【52】得手不得手
数日ぶりに、手合わせの練習が出来た事で、あたしはとても気分爽快になった。
「ふー、いい運動になったわねぇ。
これで、あんたに一回でもタッチ出来てたら言う事ないんだけどぉ」
スフェーンは、一度もヘタレ格闘家に触れる事が出来なかった事を悔しがっている様だ。
『残念だけど、実はヘタレにはあたしもイシェルも、まだ一度もタッチ出来ていないんだよね』
「うん、二人がかりでも出来てないんだ、見かけによらずすばしっこい」
「そうなのぉ? なら今度三人がかりで試してみるぅ?」
『それだッ! 三人ならヘタレを倒せるよきっとッ! 正義は必ず勝つって信じてるッ! ヒロインナメんなッ!』
「倒すのかよ。つーか、ヒロインがナメンナとか言わねーよ」
ヘタレ格闘家のヒロインの定義は、おしとやかなのかもしれないけど、自分を抑えたら偽りを表現する事になる。そんな嘘を装った生き方するなんてゴメンだよ。
『そんな事よりお腹空いたよ、二人はまだ戻らない?』
「どうかな? 練習に夢中で見る余裕なかったよね」
「あたしもお腹空いたわぁ、まだ帰ってこないのかしらぁ」
あたし達は、一様にお腹に手を当てると、トリッサ達の小さな家を眺めた。
「ん……、あれはサフレインじゃないか?」
ヘタレ格闘家が指を差した先に、小さく豆粒の様に見える人影があった。しかし、それは一人の様に見える。
『一人に見えるから違うんじゃない?』
「いや、どうやら本当に一人の様だぞ」
「うん、そうみたいだね」
ヘタレ格闘家とイシェルは、あたしよりも視力がいいらしい。あたしの目には相変わらず豆粒にしか見えていなかった。
「まー、ともかくお昼ご飯は食べれそうじゃなーい?」
あたし達は家の前に移動して、サフレインが来るのを待った。サフレインは目の前で、やっとあたし達に気が付く様子を見せる。その様子から、彼女の視力は余り良くない事が分かる。
《あ……すみません、大分待たせてしまいましたね》
『トリッサは一緒じゃないんだ』
《えぇ、まだかかるみたいだったので。
えっと、急いでお昼の用意しますね》
「あたし達もお手伝いするわぁ」
みんなで食事の準備にかかろうとした所で、イシェルがあたしの袖を引っ張った。
「シンナバーちょっと来て、服直さなきゃ……さっきボクが破っちゃったから」
そう言われてよく見ると、ボタンがいくつか取れただけじゃなくて服も少し破れていた。
『うん? 後であたしが直すから気にしなくていいよ』
「ごめんね、出来ればボクが直したいんだ」
「こっちはあたし達だけで大丈夫だから、直してもらったらぁ?」
スフェーンは言った後、ほんの少しだけニヤリとした。む……、今のニヤリはターゲットを見つけた時のニヤリだ。さては、サフレインにまで手を出そうとしているな。あたし達がいなくなる事で、やりたい放題になるのか。ヘタレは役に立たないし……。
「早く行こうよ」
躊躇する間もなく、イシェルはあたしの手を引っ張った。
『う……ん』
あたしはスフェーンが気になりつつも、イシェルに手を引かれて部屋に連れて行かれた。
部屋のドアを閉めると、イシェルはあたしの手を掴んだまま、振り返りもせずにその場に立っていた。
「ふぅ……」
イシェルは、何か意味合いを含む様な息をつき、くるりとあたしの方へと向きを変えた。
何か言うのかと思えば、黙ったままあたしの修道服を脱がすと、道具袋から針と糸を取り出してベッドに腰掛けて修理を始めた。
あたしは下着姿のままで、イシェルの脇に座って器用な手捌きを眺めた。
イシェルってこういう事得意だったのか、ちょっと意外だった。
「よし、直ったよ」
あたしの前に、修道服を翳して頷くイシェル。
『早いねッ! ありがとうーッ!』
あたしがお礼を言って、服を受け取ろうとすると、イシェルはなぜかサッと服を引っ込めて、服を椅子の背もたれにかけた。
「せっかくだから、これも直しちゃおうかな」
『こ、これって?』
「シンナバーのそのブラさ、やっぱりサイズ合ってないよね」
『えッ? でもでも……あたし変わってないと思うよ?』
「そんな事ないよ、シンナバーもちゃんと育ってるんだよ」
イシェルはブラの隙間から指を差し込んでは何かを計った後、あたしにそれを脱ぐように言った。
「できるまで布団かぶっててね」
『うん』
あたしは毛布を肩にかけて包まると、再びイシェルの作業を眺めた。所々にハサミを入れて何かを調節している様だ。
「これでいいと思うよ、着けてみて」
イシェルにブラを手渡され、あたしは言われるまま着けてみた。
『おぉーッ! 何だか楽になったよ』
直してもらった下着は、窮屈さが全くなく動きやすかった。と言うか、窮屈だったって事に今初めて気が付いたのだけど、あたしは三年前からずっと同じサイズのものを着けていたんだ。
だけど、この三年であたしも少しは成長していたんだ。それは数値で言えば、ほんの少しなのかもしれないけど、着け心地には大きな違いがあった。
「シンナバーさ」
イシェルはせっかく着けたブラの肩紐を外し、肩を手のひらで滑らせて紐を落とした。
『うん? 何かおかしかった?』
「じゃなくてさっき、スフェーンの事考えてたでしょ?
まだ完全にボクのものになってない」
『えッ!? さっきっていつ!?』
ボクのもの……あたしは唐突に言われたその言葉にうろたえた。
「ボクが言ったのは、ヘタレさんとスフェーンが組んでた時の事なんだけど、他にもあったんだ」
『あのね、イシェル』
あたしはやはりイシェルにハッキリと言おうと思った。この旅が終わるまでは結論を出さないと言う事を。
「大丈夫だから、この旅が終わってからでいいよ。
でも、いいよね……それまではボクのものって思ってても」
そう言って、イシェルはあたしの胸に頬を寄せて目を閉じた。今のイシェルの言葉は、あたしの心を読んだ言葉なのだろうか。それとも、畑仕事の帰りに、あたしが言った言葉に対してなのだろうか。
『イシェル……』
あたしはギュッと抱きしめてくるイシェルに対し、とても切ない気持ちになった。ともすると、今決めてしまいそうな言葉を発しそうな位に。そういう気持ちを両手をぐっと握り締めて堪え、イシェルの頭を撫でた。
部屋の外から、スフェーン達が食事の用意をする音が聞こえている。
イシェルは抱きついたまま、あたしを後ろのベッドの上に押し倒した。
『ちょっとッ』
「ボクは、シンナバーを身も心も幸せにしてあげたい」
イシェルが触れるとあたしの体は喜びを感じ、無条件に彼女を受け入れて集中して行く。もっといっぱい触れて欲しい、もっといっぱいイシェルを感じたい。
あたしはイシェルにキスの催促をすると、イシェルは嬉しそうな顔をしてキスをしてくれた。やさしくて暖かい感触がふわっと唇へ伝わって来る。徐々に膨らんでくる幸福感を感じつつ、あたしは全てをイシェルに委ね、やがて頭の中は真っ白になった。
気が付くと、至福感に満たされたあたしは、イシェルに夢中でしがみ付いていた。イシェルは満足そうな顔で、あたしを覗き込む様に見ている。
「ありがとう、ボクも大好きだよ」
『え……?』
「覚えてないの? ボクの事大好きって今ずっと言ってくれてたのに」
『あたし、そんな事言ってたんだ』
「うん、でもいいよ。
きっと今だけは、シンナバーを独り占めに出来てると思うから」
イシェルはそう言って、また優しくキスをしてくれた。
あたしとイシェルが部屋から出ると、いい匂いがして丁度テーブルの上に料理が並べられる所だった。チラリとスフェーンを見ると、その手はサフレインの肩に乗せられている。やっぱりな、想像通りだ。
ヘタレ格闘家がそれらを見ない様に、不自然にそっぽを向いてる姿がおかしかった。
『ごめーん! 手伝えなくて』
「いいのいいの! あんたがやったら、何でもカレーになるじゃなーい?」
『えーッ!? カレーはとても体にいいんだよッ!? しかも作るのが楽ッ!』
因みに、あたしはどんな材料からでもカレーを作る事ができるのが自慢だ。どうやって作るのかの説明はできないけど、直感を頼りにカレーを作り出すのだ。それは我がアメシス家に代々伝わるカレーの技法である……のかもしれない。
《スフェーンさん、ヘタレさん、お手伝いありがとうございました》
サフレインは両手を少し斜めにして合わせ、にこやかな顔で言った。
「へぇ、ヘタレさんって料理出来たんだ」
イシェルは感心した様に、丸い目を一層まんまるくさせて、ヘタレ格闘家を見つめた。
「ん? まぁ一人だと自分で作るしかないからな」
ヘタレ格闘家が料理を作れる事を知り、ほんの少し不満げな顔をするイシェル。ヘタレ格闘家って確か味音痴だったから、余り味わってみたい気はしないけど、あたしも意外な一面を見た様な気がした。
「イシェルたんは料理作れるのぉ?」
スフェーンは、イシェルの様子から何か感じたのか、彼女に質問した。
「つッ! 作れるよ」
あたしは、イシェルがどことなく挙動不審になった気がした。これはもしや。
「じゃぁ、将来シンナバーと一緒に暮らしても、カレーばっかにはなる事はないわねぇ。
得意料理はなにかしらぁ?」
「え……えぇと」
イシェルは、目の前で左右の手の人差し指の先をツンツン合わせる仕草を始めた。やっぱり凄く困ってる。こんな困ってるイシェルを初めて見たよ。だけどあたしは静観する。こんなおいしい場面、なかなかないからね。
「ヤキトリ……とか」
「とかぁ?」
でたぁーッ! スフェーンの悪い癖だ。自分のお気に入りの子を困らせて、その表情を見て楽しむこの悪い癖は未だ健在だ。おチビもこれには散々困らされてたけど、この癖は治りそうもないね。
「ヤキトン……とか」
イシェルも「とか」って言わなければいいのに……。
テーブルの上には野菜のスープや、パスタらしきものが並べられているのが見える。あたしはそれを見て喉を鳴らした。
「とかぁ?」
「や……」
『もうッ! そんな事よりお腹ペコペコだよッ! 腹へったーッ!』
イシェルが困ってたのを助ける意味もあったけど、あたしは本当にお腹が減ってたまらなかった。とにかく目の前の料理を早く食べたい。
《そうそう、暖かいうちに食べましょう》
ポカーンと見ていたサフレインも、空気を察した様に席に付く様に促した。
さっさと席に付くと、お腹がペコペコだったあたしは、味わう暇もなく夢中でたいらげてしまった。そして、おかわりを二回した。なかなかの美味だ、これは誰が味付けをしたのかな。
満足げにお腹をさすっていると。
「アハハッ! あんた、胸よりお腹の方が大きくなってるんじゃなーい!?」
『何言ってるのぉーッ!? そんな訳ないじゃん!
さっきだって、イシェルにブラのサイズ大きくしてもらったんだからねッ! そうだよね? イシェル!』
「う……うん」
イシェルを見るとまた困った様子を見せて、左右の手の人差し指の先をツンツンさせていた。料理のツッコミはもう終わったんだから、困る必要なんてないのにどうしたと言うのだろう。
その時、ヘタレ格闘家が横目であたしを見て言った。
「気のせいじゃないぞ、お前棒みたいだから一杯食った後はいつもなってる」
『いつもなってる……』
あたしは、ヘタレ格闘家の言葉を思わず繰り返し、両手でお腹をさすって確かめた。
「ブーッ! アハハハハハーッ! シンナバー! あんたってサイコー!」
スフェーンの声をきっかけに、一斉にみんなが爆笑を始めた。見渡すとイシェルもヘタレもサフレインまでもがお腹を抱えて笑っているじゃないか。
『コラーッ! これでもあたしは多感なお年頃の女の子なんだよッ!?』
あたしが叫ぶと、笑い声は一層大きくなってしまった。