【75】エクトの街が見せた夢 ~ 異世界転生者討伐遂行(仮)
――王歴515年
ボクは少し前から、ある少年と共に旅をしていた。
少年の名前はエージー。年齢は13歳。クラスや職業と言ったものは特にない様だけど、特異な能力を数多く持っていて、その能力はことごとく、世界の理を逸脱してしまっていた。
まず、魔法の様なものを使う。「様なもの」と言う様に、それは魔法ではなくて、魔法の様に見せかけている別のものなんだ。その効果も通常の魔法と同じ様に見える。魔法を模倣してるがごとく。ただし、対効果は非常に高く、ただただ理不尽に高性能だった。
特に問題なのは、それ以外の能力で、それらはとても異質だった。例えば、何もない所にどんな大きさの物でもしまう事が出来るらしい能力だったり、相手の能力を見定めたりする能力。
この相手の能力を見定めると言う能力は驚くべきもので、ボクと最初に出会った時に、ボクのクラスや能力を大体言い当てていた。
他にもやはり魔法ではない様だけど、魔法の様な効果を持つ特殊な能力も多数使う事ができる様だ。
例えば、魔法で言う属性の耐性や、身体能力の向上、防御力上昇など。彼はそれらを駆使するばかりか、ないものがあると自分で創造してしまう。そのどれもが利便性に特化している様に感じた。
個人としての能力は、ほぼ完全無欠であると思われる。どこをとっても弱点がないみたいだ。
そんなエージーとの旅は実に痛快で、彼が次々と世界の常識を覆していく様を、そばで見ているのは正直言って楽しくもあった。
エージーは性格もよく、まるで太陽の様に周囲の者を照らし、そこに屈託がまるでない。まるで聖人の様に理想的な人間だった。
困った者を見かければ、すかさず手を差し伸べる。人々の悩みや苦しみ、直面した問題を聞いては一緒に悩み、楽しい事、嬉しい事があれば共に喜ぶ。
本当に、非の打ち所のない理想的な人間だ。そう、人間性には何も問題がなかった。
ボクがベッドから起きると、横に寝ていたエージーは既に起きていて、テーブルの前の椅子に座り何かをしていた。
不思議な事に、エージーは宿屋に泊る時、ボクと同じ一つの部屋に泊り、一つのベッドで寝たがるのだけど、それでボクに何かする事はなかった。
それは普通じゃないかと思うかもしれないけど、ボクの性別は一応女で彼は男。男女が一つのベッドに眠ると言う意味を考えて欲しい。年頃のボクとしては大いに気にする所なんだけど、別に何かして欲しいって事ではないので、そこは勘違いしないで欲しい。
とにかくエージーは、積極的にボクと同じベッドに眠りたがるのに、何もしようとはしない。
疑問に思って、彼の心をボクの能力で観察すると、彼はこの状況にとても満足してるみたいだ。一緒に寝るって事が最終目的で、その次はないみたい。んーん。厳密には、そこに見えない壁の様なものがあると思い込んでいる様だ。理由は分からないけど、それが彼のルールらしい。
だけど、彼にも心の内の葛藤はある様だ。
夜中にむくりと起き上がって、ボクに何度も手を伸ばそうとしていた事がある。右手を出して左手で止める。左手を出しては右手が止める。そんな事を繰り返してまた眠る。よくわからないけど、そんな不思議な行動をする。単に寝ぼけていただけかもしれないけど。
ともかく、根は純粋で善良な心を持った少年だ。
エージーは、今日も朝早くから人々の役に立とうと、色々と準備をしている様だった。
『おはよう。今日は何をしてるのかな?』
「おはよう! 今日? ふっふっふー。それはだねぇー」
エージーは何かをどこからともなく取り出し、それを机の上に置いた。それはビンに入ったキラキラと美しく輝く液体の入ったビンだった。
『きれいなビンだよね』
「でしょー? やっぱ見た目の美しさって重要だと思うんだよね。偉い人にはそれがわからんのです!(ってそれは足だろっ! バシッ!)」
『……? 偉くないボクにはわかるけど。誰がわからなかったの? 足ってなぁに?』
「アハハハ! そこは気にしないで! 言いたかっただけだから」
こんな風に、たまにボクの理解出来ない事を言う。気になるけど悪気はないみたいだ。
『わかった。気にしない事にするよ』
「ぷっ。イシェルは面白いなー。
転生したらボクっ娘の天然美少女に出会っちゃいましたー!
ってとこだよね! 役得役得ぅ!!」
エージーはたまに意味不明な事を言うのだけど、それはそれとして楽しい。
『うれしいけど、少女ってとこは違うかな。ボクはもう「あー! あー!」だよ?』
ボクが実際の年齢を言ったら、なぜかエージーは騒いだ。
「いいのいいの! もう年齢なんて関係なくなるからさ。ジャジャーン!」
ジャジャーン!とは言ってるものの、そのビンの事はさっきもきれいだって話してた奴だし「今出しました」みたいな感じで言われてもね、完全にタイミングは外しているよね。でも、そういう所も彼らしく、人々にも親しまれる点でもあるのだと思う。
『これはなに?』
ボクは甘やかさない。この子は確かに褒めて伸びるタイプだけど、精神年齢はまだ幼いみたいで、余り褒めるとすぐに調子に乗るからだ。しかも、その伸びはことごとく世界を変えてしまう程。だからボクは過剰には褒めない。彼のためにも。
「何だと思う? ヒントー! 不老不死の薬!
でねっ、オレは飲んだから、イシェルも飲んで?」
ヒントって言ったけど、それは答えじゃないのだろうか。
と言うか、飲んだんだ。……まずいな。味がじゃなくて、これは完全にアウトかもしれない。
『不老不死って?』
一応は聞いておこう。
「あれ、知らない?(うーん、この世界にはそういう概念ってないのかな? 街の周辺にスライムが見当たらないし、ダンジョンもないからレベル上げも出来ない。魔法はあるみたいけど。全体的に思ったよりも普通の世界なんだよなぁ)」
エージーが何かまたぶつぶつ言っている。彼はたまに、唐突に自分の世界に入ってしまう様だけど、考えてる事をそのまま口に出す癖があるみたいだ。
『エージー? 大丈夫?』
「はっ!? ごめんごめん。えっと、何だっけ?」
『不老不死』
「そうだった。不老不死ってのはねー。ずーっと若いまんまで死なない事ね。因みに殺されても、ちぎられてもすぐ再生しちゃいまーすッ! これはそうなる為の薬さ(びしっ)」
”びしっ”ってとこで、エージーはグーの親指を突き立てて、ウィンクをした。
『ふーん。凄いけど、ボクには必要ないかな』
「なんで!? オレはずっとイシェルと一緒に旅したいのに……。
ちっちゃいボクっ娘って勇者の相方に最適なんだけど。
あっ、わかった! もしかして信じてないなー?」
そう言うと、エージーは躊躇する事なく、剣で自分の首を切り落とした。首は床に転がり落ちてゴトンと言う音を立てた。首のなくなった体は、首から血を吹き出しつつ力なく椅子から転げ落ちた。
「ほらね?」
床に落ちた不気味な首が何か言っている。首が喋るのは驚くけど、何が「ほらね」なのだろうか。
少しすると、倒れた体がすーっと消えて、首から下がすーっと生えてきた。
それと同時に、床に血だまりを作っていた血もすーっと消えた。
「ほらね?」
二度目。エージーは「ほらね」と言うタイミングを見あやまっていたらしく、また言いなおしていた。
そして、むくりと起き上がるエージー。
「(どやぁ)」
立ち上がって、無言で得意そうな顔をするエージー。
もしかして、「ほらね?」って言うタイミングって今だったんじゃないのかな。
「ほらね?」
三度目。エージーも気が付いたらしい。
『エージー。それはダメだよ』
「えっ? ダメ? どゆことー?」
エージーは顔を斜めにかしげた。
『死ねないのって多分地獄だよ』
「……? なんで? 永遠に戦闘を楽しめるよ?」
エージーはぽかーんとしている。
『この世界が、この星でもいいけど、もし突然消滅したとするでしょ? みんな死ぬけど、エージーだけは生きててそこに永久に居続ける事になるよね。何百年も何前年もずーっと。それって地獄なんじゃないのかな』
「うーん。そうか。言われて見ればそうだよね」
エージーは素直にそう言うと、何かごちゃごちゃとやりはじめて、やがて一つのビンを作った。
『ジャジャーン! 可老可死ーっ!』
また妙なものを。何となく予想はつくけど。
それをエージーは、腰に手をあててぐびっと一気に飲み干し、空になったビンを空中に放り投げた。その放り投げたビンは、床に落ちる事なく消えた。
「ほらね?」
何度目だろう。しかも何が「ほらね」なのかさっぱりわからない。
『なにが?』
「アハハハハ! わからないよね。可老可死って薬を作って中和したんだよ。これでオレも死ねる……」
何を言ってるのかよくわからないけど、不老不死の薬を、可老可死って薬で中和して、効果を消したって事かな。
―――判決を下す……!
エージーがこの世界に来て、日々起こしている奇跡。それは世界の調和を乱すものと判断されてしまった。
『エージー……』
言いにくい。言いにくいけど、言わないといけない。
「ん? どしたー? イシェル」
エージーは屈託のない顔で、ボクにニコリと笑う。笑顔がとても眩しい。
『正式に、キミの判決が下ったよ』
本当に、これを言うのはすごく悲しい。
「判決? 真実はいくつみたいなやつ? それとも意義ありげなやつ?」
そう。キミには理解出来ないだろうね。キミに罪の意識はないのだから。
『ボクは……。キミを殺さなくちゃいけない』
それに対して、「ハテナ?」と言う顔をするエージー。
判決が下ってしまった。
とても残念だけど、ボクは終わらせないといけない。
エージーは自分の事を、異世界転生者とか、勇者とか言っている。
どういう事かエージーに聞いたら、彼は元は別の世界に生きていた”コーコーセー”とか言う職業の人間だったそうだ。
ある日、くしゃみをしようと口を開けたら、丁度毒虫が口の中に入ってきて、それを飲み込んでしまったらしい。飲み込んだ虫がお腹の中で刺したらしく、お腹がすごく痛くなってのたうち回ってる内に階段から落ちて、頭の打ち所が悪くて死んでしまったらしい。
らしいと言うのは、その後を覚えてないので、ただの憶測だそうだ。
それで、次に気が付いたら赤ん坊になってて、前世の記憶を持ったままだった事から、この世界に転生した事に気が付いたそうだ。
彼は生まれながらにして、特殊な力「世界を改変出来る力」と言うものを持っていたらしい。
そして、13歳で成人して、自分の意思で自由に行動出来る様になったので、何となく旅をはじめてみた。きっかけとかはないそうだけど、そういうものだと思ったそうだ。そして今に至るとの事。
エージーの生まれた村は、彼の影響を大きく受けてしまっている可能性がある為、浄化対象として処理がされている真っ最中だろう。
浄化と言うのを具体的に言うと、転生者の影響のない状態に戻せるだけ戻し、無理な部分があれば削り落とす。その対象が物であれば破壊、人間の場合はご想像通りだ。
「なして? ヘイワキライ? コロス?」
エージーはまだ状況を把握できないでいた。
『理由は言えない。それを言うと、キミを苦しめてしまうから』
キミが存在する事が問題だなんて言えない。それはいくら何でもあんまりだ。
「イシェル、きっと何かあったんだね。
オレに話してくれよ。何でも相談に乗るよ。オレに出来る事なら何だってする。
もし誰かに脅迫されてるなら、そいつはオレが何とかしよう。
だって、イシェルはオレの大切なパートナーなんだから」
あぁ、エージー。キミは本当に尊いよ。こんな形で出会わなければ。キミが普通の人で、それで普通の友人として逢っていれば。
ボクは目を閉じて俯く。これはボクなりの相手への敬意だ。
目を見開き、即座にエージーに複数の針を投げる。
それを表情一つ変えず、片手をはらっただけで吹き飛ばすエージー。相変わらず全く敵意がない。
エージーが針をなぎ払っている間に、ボクはエージーの背後に回り込み、懐から出した片手剣で首を跳ねる。
「ちょい待ち、ちょい待ちー!」
背中を向けたまま、首を狙ったボクの剣をひょいっと避け、くるくる体を回転しつつ距離をとるエージー。
しかし、エージーはこちらに背を向けたまま、両手を斜め下にピーンと伸ばして、その手のひらを左右に広げる妙なポーズをとって止まると「避けて何が悪い!」と謎の言葉を発した。
『……。まだ何かある?』
変なポーズのまま、片足を軸にしてくるっと回転して、こちらへと向きなおすエージー。
「いや、イシェルにどうしょうもない理由があるとして。それをオレが百歩ゆずって認めるとして。
だとしても、オレを倒すなんて不可能だと思うんだよね」
言い終わると、目を閉じて「うんうん」とうなづくエージー。
『なんだ、そんな事か』
何かと思えば、異世界からの転生者であるエージーに、ただの現地人であるボクなんかには、逆立ちしても勝てる訳がないって言いたいんだね。
「いやいや、冷静になって考えてよ。オレの戦闘力は多分……ごじゅうさ、うぉ!?」
喋っている途中で、ボクはエージーの左腕を剣で切り落とした。どうやら喋っている間は動きが鈍くなるみたいだね。
足元にエージーの左腕がドスッと言う音を立てて落ちた。
『大丈夫。ボクはキミを殺せるから』
剣についたエージーの血を、剣をはらって壁へと飛ばした。壁に血の赤い線が引かれる。
「うーん。困ったな。こんな事してもさ……あれ?」
エージーは腕に力を込めた。多分、そのまま腕を復活させようとしたのだろう。
『ほらね?』
ボクは、エージーが、自分の腕が復活できなくなっている事を、確認できたろうタイミングで言った。
「えーっ!? 腕がずばーって復活しないじゃーん!
つーかね、何で腕切れてるの? オレに物理攻撃って通らないはずなんだけど?
うっ? げほっ! たんまっ! むせたっ! げほげほっ。 ふぅ。
もしかしてオレってピンチ? 信頼してたヒロインにぬっ殺されそう?
ボクっ娘イシェルはいつかオレの見た嫁。もしくは夢。
ってそれは置いといてぇー。今こそ目覚めよオレの……」
エージーは未だ危機感を感じていない様だ。この状況を打破して、多分ボクともこれまで通りに修復出来ると信じているね。
本当に尊いよ。人として大好きかも。だからこそ、本当に残念でつらい。
「しばらくオレのターン!!」
どこからともなく「ズキューン!」と言う音が聞こえた気がした。
「休憩。ちょっと待ってね。
今ならイシェルにいたずらし放題だけど、それが出来ない臆病なオレ」
エージーは、足元に転がった左腕を拾うと、切断された部分にあててぐりぐりし、ぱっと手を離した。
「ジャジャーン! ほらね?」
エージーの斬られた腕は、手を離した瞬間床にドサリと落ちた。
『うん。わかってる』
「あり? なんでかなぁー? なんだかなぁー?」
尚もエージーは危機感ゼロ。彼はそう思うだけの能力を得ているのだろう。
その絶対的な余裕のせいで、本来ならボクが喋った時には、まだボクが行動する権利を得てないはずの時間しか経過していない事に、エージーは気が付かなかった様だ。
『そろそろキメるね』
長引かせても仕方がない。そろそろ終わらせよう。
「ふっ……左腕がうずく。じゃなくて目。
イシェルよ。ワシをここまで追い詰めたのは、オヌシが初めてじゃ。認めねばなるまい。そして、ワシの全力を持って敬意を示そう!
エージーィィィ!!」
何かしようとするエージーに、ボクは素早く動き回って隙を探す。と言っても隙だらけ。何をするにも無駄が多く、メチャクチャな動きの様に見える。
エージーは戦闘経験が浅いからね。だけど謎の法則がある様で、メチャクチャな動きでもこちらに当たるし、隙だらけなのに攻撃する事が普通に出来ない。
そして、またドサリと言う音がした。
『ほらね?』
「ちょっ! まだオレ、技の名前言い終わってないじゃん! ちゃんとトークの順番守ってよ! あら。右手がなーい!」
ボクは、エージーが叫んでる間に、右手も斬っていた。
『うん。ボクが斬ったよ』
「マジかッ! 鬼畜すぎじゃね? だが悪くない! ところで、両腕がないと体が軽くなるんだな」
両腕を失っても危機感ゼロ。それだけエージーの能力はとんでもないものだと言う事だ。
『次で最後だよ』
「そうか。ついに、アレを使う時が来てしまった様だな……。エージーユーシャーぶっ!?」
『終わり』
ボクはエージーの首をはねた。さっきの様に、エージーの首は床にドンと落ちて転がった。
「ぬふぅー。こんなピンチは生まれてはじめてだーん! つーか、床しかみえねぇ!!」
『短かったけど、エージーと一緒に冒険した時間、とても楽しかったよ。いつまでも忘れない……』
「ちょっ、オレ今床しか見えてねぇからッ!! 絵的にダメでしょ? コレ!」
ボクはせめてもとエージーの顔をこちらに向けると、最後に両手に抱えてぎゅっと抱きしめた。
「おぉぉぉっ!? し、死ぬ……。マジ圧迫死とかマジぱねぇ!」
『さようなら』
ボクはそっとエージーを床に置き。さよならを言った。
「見えるぞ! 私にも……パンッ……」
エージーはこの世界から消滅した。
でも、エージーが最後に言っていた言葉って一体何だったんだろう。
異世界からの転生者だからか、今までもたまにボクの理解出来ない事は言ってはいたけど、あのタイミングでわざわざ言ったって事は、すごく意味がある事だった様な気がしてならない。
だけど、どんなに考えても全然わからなかった。エージー、ゴメンね。キミの最後の言葉なのに。
消えてしまったエージーに申し訳なく、ボクは涙が止まらなかった。
「終わったみたいですね。お疲れ様でした」
いつの間にか、ドアの所に黒い女が立っていた。
『うん。そっちは?』
「こちらも終わりました。浄化は、結局全てが範囲内になりました。とても残念です……」
黒い女は残念そうな顔をしているけど、心では全くそう思ってない様だ。美しい顔をしてるだけに、その落差には恐怖を感じる。
『そう……』
「行くのですか? ナボラに」
『そうだね。余り行きたくないけど』
「なら、わたしもご一緒しますよ」
『ありがとう』
ボクは黒い女に背中を見せたまま、それからしばらくその場に立っていた。
冠のいい人なら気が付いたと思うけど、エージーは人間ではなく、人間の様なものだった。それについてボクは詳しくは分からない。ただ、エージーの様な存在は、この世界の秩序を著しく乱してしまう。ボクはそれを阻止しなければならないんだ。どんなに辛くても。
ボクは手のひらの上でガラス玉を転がしていた。世界はこのガラス玉の様に、ふとした事で容易にどこかへ転がってしまうのかもしれないな。
振りかえると、黒い女はいつの間にか黒い帽子をかぶっていた。帽子のせいで表情は見えなかったけど、その口元がくっと上がった様な気がした。
***
ボクと黒い女は、ナボラの教会へとやって来た。
正直ここは苦手なんだけど、ある事を確認をする為には、どうしてもここに来なくちゃいけなかった。
神託の間に入り、白い奇妙な服を着た女性とたった一人で対面する。この女性と会うと、ボクはなんだか変な感じがするからイヤなんだ。
その女性は一言も喋らずに、すぐに神託を始めた。女性の体の周囲に靄の様なものが発生していった。
「彼は……、旅立たれた様です」
白い奇妙な服の女性が言う。
『そう……、ありがとう』
それだけ聞いて、ボクは部屋から出て行った。ここには余り長居をしたくない。理由は分からないけど、そんな気がしてならなかった。
神託の部屋から出て、ドアを閉めようとした時にふと女性を見ると、彼女はボクを見て微笑んでいた。その何とも言えない表情に驚いて急いでドアを閉めた。
ドアのすぐ横に黒い女は立っていた。
「よかったですね」
そう言うこの黒い女だけど、心の中はその事に全く興味がない様だ。
『何で中に入って来なかったの?』
黒い女がついて来たのはこのドアの前までだった。おかげでドアの中にはボク一人で入る事になってしまった。あの奇妙な服を着た女性とは、二人っきりになりたくなかったんだけどな。
「おじゃまかと……」
黒い女は妙な事を言って微笑んだ。
***
――王歴512年
唐突にボクは目が覚めた。何だろう。なんだかおかしいな。おかしな夢を見ていた気がする。何だろう。
とりあえず、気持ちを落ち着かせてから辺りを見渡す。
そうだ、ここはエクトの魔戦士組合の建物だ。辺りはまだ暗い。
明日はここを出発して、王都に向かう予定だったよね。
「カレー?」
突然横で声がして、ボクはビクッとした。
その声の主は、シンナバーだった。安心しきった様に寝息を立てている。
『ボク、もっともっとがんばるからね』
ボクはシンナバーを起こさない様に小さな声で言って、そっと口づけをした。