【62】儚い幻想(4)
一際大きなその炸裂音は、ステクトールの村まで届いていた。
弓を構えるトリッサは手元はそのままに、口元を少し上げるとフッと笑った。
「あの男、やられたかもね」
ニヤリとして見せたトリッサに、イシェルは特に動じる事もなく、鋭い視線でじっとトリッサを見据えていた。
「そうかもね。でも、それはそれで好都合だよ」
「どうして? あの子が心配じゃないの?」
「シンナバー達を殺さずに連れて行ったって事は、生きてる事に価値があるって事でしょ? 後でボクが助け出せば問題ないよ」
イシェルの迷いのない鋭い眼差しに加え、さらりと言った言葉に、トリッサは心の内に爆発的なイラつきが湧き上がるのを感じた。
「ホント、イラつくね」
トリッサは目を見開いて叫ぶと、引いていた三本の矢を放して弓を射った。射出された矢の速度は、通常人間の目で捉えられるものではない。三本ともが確実にイシェルに的中する直線を突き進む。
「!?」
だが、イシェルの距離まで到達した時、トリッサは小さく声を上げた。不思議と矢は、イシェルの真横を通り過ぎ、暗闇へと消えて行ったのだった。
トリッサは一瞬戸惑ったものの、すぐに次の矢を手に取ると、再び狙いを付けて放った。しかし、その矢もイシェルの横を通り過ぎる。苛立ちの表情を浮かべるトリッサは、舌打ちをして連続して矢を放った。そのどれもが、イシェルの横を通り過ぎて行く。
「キミにはボクに当てる事はできない」
そう言って、トリッサに向かって歩き出すイシェルの手には、キラリと輝く何本もの針が握られていた。
イシェルとトリッサの距離が半分程度になった時、トリッサは弓を投げ捨てて、腰に下げた二丁のニードルガンを抜いてイシェルへと放つ。炸裂音と共に、ニードルガンの銃口から無数の針が飛び出し、イシェルの遥か後方の地面が土煙を上げた。
トリッサがその手前に目を戻した時、イシェルが立って居た場所には誰も居なかった。ニードルガンの針が通り過ぎた時、イシェルの姿はかき消された様に消えてしまっていた。
トリッサは慌ててイシェルの姿を探した。余裕のない表情をして、少し苦しそうに息を乱している。
「キミじゃボクに勝てない」
左後方から声がした時、トリッサの左腕に激痛が走る。同時に左腕の力が奪われた様な感覚がして、手に持っていたニードルガンは地面に重そうな音をさせて落ちた。
「うぐッ!?」
目の前に居たはずのイシェルは、どういう訳かトリッサの左斜め後ろに立っていた。月明かりを反射して光るその鋭い眼光に、トリッサはかつてない恐怖を感じる。
「う……、うわぁぁぁーッ!」
トリッサは叫び声を上げて、振り向きざまに右手のニードルガンをイシェルへ向かって撃ち出した。
炸裂音が響く中、トリッサには確実に命中したかに見えたイシェルの姿が、すっとかき消されて行く。
頭の中が真っ白になり、トリッサは逃げる事だけしか思い付かなかった。叫び声を上げつつ森の方向へと走って行く。その後ろ姿をイシェルは目で追った。
大きな木の裏に身を隠して、激しく息を乱したトリッサは、まだ激痛が走る左腕に手を当てた。イシェルが手に持っていた針を打ち込まれた為か、力の入らなくなった左腕。出血などはしていないかを確認する。
「え……」
触れた瞬間、トリッサは気が動転してしまった。痛む左腕に手を当てたつもりが、右手が触れたものは自分のわき腹だったからだ。
「え? これって? あれ?」
イシェルの右手には、どこから取り出したのか、いつの間にスラリと長い片手剣が握られている。その足元には、ニードルガンを握ったままの状態の左腕が落ちていた。イシェルは落ちているトリッサの左腕を拾い上げる。
「腕が、腕がないよ? わたしの左腕が……あれ、あれ」
訳も分からず、自分の周囲を手探りで探し出したトリッサ。
「そんな所にはないよ。それより、止血するなりした方がいいと思うけど」
トリッサが声がする方向を見ると、イシェルはトリッサの左腕を左手で持って差し出していた。
トリッサは、その差し出された腕を見つめ、自分の左腕の付け根に手を当てた。ぬるりとした感触がして、生温い液体が流れ出している。徐々にわき腹辺りの感覚が戻り、左腕から出血した血がそれらを濡らしている事を把握する。
「殺さないで……」
イシェルの足元へ視線を落とし、トリッサは力ない言葉を発した。それを見て、イシェルはふぅっと息を吐く。
「ボクはキミを許さないって言ったよね」
イシェルは落ち着いた口調で言い、片手剣の先をトリッサの頭の上で止めた。
「助けて……殺さないで」
震える声で言い続けるトリッサに、イシェルは無言のままくるりと反転して背中を見せた。
「あ、ありがとう……そして」
トリッサがそう言って屈んで首を下げた時、彼女が背中に背負っていたものが火を吐いた。銃をいくつも並べた様に見えるそれは、全てがニードルガンであり、対人兵器としては最も凶悪なスプレットニードルガンと呼ばれる兵器であった。
スプレットニードルガンは、強化されたニードルガンを扇形に配置する事で広範囲に射出する事が可能だが、余りにも威力があり過ぎ、かつ製作コストもかかり過ぎる為、実戦で使われる事はほとんどなかった。
至近距離にあった木々が、ニードルガンによって撃ち抜かれて次々と倒れて行く。木々はメリメリと音を立て、やがてズシンと地響きを立てて倒れた。
「ハハ……」
トリッサに背中を向けて歩き出したイシェルは、もう目の前に立っては居なかった。トリッサの目の前の地面に、イシェルの巻いていた黒い布の切れ端が舞っている。その下には、ぐずぐずになった小さな肉片が散らばっていた。
肩で息をしつつ左肩に手を当てると、トリッサは上半身を起こした。そして、立ち上がろうとした時……。
「さようなら」
どこからともなく声がして、目の前に一筋の光が見えるとトリッサの首に衝撃が起こった。木の影に隠れたイシェルが、トリッサの首に片手剣を振るったのだ。
地面に散らばっていた肉片は、トリッサの切断された左腕であった。
「あ……」
トリッサは、首の辺りから何かが勢い良く流れ出すのを感じた。しかし、首の感覚が麻痺しているのか痛みは感じなかった。
――あれ……? これってどっかで見た様な
トリッサは、これは以前どこかで見た光景だと思った。
実際は、トリッサがサフレインと出会った時に、自分を買った男の首をナイフで切りつけた時の光景だったのだが、彼女がそれを思い出す事はなかった。ただ、孤児院で教えられた「人にした事は必ず自分に帰ってくる」と言う言葉が思い浮かんだ。
トリッサはフラフラとした足取りで、森を出るとサフレインの居る二人の家へと歩いて行った。イシェルがその後ろから黙って付いて行く。
血だらけで入り口に倒れ込んだ姿を見たサフレインは、悲鳴を上げてトリッサを抱きかかえると、奥の寝室へと運んで行った。イシェルは寝室の入り口に立ち、黙ったまま悲しそうな目で見つめている。
サフレインは、トリッサをベッドに寝かせ、頭を自分の膝の上に乗せた。少しの間、回復魔法らしきものをかけていたが、それも効果が出ない事が分かると魔法の発動を止めた。
やさしくトリッサの髪を撫で、徐々に血色を失って行く様子を見て、サフレインは涙を流していた。
「助けて……死にたくない、死にたくないよ」
サフレインの右手を掴み、トリッサはその言葉を繰り返していた。
《トリッサ……》
サフレインが涙を流しつつ、トリッサの右手をぎゅっと掴む。
「死にたくないよ」
サフレインは、どんどん冷たくなって行くトリッサの手に、心がたまらなくなるのを必死に堪えた。
《トリッサ、わたしの事好きって言って!》
「た……けて……」
出血多量でショック状態にあるのだろう、トリッサの指先の震えが止まらない。今まさに事切れようとしている事を、サフレインは感じ取っていた。
《お願いだから好きって言って!》
サフレインはトリッサの口から、一度もその言葉を聞いた事がなかった。最後に一度だけ。一度だけでいいから自分の事を好きと言って欲しい。
「カ……ルーノ……」
《!!》
サフレインの表情がはっとする。
この言葉の後、トリッサは二度体を痙攣させると、目を見開いたままで動かなくなった。それと共に、首から流れ出ていた出血も止まった。
トリッサとサフレインの寝室から、大きな嗚咽が聞こえる。
イシェルはじっと黙ったまま、ドアの前でその様子を見つめていた。