! あれ本当に九八郎さんの弟なの……っ!」
ぎりぎりと奥歯を噛む音が清之介の耳に入る。今にも飛び出していきそうな市ノ瀬を、菊桜が背に庇い抑えていた。
その様子を信助は楽しげに眺め、鼻で笑うと清之介の背に視線を移す―――
「お前みたいな鬼子に本気になる女なんぞ、遊女でもいないだろうよ」
燃え上がっていた炎は音をたて、消えていく―――。
最近聞くことのなかった、鬼子という言葉が、まるで鎮火水にでもなったかのように、焔に降り注いで消してしまったようだった。思わず呆けてしまい、目線が自然と空を仰ぐ。雲一つない蒼い空だ。
ぴきっ、と音が鳴る。市ノ瀬が薙刀を持つ手に力を込めたのだ。制止する菊桜の手を振り払い一歩踏み出した折。
「私―――」
二歩目が踏み出せず、玉ノ瀬を振り返る。
「私、そんなつもりじゃ、なかったのに……」
はらり、と玉ノ瀬の頬を雫が伝う。顎にまで流れ、主のもとを離れた雫は地を濡らさず、清之介の着物を濡らした。
鬼子、という言葉に消され燻り出していた焔に、注がれた油。
刹那、玉ノ瀬から体を離すと、握っていた菖蒲の茎を握り潰す。くしゃり、と音をたてたそれを振り上げ、腹で燃え上がる火に急かされるがまま地に投げ捨てた。
だが、菖蒲の花はいつまでも地に叩きつけられず、清之介の手に残っている。振り下ろされたにもかかわらず、それが手から離れない。見ると菊桜が花を握る清之介の手を上から握っていた。
野次の声が止む。玉ノ瀬が鼻を啜る音を聞きながら見た菊桜の顔は、酷く穏やかだ。微笑すら浮かんでいる。
「玉ノ瀬。この菖蒲の花水桶に入れておいで」
清之介の手から半ば強引に菖蒲を取り上げると、手の甲で涙を拭う玉ノ瀬に渡す。花を持った少女は逃げるように見世へ入っていった。
「なぁ、清之介はん。あんたがもし、うちらと一緒の感情孕んどるんやとしたら……それは―――」
菊桜は自分の見世の遊女たちを振り返る。だが、自分の見世の女将が自分を見ている、というのに誰一人菊桜の顔を見ていなかった。
眦を眉に近い部分まで引き上げ、下唇を噛みしめる遊女たち。皮膚の裂ける音が聞こえ出す始末だ。市ノ瀬など、持っている薙刀の柄の部分が撓り始めている。
女たちが揃いも揃って見つめる先にはただ一人、信助の姿が。高慢な男は元より高い鼻を高々と上げ、鼻息を荒々しく噴き出す。
「それはきっと“憎悪”っちゅうもんやわ」
遊女たちから視線を清之介に戻した菊桜の目が、赤々と輝いていたのは気のせいではない。菊桜の目は確かに血のように赤く染まっていた。
猫のように潮を噴き威嚇する遊女たちに片手を上げて制す菊桜は、誰よりも一歩前に出ていた市ノ瀬を下がらせ信助の下へと歩いて行く。静まっていた野次はまた飛び交った。
「あんたが初島屋様とこの三男かいな」
「だったらどうした」
「よう九八郎はんから聞いとるで。どうしようもない阿保がおるてな」
紅い目をした女は芝居めかしい口調で高らかに、伸びやかに言い振る舞う。信助は一瞬反論の言葉を見失った。相手が唇を噛み、青筋浮かべ吃っている間に、菊桜は拳を作って素早く信助の目の前に突き出す。突然現れた拳に身を引く信助だが、たかが女に、と矜持を傷つけられたのか、浮かべていた青筋をさらに濃くし、噛みつかんばかりに一歩踏み出た。
「てっめぇっ―――」
「判るで、あんたの気持も」
「何が!」
「何せ三男やもんな。肩荷重いやろ。上に二人兄弟がいて、さらにようできた立派な男どもや。自分がどう足掻いても勝てへん。それなら下の弟にでもあたっといて、優越感にでも浸っとこか、っていう魂胆やろ? ……小さいわ」
はん、と失笑する菊桜。
「自分には何もないからって、もっと何もない弟の上に立つことが、そんなに偉いか? しかも最近じゃその弟が、仕事まで始めた。木偶の弟には唯一勝ってたはずやのに、そのせいで対等の立ち位置になった。……なぁ、あんたそれ、嫉妬やろ」
嫉妬。反芻し唾を呑みこんだ信助の目から力が抜ける。だがすぐとり直し、振り上げた拳だが、
「動きなさんな」
菊桜のどす利いた声に制される。拳を突き出したまま、唇噛みしめ睨んでくる男を真っ直ぐに見る。
「……いくら、弟の綺麗な心が見えん男でも、これくらい見えるやろ」
言い放たれた言葉の意味を理解したのはおそらく信助と、淀沼屋の遊女たちだけだ。
菊桜が握る拳の指の間。取り囲む野次の目には細すぎて見えないものがある。
三寸ほどの針が三本。菊桜の指の間から信助の鼻先に伸びていた。少しでも突けば刺さる距離だった。
「淀沼屋は客を選びまっせ? 格子がないのはそういう理由や。もし今回のことを、あんたが幕府へ嘘内通したとしても、将軍は動かんやろうな」
淀沼屋の勝手を幕府は許している。その理由が一体何なのか。
野次馬の先頭でひがみを口にしていた一人の遊女は菊桜の拳のものを目を眇めて捉えた。脳を掠めた噂はもしや……。そんな想像を膨れ上がらせると、彼女は誰よりも先にその場を去った。
一方の清之介は相変わらず信助を背にし、ただ足元を見て立ち尽くす。
―――憎悪……
反芻すると一つ息をつく。聞いたことのある言葉であったが、自分が抱くには程遠い感性だと思っていた。
怒り、憎み、厭悪など向ける対象など今までなかった。人とかかわろうとしなければ、それを向ける人などいるはずがない。さらに何かものを手にしようとしなかった清之介だ。相手を恨んでまで守りたいものなど、なかったのに。
―――玉ノ瀬には本当にいろいろ教えられるな。
嘆息し、自身の両手の平を見る。
ごつごつと骨ばった指先が、小刻みに震えている。玉ノ瀬の涙を思う脳裏のその奥。信助の言葉に、体が怯んだ。
―――お前みたいな鬼子………
爪が手の平に食い込む。鋭い痛みがそこから体中に広がる。
―――そもそもこれは痛みなのか?
はたと浮かんだ疑問に答えられない。今まで自分が痛覚と思っていたものは本当に痛覚なのか。体中を巡る痛みなど、胸の奥の痛みに比べれば痒い。これはきっと痒いんだ。痛みじゃない。
だらしなく手を下げ、踵を返しその場を離れる。そんな清之介に市ノ瀬が声をかけたが止まらなかった。
集まった野次馬を掻き分け遊郭の出口へ向かう。目の端に男の顔が霞んだ。清之介を呼ぶ声は、よく知る男の声であったが、振り返る気分ではない。ぼやける視界で足早に歩けば、声は追って来なかった。
二階の自室の窓から大通りを眺める。
茜色の日を受け、数人の少年が毬を蹴っていた。
木がへし折れる音が響いたのは、一人の少年が毬を蹴り損ねた時だ。音に驚いた少年は肩を震わせ毬を拾い上げると、他の少年たちを連れてそそくさと走り去る。
窓辺に肘を置いて頬杖していた清之介が「何だ」と考える暇はなく、階下から宗治朗の怒鳴り声が響いた。
襖を閉め切っているせいで何を言っているか判らなかったが、宗治朗の怒鳴り声に重ね罵声らしきものを浴びせる声の主は確実に清之介の部屋へと向かっている。
大体予想は出来る。身構える準備も十分あった。
それでも勢いよく襖を開けて入ってきた人物に目を丸くせざるを得なかった。
鼻息荒気に立っていたのは九八郎だった。鬼のような形相でまぬけな顔した清之介を見下ろしている。
さらに清之介が驚いたのは九八郎の顔にある痣や擦り傷。日焼けしやすい兄の白い肌は生々しい赤や毒々しい青が浮かんでいた。
「……さっきそこで転んだ」
形相を保ちながら低く唸るわりには目が左右に泳いでいる。部屋に入る途端、音をたてて胡坐をかいた九八郎の眉間に皺が寄っている。珍しいものでも見る気持ちでいると、また階下から宗治朗の怒鳴り声が聞こえた。襖が開いていた分、声はよく聞こえ「今度はお前か信助!」と言われているあたり遅れて帰って来た男も傷だらけなのだろう。
「あのな清」
階に目配せして下の階の光景を思い浮かべていると、九八郎が口を開く。強張った顔は拭われ、畳の一点を脱力した表情で見ていた。
「信助はさ……羨ましいんだろうよ? お前が」
九八郎は清之介を捉え損ねた後、市ノ瀬の下まで行き、話を聞いたそうだ。そこで俯き立ち尽くす信助を見て、そう感じた。そこから殴り合いになったのだとも彼は素直に話した。
「あいつは親父にもあんまりちやほやされなかったし、かと言っておふくろもさ、お前ばっかり可愛がっただろ」
三男に生まれたのが運の尽き。後取り群である長男と次男は父親に大いに扱かれ、可愛がられた。手が足りている、と押し退けるように幼少期の信助など目に入れなかった。それで母親に愛情を求めた。だが母親は鬼子と呼ばれる四男を毎日膝に置いて哀れんでいた。なけなしの愛なんかに縋っても、幼い心は満たされない。
兄たちはともかく、何故弟にまで……
劣等感を抱いた信助は清之介に啀むようになったのだ。
あいつ幾つだよな、と鼻で笑いながら話す九八郎の言葉に耳を傾けながら清之介も笑いたくなった。
―――愛情って何だ?
意味の判らないものなど貰っても、清之介に効果などなかった。そんなに欲しかったらそう言ってくれればよかったのに。そしたら清之介は難なく信助に母親の愛情というものを譲っただろう。そしたらこんなに罵倒される清之介などいなかったのに。
―――たかがそんなことで、胸を痛められたのか。
胸に手を添え、痛みを確かめる。まだ心臓の奥に針が残っている感覚がある。
「だからさ、清。信助嫌な奴だけど、血の繋がる家族なんだし、仲良―――」
「兄さん」
歯切れよく九八郎は言葉を紡ぐことを止める。兄を振り返った清之介は微笑を浮かべた。
「俺、今日はもう寝るよ」
暫く固まっていた九八郎に、腹が煮えるような感覚に襲われる。早く出て行ってほしいのに、九八郎は立とうともしない。
ふっ、と息を漏らし「そうか」と立ち上がる九八郎は部屋を出る前に清之介と目が合った。
清之介の見た兄の表情は、情けなかった。眉を八の字に下げ、緩く引き上げられた口元。眇められた目からは今にも水がこぼれそうだった。
襖を後ろ手に閉められ、足音が階下へ向かっている間、兄の表情を思い起こす。
笑っていたような、そうではない表情。嬉しいことでもあったのか。
―――……あぁ、そうか。
窓から大通りを眺めながら思った。
兄、などと初めて呼んだ。