少女
遊女は何かと法度が厳しい。
周知であるが、遊郭という“女の地獄”を、売られた女たちが出ることは出来ない。身に積もった借金が全部なくなった時か、死んだ時くらいしか、彼女たちが吉原を出る方法はないのだ。
あとは装い。遊女は基本華美な着物を着てはいけない、と幕府から言われている。遊女屋を運営する上の決まりであった。
そもそも遊郭は幕府公認の娼婦宿であるが、当然いいものではない。現に、吉原というのは江戸城下近郊の町のことであったにも関わらず、大火災をいいことに、幕府は吉原遊郭を日本堤付近に移し、新吉原と改名させて商売を続けさせた。幕府の重臣が出入りして、民衆に噂が伝播するのを避けた策だろう。それでも江戸だ。出入りするお偉い人はいる。
新吉原の遊女たちは華美になりすぎず、けれど男の目にとまるような色鮮やかな着物を着て見世の格子前に並んだ。
これが世間一般の遊女だ。
清之介は朝食を食べてから、九八郎の二階の自室に呼ばれそう教えられた。
時刻はまだ昼前だが、早朝という訳でもない。世間の人間はとっくに仕事をこなす時間にもかかわらず、九八郎は寝間着姿な上に蒲団の中に潜り込んでいた。首から上を出して、傍らで胡坐をかく弟を見ながらにやにや笑っている。
吉原から帰った昨晩。初島の屋敷は大仰なことになっていた。
屋敷の前の大通りには数人の影があり、手には皆赤い提灯を提げていた。
『清之介が……! 清之介がいないの!』
影の一つが金切り声を上げながらもう一つの影と重なる。声を聞いた途端、九八郎の微量に残っていた酔いがどこかへ飛んでいった。
『あ、まずい』
持っていた提灯を弟に持たせ、その巨躯に隠れても後の祭りである。九八郎の声を、重なる影の背後にあった影が聞き逃さなかった。
『清之介!』
提灯提げたまま、駆けてくる影は次第に大きくなり、目と鼻の距離にまで達すると、互いの顔のつくりがはっきり判った。
宗治朗だった。清之介と丈の変わらない長子が、肩で息しながらむさ苦しい風を口から発している。
『どこに行っていた清之介!』
綺麗な顔に脂汗を浮かべながら、宗治朗は怒鳴った。四十を過ぎているにもかかわらず、彼のおもては青年のように若い。
年が大きく離れているせいもあってか、宗治朗に怒鳴られ慣れていない清之介は、普段の重さに加え眠さで閉ざされがちであった瞼を勢いよく開けた。いや、その、あの、と吃る弟を流石に不憫に思い、背に隠れていた九八郎がおずおず姿を現す。
『兄貴、違うんだ……』
『清之介!』
突如清之介の背から現れた、気まずそうな九八郎の姿に目を瞠った宗治朗だが、怒鳴りつける寸前、女の声が響いたので大人しく呑み込んだ。
清之介を呼んだのは先ほどの甲高い声の主だ。二つのうち影が一つ離れると、提灯を揺らしながら小走りで駆けてくる。そのまま倒れ込むように、清之介の腕を掴んだ。
母親のお通だった。寝巻に小袖を羽織った母が、清之介を見上げて安堵の息を漏らした。暗がりでよくは判らなかったが、お通の小皺のある目元が提灯の灯に照らされ、水気多く揺らいでいる。
『よかった……どこに行ったのかと……』
今にも崩れ落ちそうな母の肩を掴んで支えてやった宗治朗は、九八郎に毒づきながら提灯を提げた手で額を小突いた。いてぇ! と殴られた額をさする九八郎の表情に笑みが浮かんでいる。夜分遅くまで弟を連れ回していた咎が軽かった喜びではない。
『九八郎』
家族と少し離れた位置にあった影が声を発すと、緩んだ顔を引き締め九八郎が身構えた。小声で『親父かぁ……』と呟くと、また清之介の背後に吸い込まれていく。
『お前明日から当分店に入らなくていい』
低く鋭い声色で言うと、暗闇の中、赤い提灯を揺らして屋敷へと入っていった。下駄の鳴らす音が、春先には珍しい寒い夜に響いた。
その半蔵の言いつけを守り、九八郎は今も寝間着姿という訳だ。さらに所帯も持たず遊郭通いもばれてしまい、吉原の出入りまで当分禁じられた。今の九八郎は清之介同様の身分ということになる。
「にしても清。親父が出てくるとは、おふくろ相当騒いだんだろうよ」
亀のように蒲団に潜り込む九八郎が、卑しく微笑みながら見上げてくる。それに清之介も頷いた。
お通は夕飯の時に、普段は顔を見せる清之介がいないことに気づき、大慌てしたそうだ。他の兄弟や長男夫婦は店の仕事などで姿を見せないことが多いが、清之介に仕事などない。発狂したお通は自衛団だのと慌てふためき、屋敷はてんやわんやした。
宗治朗が母を落ち着かせ、探してくると言ってお通を蒲団に潜らせたのだが、時間がかかり過ぎてしまい、あまりに嫁の啜り泣きが酷いので、一緒に蒲団に潜っていた半蔵も起き上がる始末だったという。結果、九八郎が連れ回していたと判り、睡眠妨害の遺恨を、半蔵は九八郎にぶつけた。店にも出さず遊郭にも行かせず。ほとんど軟禁状態という過酷な咎がそれだ。
「嬉しいだろう」
あの堅物親父を動かすほどおふくろに心配されたんだからな、という九八郎の言葉の意味が、清之介には判らなかった。
母に腕を掴まれた時、確かに異様な感情が湧き上がった。だがそれが「嬉しい」というものなのかは判らない。強いて言えば淀沼屋を出て歩いていた際に、九八郎の言葉を聞いた時のものに似ていた。生きていてよかった、と思うことが「嬉しい」というものなのだろうか。
思案に耽る清之介を横目に、九八郎はもぞもぞと蒲団の中で体を反転させると天井を仰いだ。何の話をしていたのか。ああそう、遊女の話だ、と独り言ちている。
「でな、遊女の話なんだが、普通の遊女屋にはそういう決まりがあるんだが淀沼屋にはないんだよ。遊郭は出れないがな」
思考を切った清之介は兄を見下ろす。何故、と続けると、九八郎は天井の木目を見つめたまま首を捻った。
「俺も詳しく知らんが、淀沼屋は通称“泥沼屋”らしい」
「泥沼?」
「淀沼屋は大坂時代には、道頓堀辺りに見世を構えていたらしく、太閤秀吉が天下治める時代には戦も多かった。そんな戦で親を亡くした武家の娘を、淀沼屋は匿ってたらしい」
「遊女として……?」
「ただの遊女じゃない。遊女屋に身を潜め仇打ちを企てていたのかも、と周りの遊女屋が噂して、慄き汚れたものでも見るように淀沼を捩って泥沼にしたというのがその経緯らしい」
淀沼屋の遊女が決まりを守らず、華美な着物を着るのも、そして見世先に格子がないのも、これらが関係するのでは? と九八郎は言う。
「武家の誇りを忘れず、気品高くいろ。格子の向こうにお前たちを抱く男はいない。仇だけ見てろ、ってとこか? 市ノ瀬に訊いても教えてはくれないんだよ」
聞いた噂に自身の主観を交え、ついその発想に笑っている九八郎。我ながら見事であったらしい。
「でも何で大坂から江戸へ?」
腕組みする清之介を、珍しいものでも見るかのように、九八郎は上半身を起こし、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「そりゃお前、大坂に憎い相手がいなくなったからだろう?」
太い指を顎に乗せ固まってしまった清之介が可笑しくて九八郎は口元を歪めた。一度は笑いを堪えていたのだが、弟のおもてから見る見る血の気が引いて行くのを見て思わず吹き出す。
「安心しろ、昔の話だし。それに今のご時世、徳川に楯突く人間なんていないよ。そもそもそんな危ない所があるなら幕府が黙ってないって」
「なら何故、幕府は淀沼屋の勝手な行いを許すんだ?」
「そりゃお前……泥沼屋に刃向かえないわけがあるんだろ?」
清之介の顔が真っ青になる。自分は昨日そんなおっかない見世に行って来たのだ。
恐怖で首から上の血がなくなり、目眩を起こしながら腕を組み、ふらふら左右に傾いでいる奇妙な弟の姿に、九八郎は蒲団を掛け直し、大声で笑った。
清之介に金の入った袋を押し付けるや否や、九八郎は頭から蒲団に潜り込んだ。
「昼飯でも食べてこい」
と、蒲団の中で発せられた声は、どこか震えていて笑っているようだった。
「淀沼屋は昼もやってるから行って来い」
遊女屋に昼飯食いに行くなんてどうかしてる。清之介が抗議の声を上げようとした寸前、潜り込んだ九八郎は足だけ出して弟を部屋から蹴り出した。
畦道を歩きながら、ぼんやりとそんな先だってのことを思い出しては胸の内がむず痒くなる。田には水が張られており、田植えの準備が進んでいる。
たった一日で世が変わった。
今までは町外れの麓に行き小川を見つめる毎日であったのに、長年遠ざけていた兄の誘いで遊郭に行きその習慣が途絶えてしまった。
さらに家族の一面に思いの外驚かされた。碌に口を利いたこともない家族に遊びに誘われ、叱られ、心配されて。父に関しては嫁想いなのだな、と普段淡々とものを言う男の意外性を知った。仕事熱心で両親の会話など見たことのない清之介は、自身の口元が綻ぶのに気付かなかった。
大手門の前に着き、怪訝を向ける門番二人に会釈すると遊郭へと入っていく。
足を一歩踏み入れた途端、思わず息詰まった。胸に思い描いていた光景が目に入らなかったからだ。
昨晩来た時、清之介は赤い提灯の灯と、甘い白粉の香りに立ち眩んだ。だが昼の吉原というのはそれらが一切ない。赤い提灯には灯がなく寧ろどす黒い色を放ち、香りはうどんの出汁の匂いなどといった食べ物の匂いに移り変わっていた。
さらに歩く遊女の面々にも違いがある。夜は白粉を顔に塗した女が大人数行き交っていたにもかかわらず、昼は片手で数えられるほどしか見受けられない。代りに小さな風呂桶を抱え、暖色を帯びた肌色を晒す女の方が目立った。
疑問に目を白黒させつつ歩みを進めた清之介。華やかさを欠いた遊女の町は、確かに営業している。日に晒されない格子の中、遊女たちは仲間と談笑しながら客を待っていた。
淀沼屋に着くと、吉原に着いて以来眉間に刻まれていた皺がより一層深められた。相変わらず格子のない貧相な造りの建物だった。他の遊女屋も大抵年季が入った家屋であったが、淀沼屋のように木の表面が風化して色が鼠色のように変わっていることはない。相当古い。大火災より前から新吉原にあったのか。もしくは旧吉原から焼けずに残り、ここに移築したのか。噂の泥沼屋ならそんなことも出来るのかもしれない。
見世先で茫然と立ち尽くす人影に気づいたのか、くすんだ赤色の暖簾をかき上げ見世から菊桜が出て来た。怪訝を貼りつけた表情で清之介を睨みつけ、誰かと判ればその表情は一瞬で剥がれ落ちていく。
「ああ、初島屋様の清之介はん」
まるで溶けるように、徐々に笑顔を浮かばせた菊桜は清之介にお辞儀してその手首を掴むと何も聞かず玄関先に入れた。大の大人が小さな子供のように引かれ、小恥ずかしくなる。
春でもまだ寒いから、と訛った口調の菊桜は土間から上がり、市ノ瀬ぇー、と見世の奥へ声を張り上げた。
透き通った声は伸びやかに奥へと響き渡り、清之介が土間の上で呼吸をしないうちに市ノ瀬は番台の傍にあった階段からひょっこりと気だるそうに顔を覗かせた。自分を呼んだ主にまぬけ声で返事すると、目の端に映った客に気づきぱっと顔に笑みを浮かべる。
「あ! 清之介さんじゃないの!」
昨夜と変わらず白粉塗した遊女は甲高い声で呼び、着物の裾を上手く捌きながら足早に下りてくる。滑り込むように清之介の前で平伏し、未だ土間にいた客の手を引く。
「今日はお一人?」
「兄は外出厳禁なので……」
あら、と口に手をあて笑う市ノ瀬は一息つくと、背後で番台に寄りかかっている菊桜を振り返った。
「お座敷空いてます?」
「空いとるけど、あんた今から茶屋やろ?」
「玉ノ瀬がまだ寝てるんで」
ぱん、と手を叩き菊桜は納得し、市ノ瀬は階段を駆け上がって行く。二人の表情が一瞬卑しいものに染まったのを、清之介は知らない。あ、と市ノ瀬に伸ばした手は届かず、瞬く間に姿は見えなくなった。
「寝てるなら起こさなくても。俺はただ昼飯食って来いって言われただけなんで……」
「ここに? 九八郎はんも変わった方やな。吉原には飯処もようさんあるけど、清之介さんみたいな純な人がわざわざ食べにくる所じゃないのに」
番台から離れた菊桜は亜麻色の長髪を耳に掛けながら溜息をつく。傍迷惑なこと、と言われているような気がして、清之介は内心で詫びた。
妙な沈黙が生まれる。客がいるにもかかわらず黙り込んだ菊桜に、今まで廊下の先に広がる闇を意味もなしに見ていた清之介は視線を巡らせぎょっとする。菊桜が清之介の顔をじっと見ていたのだ。声も発さず、ただ真っ直ぐに視線を向けてくる。固く閉ざされた口が開く気配はない。清之介は何も言わず、市ノ瀬が早く下りてきてくれることを願いながら耐えた。が、目を逸らしていても判る、射るような女の鋭い目線に耐えられなくなり観念した。
「……何か?」
顔を長時間見られることには慣れている。軽蔑の眼差しは今まで生きていて数え切れないほど向けられた。だが菊桜が向ける目線はどこか違い、まるで心を見透かすような眼差しであった。
菊桜はじろじろ見ていたことを詫びることもなく、腕を組み唸る。
「清之介はんは、ほんに初島屋様の子なんですか?」
無慈悲な言葉はすとんと清之介の胃に収まった。
「俺が知る範囲ではそうです」
間もなく答えると、はぁ、と訝しむような声が漏れる。それでも不思議そうに、菊桜は首を捻りながら清之介を見続けた。
清之介が菊桜の問に、何の抵抗もなくすっと答えられたのは、何度も訊かれる問であった上、何度も言う答えであったからだ。
――お前は本当にあそこの世帯の人間か。
よく道行く爺婆に訊かれた。幼少より言われていれば慣れてしまう。訊かれるたびに胃の中を渦巻いていた熱く喉を焼くものは最近では湧きあがって来ない。代わりに、またか、と鬱陶しさを感じる。
母は爺婆のことを話すと、顔色一つ変えず「当たり前」の一点張りで、それ以上話は膨らまなかった。だから清之介もそれを信じて訊ねてくる年寄りに「当たり前だ」と言い貫いた。
だが鏡を覗きこめば「本当か?」と胸の内で何かが蠢き始める。わさわさと動き出したそれは頭に警鐘を鳴らすのだ。
教えられているのだから、そうなんだ。
実子か養子かは親しか知らない。だから清之介は爺婆に訊ねられるたびに、
「知っている範囲では」
を使うようにした。自分では本当かは知らない。だのに「本当」と言うのは憚られてしまった。慈悲のない爺婆相手でも、それを避けたいと言う思いが胸にあった。罪悪感、という奴なのかもしれない。十代半ば頃の清之介は、一つ賢くなったことで胸を張って歩くようになった。
菊桜はそれ以上何も言わなかった。番台に肘を立て、清之介から目を逸らし、階段を覗き込みながら市ノ瀬たちが下りてくるのを待つ。清之介もそれにならって二階へと続く暗闇を見上げた。
ほどなくし、慌ただしい足音が複数聞こえ出す。重たい足音に交じって市ノ瀬が声を荒げているようであった。どたどたと、先に階段を下りて来たのは市ノ瀬で、その後にすっぴんの玉ノ瀬が転がり落ちそうになりながら階下に降り立つ。結上げられた髪は乱れていて、銀色を軸にし真っ赤な数珠玉が幾つも垂れ下げられた簪は今にも取れ落ちそうだ。
「蹴っても踏んでも起きなくて」
市ノ瀬が清之介の傍で厭味ったらしく溜息をつくと、客に平伏していた玉ノ瀬が小さな声でごめんなさい、と呟いている。俯いて目は見えないのだが、その表面はおそらく揺らいでいるだろう。
平伏を解いた玉ノ瀬は座り込んだまま清之介を見上げた。半ば閉じられた目を見た途端、彼女は素早く顔を背ける。風をきる音が聞こえそうな速さだった。
清之介はその動作を見、昨晩を思いだす。玉ノ瀬が清之介に酌する際のことだ。猪口に酒を注ぎながら銚子を落とすという醜態など、遊女どころか接待する人間はなかなかしない。時と場合によるが相手がお偉いさんであることもある。手を滑らせ酒など零せば、どうなるか。清之介のように無頓着な人ならいいが、短気な人間、もしくは上の身分の人間であれば切腹ものだ。そこまでいかなくても、大事なやりとりであれば、利益が水の泡となる。
遊女もまた然りだというのに、玉ノ瀬は銚子を落とした。勿論清之介はその訳に気づいている。
俺だから。
自分のような不細工な男に酌することで、自尊心を傷つけたのだろう。身形綺麗な自分がこんな醜男の相手など。怒りで銚子を震わせていた彼女の眉間には深い皺が刻まれていた。
そう思い出すと、体を半回転させ、下駄を見下ろした。鼻緒がこちらを向いたままになっている。
「どうしはったん」
微動だにしなかった清之介が動いたことに驚き声を出したのは菊桜だ。目を瞠り、框まで駆けてくる。
鼻緒を足の親指と人差し指の間に挟み、振り返れば口を張った三人の顔が清之介を見ていた。玉ノ瀬などまだ座り込んでいる。
「いや、昼から酒は体に毒だろうし、また兄が許しを解かれた時にでも来ます」
暖簾をかき上げ外に出る。蒼い空に雲はなかった。肌にあたる日は焼けつくように痛くなり出している。すぐそこに夏がいるのだ。
「待って!」
大通りの中間までやってきた時。背後から声がかかるのと、背に衝撃がくるのは同時だった。背にしがみつく衝撃の主を振り返れば、肩で息する玉ノ瀬がいた。
息を整える彼女は清之介の着物から手を離さず、俯いたまま踊る心臓を落ち着かせている。背をさすってやろう、と伸ばした手を、清之介は引っ込めた。
「あ……あのっ」
清之介から手を離し息絶え絶えに言い、意を決したように玉ノ瀬は勢いよく長身の男を睨み上げた。
「私もお昼、一緒に食べていいですか……!」
鋭い目つきで清之介を見据えると、唖然とされているにも構わず、近くのうどん屋へ腕を引いて行く。玉ノ瀬にされるがままに一番奥の席へ座らされた清之介は、向かいに腰下した女を呆けた顔で見つめた。
相変わらず目線を下に向け、眉間の縦皺は消えていない。手を膝の上に置き、机に店主が茶を運んできても体が小刻みに震えているだけだった。清之介が代わりにうどんを二つ注文する。
湯気が立ち上る湯呑みに手を伸ばしながら玉ノ瀬の様子を窺えば、まるで好奇心旺盛な子供のように、ちらっと清之介を見てはまた視線を下ろし、また清之介、下ろす、を頻りに繰り返している。小川で時を過ごすより、この女を見ていた方が飽きも感じず暇を過ごせるだろうと思う。
「あの――」
「私…!」
清之介が気まずさに耐えかね言葉を発すと同時に玉ノ瀬の声も重なった。だが玉ノ瀬はそれに気付かず自分の言葉を紡ごうと、目を泳がせ必死に言葉を探している。眉間の皺は濃くなり、気のせいか頬も蒸気して赤くなっている。
清之介は湯呑みを置き玉ノ瀬が言葉を見つけ出すのを待った。暫く、あの、えっと、その、と両手を胸まで持ち上げもじもじしていた。その動作がきつい顔と似合わず子供っぽい、と考えていれば玉ノ瀬はやっと言葉を捜し出す。
「私、怒ってないんです!」
声はやたらと店内に響き、昼時であったせいか、店にひしめき合っていた男や遊女と言った客の大半が奥を振り返った。それでも派手な身形の女を見るとあからさまに溜息をつき、泥沼屋だ、と自分たちの食事に戻る。
「よく怒ってるって見られがちなんですけど、私緊張しいなんで……あと目つき悪くて……緊張すると顔が引きつって、怒ると言うか……怒られると言うか、姉さんには笑えって言われるけど、笑うと怒ってると言われて怒られて……」
周囲の目線など気にせず話す玉ノ瀬の言葉はまとまりがなく、通して聞けばややこしくなる。指を組み、人差し指を突きあいながら目を泳がせていた玉ノ瀬の下睫毛に、ついにぷっくりと雫が盛り上がった。流石に、玉ノ瀬の動作を実家の店先を駆け回る子供と重なり合わせ茶を啜りながら見ていた清之介も、慌てて湯呑みを机に置く。
「だから私……! こんな顔だけど、こんな性格なんですぅ……」
「判った。泣くな泣くな」
両手で口と鼻を覆い隠し、喉を鳴らし甲高い声で泣き出した玉ノ瀬に、また周囲の目が集中した。腰を浮かせ、宥める清之介にもその害が及ぶ。
女を宥める方法など、当然清之介は知らない。慌てふためく清之介と、甲高く泣き続ける玉ノ瀬を交互に見て、不快気に咳払いする客もいれば、泥沼な状況の先を見届けようと卑しく笑っている客もいる。見てるなら助けてくれ、と清之介は内心で溜息をついた。
店主がうどんを運んできた時も、玉ノ瀬は泣いていた。五月蝿い声も治まりつつあり、小さな嗚咽に代わり出す。うどんの湯気が玉ノ瀬の方へと向かい、口と鼻を隠す手の隙間をすり抜けて行く。出汁のいい匂いがしたのだろう。くぅ~、と愛らしい音が清之介の耳に届いた。嗚咽の音も消え、店内の客のざわめきしか聞こえない。
「……腹減ったろう」
「……はい」
鼻を啜りながら両手をうどんに伸ばした玉ノ瀬の顔はぐしゃぐしゃに濡れていた。涙か鼻水か。なにはともあれ白粉を塗っていなくてよかったと、清之介は自分の着物の袖で顔を拭いてやる。一瞬身を引いた玉ノ瀬だったが、何をされるのか判ると、慌てて顔を近づけ黙って拭かれる。清之介は優しく拭っているつもりであったが、玉ノ瀬の肌は赤くなり、強く擦りすぎたのか、と不安になる。
多少の水気は残るが、顔を綺麗に拭かれると、玉ノ瀬はまた視線を落とし、うどんに伸ばした手も引っ込めてしまう。伸びるぞ、と言う清之介の言葉にやっと箸を握った。
「お前、幾つになる」
「十七になります」
うどんを口にかき入れていた清之介は、その若干鼻声な返答に驚いて、箸で持ち上げたうどんを椀の中に落とした。そんな派手な顔で……冗談だろ、という反論は出なかった。うどんを一本ずつ笑顔で吸い上げていた玉ノ瀬の表情に翳が生まれたからだ。
「こんなきつい顔に産まれて、こんな弱気な性格に育って…。遊女だって言うのにまともに酌も会話も出来ない。愚図の凡愚が、って、揚げてもらった旦那にも言われました」
あ、と清之介は思った。似た経験を自分もしていたのだ。
丁度玉ノ瀬と同い年の頃、清之介は相変わらず信助の標的だった。視界の端に映ろうものなら、すかさず暴言が飛んでくる。
『そんな顔に生まれた挙句、愛嬌もないとは腐った人間だな。何しに生まれてきた』
そんなもの知るか。無表情の裏に言葉を隠し、兄の気が済むまで言葉を紡がせたものだ。気が済めば信助はとっとと部屋に戻り酒を呑む。思えば暴言を吐かれなかった日はない。
暴言は今でも言われているが、最近は数が減った。信助自身が忙しいこともあり、小川から帰って来た清之介と屋敷ですれ違うことが減ったのだ。平穏で静かな日を、清之介は毎日過ごしている。
「似てるな、俺とお前」
最後の一本を吸い上げ、汁を残した椀の上に箸を置くと、清之介は深い息を吐いた。視線を落としていた玉ノ瀬は、何のことか、と小首を傾げる。
「十代の頃なんて、愚図でいい。そのうち覚えるだろうし、慣れる。弱気な性格なんて人ぞれぞれだ。感性を育てていけば、それもいつの間にかなくなってるよ」
湯呑みを覗き込むと、空っぽだった。泣く玉ノ瀬を宥める際、どうすればいいか判らず焦りのあまり喉が渇いて飲み干してしまったのだ。
すると玉ノ瀬が自分の分を清之介に差し出す。いや、と手で断っても玉ノ瀬は聞かず、その手を取って湯呑みを握らせた。その表情が少し朗らかだった。
「……感性のない俺が言うのも可笑しな話しだがな」
「清之介さんに?」
うむ、と唸ると、礼も言わずに握らされた湯呑みを口元まで運ぶ清之介は、相変わらずの伏せ目で言う。
「俺は感性を発達させる時期を棒に振った」
玉ノ瀬は当然意味が判らない、といった風に顔を顰める。
「嬉しいとか、悲しいとか。俺にはいまいち判らないんだ」
九八郎に誇られ、宗治朗に叱られ、お通に心配され。腹の底から込み上がる、熱いものが感情だと判っても、それが嬉しいかは判らなかった。信助に罵倒されても、体内に湧きあがる黒い靄が鬱陶しいに近い感情なのだと判るが、これが嬉しいのか、悲しいのか判らない。
何故これまで感性に疎いのか。小川でよく耽っては思い当たる節は一つしかない。
清之介は幼少期から家族を遠ざけた。家族だけではなく、自分の容姿のせいで周りの人間も遠ざけ、会話と言う会話をした覚えがない。
朝起きれば母と、時々父や兄弟と一緒に朝飯を食べる。会話はない。厳格な父で躾けが厳しかった上、誰かが口を開けば信助が粋がり清之介を罵るからだ。朝飯の味噌汁や焼き魚が、美味しいのか不味いのか、考えたこともなかった。
父や兄弟は仕事でほとんど会話はしなかったし、母は無口であった故、話しかけられた記憶もない。その結果が今の清之介だ。
小川に行っても、四季の風景が美しいとは思わないし、醜いとも思わない。それでも兄たちが美丈夫と言われ、清之介は醜男と言われる分、嬉しいや悲しいよりは理解できる感性である。冬の小川に氷が張り、日に照らされ表面が煌めく風景は、きっと“美しい”という表現でいいと思う。
「そんな、無知な俺が言っても、何と説得力のないことか……」
「優しい、ですよ」
深い溜息を吐いた後、また湯呑みを持ち上げた清之介に玉ノ瀬は言った。彼女の椀にはまだうどんが残っているというのに、箸を机に置き、真摯に清之介の言葉の意味を考えていた。
「私が清之介さんに抱く感情は“優しい”と言うんですよ?」
首を傾げながら笑顔で語る遊女の表情は、年齢に似合った少女だった。今は紅も何も塗っていないため、遊郭の外にいる町娘のようにあどけない。
清之介は玉ノ瀬の言葉に、元から醜い顔をさらに歪めた。玉ノ瀬の言葉を不快に思った訳ではない。やはり“優しい”という感情がどんなものなのか判らないのだ。
その顔を見て玉ノ瀬はさらに笑みを深める。……彼女の姉女郎は何故この笑顔を怒っていると表現したのだろう。清之介は玉ノ瀬の、緩く引き上げられた薄い唇を、単純に美しいと感じた。
「優しい、と言うのは“心が美しい”という意味ですよ。親切で他人想い。真っ先に人のことを考える人を見て、周りは『優しいな人なんだ』って思う。つまり“美しい心”を持つ人は“優しい人”の証なんです」
―――玉ノ瀬の言葉は雫となり、清之介の胸の中に波紋を成す。その波紋は足や指先にまで行渡り、体が思わず震えあがった。
すっと理解出来た玉ノ瀬の言葉。聞いた途端湧き上がった感情が何なのか判らないが、九八郎に誇られた時の感情に似ている。誇る、と言うのがどれほどの価値かなど知らないが、大事にされるものだと考えていた。兄に“大事にされる”など少々むず痒いのだが……。さらに“美しい”という言葉に程遠い清之介にとって、例え“心”でも美しい、と言われるのは体中が痒かった。
「ちなみに美しいと言うのは―――」
「それは知ってる」
「そうですか。……なら清之介さん。今あなたが抱いてる感情が“嬉しい”ってやつですよ? きっと」
さらにさらに笑みを深めた玉ノ瀬は、上げられた自身の口角を指差す。つられて自身の口元に指を這わせた清之介は目を見開いた。
笑ってる。自身の口角が上がっていたのだ。何の感情も抱かないと嫌悪されてきた人間が。
嗚呼、これを感服、と言うのだろうか。
清之介は幼少期に見た書物を思いだす。江戸を生きる多くの学者は、歴史に名を残した故人の偉業を読み解き、綴って大いに感服した。前後の文から察するに、凄いということなのだと自分なりに理解した。その感情を、今目の前の玉ノ瀬に向ける。
「ありがとう」
清之介の言葉に玉ノ瀬は目をぱちくりさせ、顔を真っ赤にすると、冷えたうどんを慌てて啜り出した。伸びていて量が倍増している。
これが“嬉しい”なのか―――
玉ノ瀬が食べ終わった後、自分が出すと言い張った玉ノ瀬を制し、九八郎から預かった銭で勘定を済ませた。店先で分かれ、玉ノ瀬は見世へ、清之介は屋敷への帰途に着く。
清之介は胸を張って歩きたくなった。普段は足元を見て歩くのだが、賢くなった今なら真っ直ぐ前を見て歩ける気がした。