【63】儚い幻想(5)
暗い森に、大きな炸裂音が鳴り響いた。
音に驚いた鳥達がざわめき、辺りの暗闇を闇雲に羽ばたく様な音が聞こえる。
「ほぉ、あの状況でよく避けられたな」
黒い男は楽しそうな口調で言った。
男の前方の木々は、広範囲に渡ってその表皮が削られている。その表面には無数の丸い穴が空き、小さな金属の玉がめり込んでいた。
この黒い男は、武道大会に出場していたデカい腹の男、タンザ・ゾイと同じ仕掛けを仕込んでいた。それは、至近距離用の対人兵器。強力な火薬の爆発力で、広範囲に小さな金属の玉を飛び散らせるものだ。
発想はニードルガンに少し似ているが、貫通力は遠く及ばない。だが、その仕掛けは単純かつコストもかからない。それでいて十分な殺傷能力と三拍子が揃っていた。その実はトラップを改造したものであり、コスト対効果が高いのは当然なのだが。
ヘタレ格闘家は、黒い男の目線の先にある、木の裏側に身を潜めている。
彼は黒い男が鉄の玉をばら撒くのを寸前に感知し、即チャクラを発動させて退避していた。しかし、金属の玉が飛び散る寸前で気づいたとして、前方や左右に逃げるだけの猶予は既になかった。
その為、後方へ下がりながら距離を消費しつつかわしたのだが、すぐ近くにこの木があったのは幸いだった。後、一メートルも離れていたら相当なダメージを食らっていた事だろう。
銃の様に連射して撃てる事はないだろうが、男の浮かべる余裕さからすると、まださらに打つ手を持っている可能性がある。ヘタレ格闘家は、うかつには出て行けないと判断したのかじっと身を潜め、傷めた目を手で覆っていた。
「お前達はなぜマトラを敵に回すんだ? 一国が相手じゃリスクが高過ぎだろう?」
ヘタレ格闘家のその言葉に、黒い男はニヤリとする。
「ハッ! そんな事に興味なさそうだったのによ。そうだよな時間稼ぎしたいよなぁ? バレバレだぜぇ?」
ヘタレ格闘家が時間稼ぎを考えているのであれば、完全に見破られていると言える。しかし、当のヘタレ格闘家はその言葉に反応する事もなく話を続けた。
「今後、お前達を倒す依頼を受ける事もあるだろうと思ってな。その時の為に、お前達が何を考えてるか位知っておいても損はないだろう。その方が潰し甲斐がある」
それを聞いた黒い男は、前のめりになって噴き出した。
「確かに! このままあんた一人で逃げれば、それも叶うかもなぁー? アッハハハハー! どうするよ? あんたはターゲットじゃねーから、見逃してやるかもよ?」
ヘタレ格闘家は、木を背中にしてよりかかり、靴のかかとで木の根元を蹴ってトントンと言う音をさせた。
「そんなに言いたくないなら別に言わなくてもいいぞ」
「フン、まぁいい……、特別に答えてやるよ」
そして黒い男がクククと笑った。
「ほぉ、教えてくれるのか? そりゃどうも」
「簡単な理由だ。戦うのがただ面白いからさ。オレもマトラを倒して新しい国を作る事になんざに興味はねぇ。オレはただ、好き勝手に戦える場を提供してもらえるから便乗してるのよ」
黒い男が言い終わる時、グッとカンテラを突き出した。カンテラがゆらゆらと揺れ、辺りの木々の影もゆらゆらと揺れた。
「……そうか」
ヘタレ格闘家は数秒置いて答えた。
人の生き方など人それぞれである。どういう生き方をするとして、他人を自分の尺で計れるものではない。しかし、ヘタレ格闘家はこの男を見過ごす気は起こらなかった。
「人がカミングアウトしてやったって言うのに反応が薄いなおい。聞きたい事はそれだけかね? と言っても、その目が回復する前に決着付けたいんで、次は受付けないがね」
黒い男は右手をポケットに入れ、ヘタレ格闘家が隠れた木に向かって体を真っすぐに向けている。ヘタレ格闘家は、その威圧感を木の両側から流れむ異様な気配で感じ取っていた。
「さて、そろそろ出て来てもらおうかね」
そう言い、黒い男はポケットから丸いものを取り出したかと思うと、ヘタレ格闘家が潜んでいる木に向かってポイっと投げた。投げられた丸いものは、ヘタレ格闘家が寄りかかっている木の幹にコツンと当たって音を立てる。
丸いものは一瞬光り、直後にけたたましい音を立てて爆発した。ヘタレ格闘家の隠れている木の根元の部分がバラバラに吹き飛び、支えを失った木の幹は爆風によって、黒い男とは反対側へと倒れていく。
支柱を失った木の上部が重い音を立て、辺りの地面を揺らして倒れた。辺りには爆風で舞い上がった大量の葉や枝が、バラバラと落ちて行く。
「おっほーッ! スゲェな。あの丸いの、こんなに威力あったのかい! こりゃぁ、ひょっとすると生きちゃいないかねぇ?」
黒い男は、カンテラを手に取って、倒れた木の辺りを照らした。照らされた地面には、倒れた木や飛び散った枝葉以外は見当たらない。
「おっ?」
ヘタレ格闘家が、黒い男の右真横から勢い良く飛び出したのに対し、黒い男が声を上げた。ヘタレ格闘家は、今の爆発に紛れて移動していた。間合に飛び込む事に成功したヘタレ格闘家は、黒い男に向かって素早く右の拳を突き出す。突き出した拳は黒い男の腹部と接触すると、青白い火花を散らしてめり込んで行った。
「うぉ!?」
ヘタレ格闘家は、そのまま黒い男を殴り飛ばした。黒い男が五メートル程離れた草むらに背中から落ちる。ヘタレ格闘家は踏み込んだ姿勢で右手を突き出したまま、ひっくり返る黒い男の方向へと顔を向けた。
黒い男の手を離れ、草むらへと落ちたカンテラから油が流れ出し、黒い男の足元の草を燃やし始めた。真っ赤な炎に照らされ、周囲が誰の目にも明るく映る。
「いってぇー! だが流石はオレが見込んだだけはあるねぇ」
上半身を起こし、口元をにやりとさせる黒い男。
「さっさと立ちな」
黒い男は、両肩付近にあるボタンの様なものを押すと、体の前面に着けていた装備が外れた。その装備は、鎧の様に身に着けるタイプの武装で、まるで亀の甲羅の様だった。それの腹部辺りが欠損して穴が空いている。黒い男が甲羅の様な武装を左横へ落とすと、フライパンを落とした時の様な、ゴワンと言う鈍い金属音がした。
「うわ……穴空いてるぜ、十ミリもある鉄板を拳で破ったのか? 目だってまだよく見えてないんだろ? あんたマジでスゲーわ」
黒い男は、外した装備に空いた穴を手で確かめる様に撫でた。
「次は加減しない」
「ハッ! これで加減してんのかよ。いいぜ、せっかくだからあんたの強さを見てあげちゃおうじゃねーの」
上半身を起こしていた姿勢から、黒い男がよっこらしょと声を上げて立ち上がった。今度はポケットに手を入れる様子はない。仕込み装備を外した為に、何かをする必要がなくなったのだろう。しかし、それでも構える様子はなく、腰に手を当ててつっ立っていた。
「どっからでもどーぞ」
黒い男が言った直後、ヘタレ格闘家は視界から消え。黒い男がハッと驚いた様な声を上げる。次の瞬間、黒い男の背後にヘタレ格闘家が蹴りのモーションで現れると間髪入れる間もなく蹴りを放った。しかし、その蹴りは黒い男にかする事もなく、鋭い音をさせて空を斬る。ヘタレ格闘家がむうと短く唸った。
前へ飛んでかわした黒い男が、地面に手を着いてくるりと一回転して振り向く。
「あぶねぇあぶねぇ……今の食らったらオレもああなっちまう……お?」
黒い男は、木の根元で息絶えた連れの男に親指を向けた。だが、男が言い終わるのを待たずにヘタレ格闘家は、また男の視界から消えていた。
ヘタレ格闘家が次に現れたのは黒い男の頭上だった。右足を高く上げ、そしてかかとを黒い男目掛けて振り下ろそうとしている。
黒い男は、それをおっとと言って素早く後ろへと下がってかわすと、ヘタレ格闘家が黒い男を目で追いかけつつ、チッと舌打ちをした。
地面へ着地したヘタレ格闘家が黒い男を睨むと、男の口元がまたにやりと笑う。
「どうした? 手加減しないって割には当たらねーなぁ?」
黒い男の問いかけに、ヘタレ格闘家は黙ったままで睨んでいる。
その後、ヘタレ格闘家は何度となく攻撃を繰り返したが、その全てを直前で避けられてしまった。ヘタレ格闘家は少し息をはずませている。対して、黒い男は最初と変わらず澄ました顔のまま全く構えもせず、また反撃しようとする様子もない。
「どうしたよ? 全く当たんねーじゃねぇの」
「そうだな。ところでお前は攻撃しないのか?」
「あ? 当たりそうになったらしてやるよ」
するとそうかと言い、ヘタレ格闘家はにやりとして姿を消した。
ヘタレ格闘家は、チャクラの応用によって反応速度が十倍に跳ね上がる。その発動時間は約一秒程度とほんの一瞬ではあるが、ヘタレ格闘家にとっては全てが自分の為にある様な十秒であるはずだ。
にも拘らず、チャクラの効果が切れてから蹴りを繰り出しているのは不自然ではあった。
それはひとまず置いておくとして、通常消えた相手が視界に現れて、それから認識して回避するのに一瞬とはいかない。黒い男の再認識の速度と反応がとてつもなく速いか、ヘタレ格闘家の攻撃が遅いかのどちらかだろう。
ヘタレ格闘家が視界から消えてから一秒が経過し、黒い男の頭上に影が現れた。
「ハッハーァ! お望み通り反撃してやるよ」
黒い男は、おもむろに頭上の影へと手を指し延ばした。その手には、トリッサが使っていたニードルガンと同じものが握られている。
そして、頭上の影が落ちる前に引き金を引いた、強力な火薬が炸裂して銃口から無数の針が飛び出す。ここまでの反応速度は確かに迅速であったが、特別に速いと言う訳ではなかった。であるなら、なぜヘタレ格闘家の蹴りが全く決まらなかったのだろうか。
黒い男の放ったニードルガンは頭上の対象へとヒットし、そのすさまじい貫通力によって容易に貫いてしまった。炸裂音に混ざり、ドシャッと言う音が辺りに響いた。
「はい終わ……、あぁッ?」
人間は物体を認識をする為に、多少の時間を必要とする。ヘタレ格闘家の様な能力でもない限り、認識速度は簡単に上げられるものではないのだ。
黒い男が撃ち抜いたのは、さっきこの男が自分で外した亀の甲羅の様なものだった。その中心にニードルガンによって貫いた大きな穴が空いている。しかし、黒い男がそれに気づいた時には既に、背後からヘタレ格闘家は蹴りを撃ち込んでいた。
ヘタレ格闘家の蹴りが、黒い男に青白い火花を散らして炸裂する。その蹴りは、見事に男の背中に直撃し、男は重力から解放された様に地面と平行して前方へと吹っ飛び、少し離れた所に立っている木の幹に激突して大きな音を立てた。
黒い男は木にくっつき、ずるずると落下して膝をついた所で止まった。ヘタレ格闘家はそれを見てふうと息を吐く。その足元に大穴の空いた亀の甲羅の様な装甲が落ちていた。
ヘタレ格闘家は、両手の手のひらを眺めて首を捻った。
「思った様に能力を発揮できないのが、不思議だと思ってんだろ?」
「む……!」
木にくっついて膝を付いた状態の黒い男は、後ろを振り返らずに言った。男の背中の表面はヘタレ格闘家の蹴った通りにひしゃげ、人体として不自然な凹みが出来ていた。黒い男が自分の肩に手をかけると、背中から板が剥がれ落ちた。地面に落ちた音からすると、前面に着けていたものと同質の装甲板らしい。
黒い男は、木に手を付きつつゆらりと立ち上がった。蹴りが直撃したにも関わらず、立ち上がれるのは背中に装着していた装甲板の為だったのだろうか。
「能力をほとんど封じた蹴りですらこれとはな」
「やはりお前のせいだったか」
「わかったろ? オレは至近距離の魔法や特殊能力を阻害して、なおかつ阻害した分はペナルティーとして返す事ができる。オレはつまり、能力を持つ相手の優位に立てる訳だ。もっともあんたの場合、オレも無事って訳にはいかなかったが……」
黒い男がヨロヨロとしつつ、ヘタレ格闘家の方へ向きを変えた。それを見て、ヘタレ格闘家が再び構えの体制を取った。すると黒い男の口元がクッと上がる。
「悪いが今日はここまでだ、そこの二人は残念だが返してやるよ」
「なに?」
ヘタレ格闘家の言葉にまたなと返すと、黒い男はいつの間にか手にしていた丸い玉を、ヘタレ格闘家の足元に投げ付けた。丸い玉が地面に落ちたその時、直視できない程の閃光を放った。
「くっ!」
ヘタレ格闘家は顔を歪ませると、とっさに閃光から右腕で目をガードする姿勢を取った。その閃光は眩い光を放ち、辺りを白昼へと変えてしまったのだった。
しばらくして光が弱まった頃、ヘタレ格闘家は木の根元で何も知らずに眠っている、シンナバーとスフェーンの前に居た。そして、二人の頭をポンポンと軽く叩いて微笑んだ。
ヘタレ格闘家達の現在位置から一キロ程離れた森の中を、不自然な足取りで歩いている黒い男の姿があった。時おり木の幹に体をぶつけ、その都度舌打ちをしている。
「チッチッチッ! まさかこのオレがこんな様になるとはとんだ誤算だった……ん?」
黒い男の目の前に、カンテラの光が見えた。
「まさか追いついて……いや、オレが持っていたカンテラは燃えちまったはずだ」
そのカンテラの光は、四つに分散して黒い男をぐるりと囲む。
「だれだぁ?」
《人間と言う生き物は、灯りもなくこの森を歩く能力があるのか》
《その様な事は聞いていない。この場合、よほどの訓練をしているか、または……》
《灯りがない状況で歩かねばならぬ状況であると?》
《その可能性は確定的明らかだ》
カンテラを持った者達は、取り囲んでいるにも関わらず、黒い男を全く見ずに会話を始めた。
「はぁ? 何言ってるんだ?」
自分の事について話していると感じつつ、全く眼中にないそぶりで話す四人に、黒い男は困惑の色を露にしている。
《所でこの人間は該当するのか?》
《恐らくは、黒装束の特徴が一致する》
《ステクトールの者ではあるまいな?》
《その可能性は完全には否定できないが、黒装束が一致する事から該当者である可能性の方が遥かに高い》
尚も黒い男を全く見る事なく会話し続ける四人。
「おいおい、こっち向いて話せよ。該当者とか可能性とか一体何の事を言ってるんだぁ?」
黒い男は周囲を取り囲む者達の顔を確かめると、ハッとした後にクククと小さく笑った。
「なんだぁ? あんた等魔の者じゃねーの、なら容赦の必要なんてねーってこったなッ!」
黒い男は素早く懐に手を入れて、ニードルガンを取り出すと、四人の内の一人に向かって引き金を引いた。周囲に炸裂音が響き渡り、銃口から無数の針が飛び出す。
《この者の処遇はどうするのだ?》
《考える必要もあるまい、この者はたった今我々への敵意を示した》
《左様、我々は与えられた任務を速やかに遂行すれば良い》
《敵意を示しているのであれば、目標であるか否かの可能性に関わらず粛清の対象だ》
黒い男の放ったニードルガンの針は、突然現れた黒い闇に飲み込まれていた。飲み込まれる瞬間、熱せられたフライパンに水滴を垂らした様な音を上げて。
《さて……》
四人の魔の者の内、ニードルガンのターゲットにされた一人が黒い男へと視線を向けた。
「ハッ! 何だぁ? 今の黒いのはよぉ」
黒い男は体が痛むらしく、腰の辺りに手を置いて姿勢を下げていた。
《答える必要性は存在しない》
そう言うと、その魔の者は、黒い男へと手のひらを差し出した。手のひらからプツプツと光の粒が噴出し始めている。
「……チッ!」
黒い男が舌打ちすると、噴出していた光の粒がピタッと止まった。そして次の瞬間、男は魔の者の間を通り抜けると暗い森の中に飛び込み、あっという間にその気配を消してしまった。手のひらを差し出していた魔の者は、ターゲットを失った後に形成され、静かに空中に浮かんでいる光の玉をギュッと握り締めた。
《今のはあの人間の持つ特殊能力か?》
《精神へ干渉して魔法の形成を阻害する人間とは、少々やっかいである》
《だが、あの人間の追跡の必要はない》
《無視できる程度の戦力である事は確定的明らかだ。我々は速やかに次の行動へと移ればよい》
四人の魔の者は、黒い男が逃げた方向を全く見る事もなく、カンテラを目線の高さに上げて黒い森を歩き始めた。