【56】虫の音の記憶
頭上から降り注ぐ月明かりを浴び、サフレインは村の中を目的もなくさまよい歩いていた。
彼女の辺りには人影はない。だが、姿の見えない虫達が歌う声は相反して賑やかに響いている。
サフレインは立ち止まり、耳に手を当てて虫の声に耳を澄ます。
――虫の声をちゃんと聴こうとしたのって久しぶりだな
森を抜けて村へとそよぐ風を浴び、サフレインは穏やかな顔で心に思った。
あの村も虫の声が賑やかだった。
サフレインは目を閉じると、生まれ故郷で両親と平和で幸せな日々を送っていた頃を思い出し始める。
両親の愛に恵まれ、何の不安もなかったあの頃を。
サフレインは、辺境の小さな村、森と水に恵まれたイステーツカに生まれ、そこで元気にすくすくと育っていた。
イステーツカは、辺境の山を越えた隠れ里の様な場所に位置した為、ラーアマー等へ徴兵される事もなかった。その為、戦う術などは学ぶ必要もなかった。
魔力を持つ魔の者でありながら、生まれてから魔法を一度も使わずに一生を終える。そういう者もけして少数ではなかった。そこはそれ程平穏な村だったのだ。
――あの夜さえなかったら
眉をしかめ、サフレインは、いつも「あの夜の出来事」を同時に思い出す。
平和な村は、あの夜を最後に二度と戻る事はなかった。
あの夜、人々が上げる悲鳴に、サフレインは眠りから目覚めた。
サフレインは、窓の外に燃え盛る炎を目にすると、ベッドから飛び起きて大声で両親を呼んだ。
しかし、その声に返事はなく、その代わりに見知らぬ人間の男がサフレインの部屋のドアを開けて、ヘラヘラと笑いながら入って来たのだった。
その男に髪を掴まれ、引きずられながら家の外へと連れ出された。そこで最初に見た光景。それはサフレインの両親が、地面に血を流して倒れている様子だった。
その時やっと、サフレインは今何が起こっているのかを理解した。無法な人間によって村が襲われたのだと。
その瞬間、恐怖心で何が何だかわからなくなり、サフレインは奇声にも似た声を上げて、人間達から必死に逃げようとした。髪がちぎれるのも構わず逃げようとした。
しかし、非力な子供の力では逃げる事は叶わず、手に枷をはめられて村の中央へと連れて行かれてしまった。
そこには、他に何人もの泣き叫ぶ子供達が集められていた。皆、サフレインの遊び友達だ。だが、大人は一人も居なかった。大人達は、この人間達に殺されていたのだ。
人間は、子供達を盾にして大人達を全て殺すと、村の物資と共に子供達も奪い去った。
子供達は、皆手かせを縄で結ばれ、どことも分からない人間の町や村へと連れて行かれた。
人間達は、子供達に暴力を振るう事はなかったが、まともな食事は与えなかった。
自分達が食べ残したものを地面に撒かれ、子供達は生き延びる為に地面に這いつくばって食べた。それを、人間達は笑いながら見下ろしていた。
その内、子供達は全く泣かなくなった。それどころか表情すらなくして行った。
いくつもの街や村を人間に連れられる内に、どういう訳か子供達の数は徐々に減って行った。
やがて、サフレインだけになってしまった頃、人間の数も二人だけになっていた。
ある日、それまでと比べて随分大きな街へ入ったと思うと、サフレインは人間達に綺麗に体を洗われ、上等できれいな服を着させられた。
ボサボサだった髪はきれいに梳かされて結わかれ、手や足の爪も綺麗な色に塗られた。手かせも外されて、その代わりに綺麗な鎖が足にはめられた。
明らかな変化にサフレインは、それまで周囲を見る気すら失せていたが、初めて周りを見渡してみようと思った。
狭いテントの中で、久々に視線を上げたサフレインは、自分の前に何人もの人間がやって来ては、まるで品物を見定める様な顔で見下ろしている事を知った。だが、知った所で、次から次へとサフレインの前に人間はやって来る。
――そうか、みんな売られたんだな
そう思い、自分も売られてしまうのだと感じた。
三日目にもなるとサフレインは、自分を見に来る人間の様子を眺めるのが少し楽しくなっていた。
人間に言う様に言われていた売り言葉《わたしを買ってください》と言った後、頬を引きつらせずに微笑む事もできる様になった。
サフレインに、一番高い値段を付ける者が現れたのはその日の事だった。それは恰幅が良く、身なりからして一目で裕福だと分かる男であった。
金持ちの男に連れられ馬車へ入ると、中には虚ろな目をした赤い髪の人間の少女と、目つきの悪い世話人らしき男が乗っていた。外にも馬車の御者が一人居る様だ。
赤髪の少女は、孤児院から金持ちの男の養子として引き取られたのだが、床に直に座って衣服にも乱れがある事から、この男達の目的が別の所にある事が分かった。
サフレインは、その少女の横に座らされると、腕に縛り付けられた縄の端も馬車の柱に結ばれた。
金持ちの男は、二人の目の前の椅子にどっかりと座ると、にやにやした顔で二人の体をいやらしい手つきで、べたべたと触り始めた。
赤髪の少女は微動だにせず、その目は金持ちの男を視界にすら入れていないかの様だった。サフレインも、表情を変えない様我慢した。
それは、わずかな希望を感じたからだ。
金持ちの男ならば、満足な食事にありつけるに違いない。他の事は全て我慢すればいい。もしかしたら、その内に自分を自由にしてくれるかもしれない。
実際は、この男がその様な事など微塵も考える事もなく、自分達がただ男の欲望を満たす為の存在でしかなかったと言う事など知るよしもなく。
馬車が動き出してから半日が経った頃、金持ちの男はいびきをかいて寝てしまった。馬車の中一杯に、金持ちの男のいびきで満たされる。それは朗らかな天気とは相反して、異様な空気を作っていた。
すると、それまで少し離れた所に座っていた世話人の男が、サフレイン達の側へと近づいて来ると、金持ちの男に注意を払いつつ赤髪の少女の小さな体に触れ始めた。
赤髪の少女は、やはり黙ったまま微動だにせず、視線の先は目的を持たない目で一点を見つめていた。
世話人の男は、サフレインにも触れようと手を伸ばすが手が届かず、近づく為に赤髪の少女の前へと身を乗り出した。
その時、重い音が響くと、世話人の男が突然悲鳴を上げて、二人の少女の足元に転がってもがき始めたのだった。
世話人の男の腰に、ナイフが抜かれた小さな鞘が見える。男の左胸の辺りが激しく出血しており、ついには痙攣を始めて最後にはぐったりとして動かなくなった。
赤髪の少女の手に、いつの間にかナイフが握られている。そのナイフにはべったりと赤い液体が付着し、刃先から垂れる赤い液体が少女の服にぽたぽた滴っていた。
赤髪の少女がスムーズに立ち上がった。それは、少女を繋いでいたロープが既に切断されている事を意味した。
すると、目の前では目を覚ました金持ちの男がパニックを起こしていた。周囲に武器を探している様だが、武器は男のそばには置かれてなかった。少女は躊躇する事もなく、震える男の首筋に、ナイフの刃の光当てると真っ直ぐ赤い線が空中に描かれた。
それから少しした後、馬車は何もない地面の上で自然に停止した。手綱を握っていた御者は、どこかへ逃げてしまったのか姿が見えない。
馬車の中には、赤黒い血だまりが出来ており、少女とサフレインは男性の首から噴出した血を全身に浴びていた。
全身を血で染められたその少女は、ゆっくりとサフレインの方に体を向けると初めて口を開いた。
「わたしはトリッサ、あなたって魔物でしょ? 言葉とか話せる?」
トリッサと名乗ったその少女は、顔はサフレインの方に向けていたが、その視線は少し外した所へと向けられていた。手に持ったナイフがかすかに震えている。
《魔……物?》
しかし、サフレインはトリッサが何を言っているのかを理解出来なかった。
それもそのはずで、サフレインは人間からは古くは魔力を持つ者や魔の者、そして現在は、魔物と呼ばれる人間とは異なる種族ではあるが、自らをその様に呼ぶ事などなかったからだ。
「だって真っ白だもの、だから魔物。
魔物は悪い事したから売られたんでしょ? わたしはこの男に騙されたの」
真っ白い肌に薄灰色がかった髪、人間と限りなく姿は似通ってはいるが、純白の肌の色の特徴は人間とは異質の存在と納得させるに十分だった。
《悪い事なんてしてないよ? それに魔物なんかじゃない!》
サフレインは首を振って否定した。サフレインの着ている上等な服には、男から噴出した血が付着して、白い肌とのコントラストを一層際立てている。
「やっぱり魔物はウソ付きだ! 院長先生が言ってたよ。
魔物は人間の敵だって、人間を襲うって」
それは全くの逆だとサフレインは思った。人間に村を襲われて両親も殺され、今自分がこの様な状況にあるのも人間のせいだった。
《わたし達は襲わないよ? 人間がわたし達の村を襲ったんじゃない!》
「そんな訳ない、人間はいいもんだもん! そりゃ中には……悪い人も居るんだろうけど」
トリッサは、足元に転がる男達に目線を落とした。
それからサフレインは、村が襲われて両親や大人達が皆殺しにされた事、そして自分や村の子供達が売られた事を泣きながら話した。それを、トリッサは黙って聞いていた。
サフレインが話し終えると、トリッサは何も言わずサフレインの頭を数回撫で、もはや赤くない箇所のなくなったナイフを差し出した。
サフレインは血で染まったそのナイフを受け取ると、ぬるりと嫌な感触がするのも気を止めずに握りしめる。そして、自分を縛り付けていた縄を絶つと、その足でしっかりと立った。
サフレインは、それからトリッサと共に旅をする事にした。当面の旅費も、あの金持ちの男の金を当てに出来た。
血で汚れた馬車を買い替え、様々な街へと旅をした。
サフレインは人間の街に入れない為に馬車で待機し、トリッサが自分達が住める街や村の情報を集めた。
夜になると、二人は馬車で抱き合って眠った。そうしないと不安で眠る事が出来なかった。
その内に、サフレインとトリッサは、お互いを心の支えに思い、同時に愛おしさも感じる様になっていき、サフレインの人間への恐怖や憎悪も徐々に薄れて行った。
しかし、子供二人の旅は様々なトラブルが多く、あの男の金もすぐに騙し取られてしまう。
その事をきっかけとして、二人は戦いの術を手に入れる事となった。
トリッサはひたすら弓の腕を磨き、サフレインは使う必要のなかった魔法の封印を解いた。
旅を始めて二年が経った頃、二人は魔の者と人間が暮らす村が存在している事を知った。その一年後、苦労の末にこのステクトールの村に辿り着いたのだった。
ステクトールの村は、二人を歓迎してくれた。人間と魔の者が分け隔てなく暮らす村。
住む家を与えられ、村の一員となってより二年間、とても充実した日々を過ごして来た。
サフレインは、閉じていた目をゆっくりと開ける。
辺りからはまた虫達の声が耳に届いた。
《一体何だったんだろう》
サフレインは小さく呟き、ため息をついた。