第4話 朝倉の違和感
朝倉純は、観察することで物事を理解するタイプの人間だった。
感情より先に状況を読む。言葉より先に文脈を読む。誰かが「大丈夫」と言ったとき、その声のトーンと目の動きと、前後の沈黙の長さで、本当に大丈夫かどうかを判断する。それは意識してやっていることではなく、物心ついた頃からそうだった。
だから、美佳の変化には気づいていた。
アンケートが終わってから、美佳は何かが変わった。うまく言葉にはできないが、たとえば喫茶店で向かい合ったとき、美佳の視線がメニューの上で一瞬だけ泳いだ。選ぶことを迷っている、というより、選ぶことそのものを意識している、という感じだった。
朝倉はそれを指摘しなかった。指摘することが、正しいとは限らない。
朝倉が働いているのは、藍都の北側にある中規模のシステム会社だった。業務内容は社内データの管理と分析で、地味だが正確さが求められる仕事だ。朝倉はそれを淡々とこなしながら、空き時間に別のことを調べていた。
翔から連絡が来たのは、三日前のことだ。
『個人端末のログについて調べている。協力してほしい』
翔からの連絡はいつも短い。説明は最小限で、余計なことは書かない。朝倉はそれを了承して、自分のスマートフォンのデータ構造を調べ始めた。
結論から言えば、翔の言う通りだった。
通常のアプリ領域ではなく、OSの基層に近い部分に、暗号化された小さなファイルが存在していた。サイズは微小で、それ単体では何のファイルかも分からない。削除しようとすると、システムエラーが返ってくる。上書きも、移動も、できない。
ただ、そこにある。
朝倉は昼休みにデスクで弁当を食べながら、そのファイルのログを眺めた。暗号化されているので内容は読めない。読めないが、タイムスタンプは確認できた。最後に更新されたのは、LAPISのサーバーが停止したとされる日の、三時間後だった。
三時間後。
サーバーが止まった後に、端末側のファイルが更新されている。それは何を意味するのか。
朝倉は弁当の蓋を閉めて、メモ帳に数字を書き留めた。翔に送るべき情報だったが、翔は「しばらく直接連絡を取らない方がいい」と言っていた。だから朝倉は、ただ手元に記録しておくことにした。
午後の業務を終えて、朝倉は帰り道に少し遠回りをした。
用事があるわけではない。ただ、考えながら歩きたかった。藍都の夕方は人通りが多く、会社員や学生や買い物客が入り混じって、歩道を流れていく。その中を歩きながら、朝倉はすれ違う人々のスマートフォンのことを考えた。
みんな、持っている。
ポケットの中に、バッグの中に。あるいは手に持って、画面を見ながら歩いている人も多い。その全員の端末に、もしかしたら同じファイルが眠っているかもしれない。アンケートに一度でも触れた人間全員の。
どれだけの数になるのだろう。
藍都だけではないはずだ。LAPISは藍都以外にも展開していた可能性がある。そうなると、ログを抱えた端末の数は——朝倉は数字を頭の中で概算しようとして、やめた。考えても意味がない。今分かっていることと、分かっていないことを、きちんと整理する方が先だ。
朝倉は商店街を抜けて、川沿いの道に出た。水面が夕日を反射して、橙色に光っている。ベンチに老人が一人座っていて、川を眺めていた。
朝倉はそのベンチの端に腰を下ろして、スマートフォンを取り出した。
美佳にメッセージを送るかどうか、少し迷った。
喫茶店で話したときの美佳の顔を思い出す。情報を受け取りながら、同時に何かを抱え込もうとしていた顔。「わたしも、なんとなくそう思ってた」と言ったときの声。
LAPISが終わったとは思っていない、と美佳は言った。
朝倉も同じだった。ただ、理由が少し違う。朝倉がそう思うのは、感覚ではなく、データに基づいている。サーバー停止後に更新されたタイムスタンプ。削除できないファイル。翔が「意図的かもしれない」と言った、その一言。
美佳が感じている「終われていない」という感覚と、朝倉が調べて分かった事実は、別々の方向から同じ場所を指している気がした。
朝倉はメッセージアプリを開いて、美佳の名前を探した。
そこで、手が止まった。
美佳のトーク画面に、未読のメッセージはない。最後のやり取りは喫茶店の翌日で、美佳が「ありがとう、また連絡する」と送ってきたものだった。それに朝倉は「うん」とだけ返した。
今日、何かを送るべきか。
新しい情報があるわけではない。タイムスタンプのことは、まだ翔に確認していない。独自の解釈を美佳に伝えることは、今は早計かもしれない。
朝倉はアプリを閉じて、スマートフォンをポケットに戻した。
川面の光が少しずつ薄れていく。老人はまだベンチに座ったまま、川を見ていた。
朝倉はその横顔を、一瞬だけ見た。
穏やかな顔だった。何かに迷っている様子も、何かを警戒している様子も、ない。ただ夕暮れの川を眺めている。
この人のスマートフォンにも、あのファイルはあるのだろうか。
そう思って、すぐに打ち消した。確認する方法もないし、する必要もない。今考えるべきことは別にある。
朝倉は立ち上がって、歩き始めた。
違和感の正体は、まだはっきりしない。でも確かなことが一つある。
LAPISは、終わり方が綺麗すぎた。
組織が──あるいはシステムが──あれほど精緻に設計されていたなら、終わりもまた設計されているはずだ。突然サーバーが止まって、データが残って、それで終わり、というのは、あまりにも雑すぎる。
雑なのか。それとも、これが設計通りの「終わり」なのか。
朝倉は歩きながら、答えの出ない問いを頭の中で転がし続けた。藍都の夜が、静かに始まろうとしていた。




