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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第6話 誰も見ていないはずの街

 その日の朝、美佳はカフェへ向かう途中で、同じ男に三度すれ違った。




 最初は駅の改札を出たところだった。三十代くらいの、特徴のない男だ。グレーのジャケットに黒いスラックス。顔立ちは平凡で、背丈も普通で、記憶に残るような要素が何もない。すれ違った瞬間に視界に入って、そのまま流れていった。




 二度目は商店街の入り口だった。向こうから歩いてきて、美佳の脇を通り過ぎていった。グレーのジャケット。同じ男だ、と思ったが、別人かもしれないとも思った。ありふれた服装だし、似たような人間は街に何人もいる。




 三度目は、カフェの前だった。




 美佳が扉を開けようとしたとき、道路の向こう側に男が立っていた。こちらを向いて、立っていた。視線が合った気がした。気がした、というだけで、確信はない。男はすぐに歩き始めて、角を曲がって、消えた。




 美佳はしばらく扉の前に立ったまま、男が消えた角を見ていた。




 気のせいかもしれない。藍都はそれほど広い街ではないし、同じ方向に向かっていれば、何度かすれ違うことはある。何かを根拠にしているわけじゃない。ただ、胃の底が少しだけ冷えた感覚があった。




 美佳は扉を開けて、店に入った。








 シフト中、美佳は窓の外を気にし続けた。




 カフェの窓は道路に面していて、通行人の足元が見える。グレーのジャケット、黒いスラックス。そういう組み合わせの人間を、無意識に探していた。見つかるたびに、あの男かどうか確認しようとして、顔まで確認できないまま通り過ぎていく。




 オーナーに「三枝さん、今日ちょっとぼんやりしてない?」と言われて、美佳は「すみません」と謝った。




 理由は言わなかった。言えなかった、というより、言うほどのことでもないと判断した。三度すれ違っただけだ。それだけのことだ。




 でも頭から離れなかった。




 休憩時間に、美佳は朝倉にメッセージを送ろうとして、やめた。何を送ればいいのか分からなかった。「今日、同じ男に三度すれ違った」と送っても、それが何かを意味するかどうか、美佳自身にも分からない。朝倉は事実と根拠を大切にする人間だ。根拠のない不安を送りつけても、困らせるだけかもしれない。




 美佳はスマートフォンをポケットに戻した。




 代わりに、シフトが終わってから翔に連絡を取ることを考えた。翔は「しばらく直接連絡を取らない方がいい」と言っていたが、それは翔自身への連絡を控えてほしい、という意味だったはずだ。美佳から翔への連絡を制限したわけじゃない──と解釈することもできた。




 でも確信はなかった。








 シフトが終わると、外はすっかり暗くなっていた。




 美佳はいつもと違う帰り道を選んだ。理由は単純で、試してみたかったからだ。もし誰かが尾行しているなら、道を変えても同じ人間が現れるはずだ。いつもの道を避けて、一本裏の通りを歩いてみる。




 誰もいなければ、ただの思い過ごし。




 ストリートライトの薄い光の中を歩きながら、美佳は後ろを確認した。一度、二度。誰もいない。普通に帰宅する人が何人か歩いているだけで、特定の人物が後をついてくる気配はない。




 やっぱり気のせいだったか。




 そう思いかけたとき、路地の入り口に人影があった。




 街灯の外側に立っていて、顔がよく見えない。ジャケットの色は、暗くて判別できなかった。ただ、その人影は動いていなかった。歩いてもいないし、スマートフォンを見ているわけでもない。ただ、立っていた。




 美佳は立ち止まらなかった。立ち止まることが正しい行動とは思えなかった。足を止めずに歩き続けながら、その人影との距離を意識した。近づいていく。十メートル、八メートル、五メートル──




 人影は動かなかった。




 美佳が路地の前を通り過ぎたとき、横目でそちらを見た。若い女性だった。スマートフォンの画面を見ながら、誰かを待っているようだった。グレーのジャケットでも、黒いスラックスでもない。




 美佳は正面に視線を戻して、歩き続けた。




 心臓が少し速くなっていた。








 アパートに戻ってドアを閉めた瞬間、美佳は深く息をついた。




 鍵を二重にかけた。いつもは一つしかかけない方の鍵も、今日は両方かけた。それから窓の鍵も確認した。全部閉まっていた。当たり前だ、外出前に確認したのだから。




 美佳はソファに座って、スマートフォンを見た。




 着信もメッセージも、何もなかった。




 第3話の夜に届いた空白のメッセージのことを思い出した。あれからずっと、削除せずに残してある。今もトーク画面の中にある。本文が空白で、送信者が非通知の、一件のメッセージ。




 美佳はそれを開いた。




 やはり、何も書かれていない。




 でも今日、同じ男に三度すれ違ったことを考えると、あのメッセージの意味が少し違って見えてくる気がした。根拠はない。ただの偶然かもしれない。でも──




 偶然が、重なりすぎている。




 美佳はスマートフォンを置いて、天井を見た。




 LAPISは終わった。サーバーは止まった。アンケートは消えた。




 でも朝倉は言っていた。終わり方が綺麗すぎる、と。端末のデータは消えていない、と。翔は「意図的かもしれない」と言った、と。




 美佳の端末に残っているログ。サーバー停止後に更新されたタイムスタンプ。空白のメッセージ。そして今日の男。




 一つ一つは、何でもないことかもしれない。




 でも並べると、輪郭のようなものが浮かんでくる気がした。まだはっきりとは見えない。ただ、何かがそこにある、という感覚。




 美佳は朝倉に電話をかけようとして、時計を見た。二十三時を回っていた。




 明日にしよう、と思った。




 電気を消して、ベッドに入る。目を閉じると、すぐに今日の光景が浮かんできた。グレーのジャケットの男。道路の向こうから、こちらを向いて立っていた人影。路地の入り口に動かずに立っていた人影——あれは若い女性で、スマートフォンを見ていただけだった。




 でも、もし違ったら。




 もし、見られていたら。




 美佳は目を開けた。暗い天井が見えた。




 誰も見ていないはずだ。LAPISは終わったのだから。選ばれる理由も、観察される理由も、もうないはずだ。




 でも──「はずだ」という言葉が、今の美佳にはひどく頼りなく聞こえた。




 寝付くまでに、かなりの時間がかかった。





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