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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第37話 今夜

翌朝、翔から短いメッセージが届いた。


「今日の夜、時間を取ってもらえますか。美佳さんと朝倉さん、両方に」


「何かあった?」と美佳は返した。


「あったというより、あるかもしれない。確認したいことがあります。夜の九時以降、端末を手元に置いておいてください」

端末を手元に。


その言葉の選び方が、少し引っかかった。内容を話すのではなく、端末を手元に置いておいてほしい、という頼み方。


「分かった」と美佳は返した。


カフェの仕事は、いつも通りだった。


開店して、客が来て、コーヒーを淹れて、会計をして、客が帰って、また客が来る。その繰り返しの中に、美佳はいた。


午後の中頃、常連の男性客がカウンターに座って、いつものブレンドを頼んだ。コーヒーを出しながら、美佳は「最近どうですか」と聞いた。特に意味のない、接客の言葉だった。


「まあ、ぼちぼちですね」と男性は言った。


「なんか最近、考えすぎちゃって」


「何をですか」


「大したことじゃないんですけど」と男性は言って、カップを持った。「SNSで見た言葉が、ずっと頭から離れなくて」


「どんな言葉ですか」


男性は少し恥ずかしそうに笑った。


「正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう、って」


美佳は表情を変えなかった。


変えないようにした。


「それ、@LAPIS_echoですか」と美佳は聞いた。

男性が少し驚いた顔をした。「知ってるんですか」


「少し」


「なんか、刺さっちゃって。俺だけじゃないんだなって思ったら、逆に不安になってきて」と男性は笑った。自分でも可笑しいと思っているような笑い方だった。


美佳はコーヒーのお代わりを聞いて、男性が帰るまで、普通に話した。


男性が出て行ってから、美佳は厨房の壁を一秒だけ見た。


正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう。


共感ボタンの実装から数日で、あの問いは街の中にいる人間の頭に入り込んでいた。翔が言っていた収束が、画面の外まで来ていた。


仕事が終わって帰宅してから、美佳は夕食を取らずにソファに座っていた。


翔の「端末を手元に置いておいて」という言葉が、ずっと頭の片隅にあった。


何かが、今夜起きるかもしれない。


翔はそれを知っている。だから端末から離れるなと言った。


美佳はスマートフォンをテーブルに置いて、画面を上に向けて、待った。


八時半。


九時。


九時十五分。


翔からの連絡は来なかった。


九時二十分に、朝倉からメッセージが届いた。


「翔から連絡来た?」


「まだ」と美佳は返した。


「俺もまだ。何かあったのかな」


「待ってみる」


「うん。俺も待つ」


九時四十分。


スマートフォンが、震えた。


翔からだった。


「今から送ります。落ち着いて読んでください」


落ち着いて、という前置きが、美佳の背筋を少し伸ばした。翔がそういう言葉を使うのは、珍しかった。


「美佳さんの端末に、新しい暗号化ファイルが生成されています」


「タイムスタンプは今夜の二十一時三分。三十七分前です」


「端末の深層領域に、外部から書き込まれた形跡があります」


美佳は画面を見たまま、動かなかった。


二十一時三分。


三十七分前。


美佳がソファに座って、翔からの連絡を待っていた、その時間に。


「誰かが」と美佳は打った。指が、少し遅れた。「今夜、私の端末に触れた」


「そうなります」と翔は返した。「接続の試みではなく、今夜は成功しています。ファイルの生成に成功している」

成功している。


美佳はスマートフォンを持ったまま、部屋を見渡した。


六畳一間の部屋は、何も変わっていなかった。ソファがあって、テーブルがあって、窓があって、カーテンが引いてあった。誰もいなかった。


でも、誰かが今夜ここに来ていた。


物理的にではない。でも確実に、ここに来ていた。


手元にあるこのスマートフォンの中に、今夜、誰かの手が届いていた。


「ファイルの中身は」と美佳は打った。


「暗号化されています。まだ読めない。解析に時間がかかります」


「どのくらい」


「分かりません。ただ、暗号化のパターンがLAPISのサーバーと同一です」


LAPISのサーバーと同一。


美佳は画面を置いて、両手を膝の上に置いた。


第3章の終わりに、翔が言っていた。消えた男性の端末から、LAPISのサーバーと同一の暗号化パターンが検出されました──と。


男性の端末にあったものと、同じものが、今夜美佳の端末に来た。


三ヶ月間接続され続けた末に公民館の夜に消えた男性と、今夜の美佳の間に、同じ線が引かれた。


次は、私の番なのか。


思ってから、打ち消した。打ち消せなかった。


朝倉から電話がかかってきた。


「今、翔から聞いた」


「うん」


「美佳、声大丈夫?」


「大丈夫」と美佳は言った。「大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫」


朝倉は少し間を置いてから「今から行く」と言った。


「来なくていいよ、遅いから」


「行く」


美佳は止めなかった。


待っている間、美佳はスマートフォンを手に取って、画面を見た。


いつもと変わらない画面だった。ホーム画面に、アプリが並んでいる。通知が二件。充電は六十三パーセント。


でもこの画面の、見えないところに、今夜誰かが書き込んだファイルがある。


美佳にはそのファイルが見えない。触れない。読めない。


でも、ある。


誰かが、こっちを見ていたって分かるのが気持ち悪かった。


三日前に朝倉に言った言葉が、戻ってきた。

見ていただけじゃなかった。今夜は、触れてきた。


三十分後に朝倉が来た。


インターホンが鳴って、美佳が鍵を開けると、朝倉はコンビニの袋を持っていた。


「とりあえず食べて」と朝倉は言って、袋の中からおにぎりを出した。


美佳は笑いそうになった。笑えなかったけれど、笑いそうになった。


「ありがとう」と言って、おにぎりを受け取った。


朝倉はソファに座って、スマートフォンを取り出した。翔とのやり取りを確認しているようだった。


美佳はおにぎりを食べながら、朝倉の横顔を見た。


いつもと変わらない顔だった。心配しているのは分かるが、それを表情の全部にするような人間ではなかった。


「翔、ファイルの解析中らしい」と朝倉は言った。


「うん」


「中身が分かるまでは、動けないな」


「うん」と美佳は言った。「でも、一個だけ分かったことがある」

朝倉が顔を向けた。


「DMの文言の差異」と美佳は言った。「私だけに『問いを作る側の才能があります』って送ってきたの、覚えてる?」


「覚えてる」


「他の人には、違う文言が届いていた。翔くんが言ってた」


「うん」


「今夜、私の端末だけにファイルが生成された。男性の端末にも、個別の接続があった」と美佳は言った。「このシステムは最初から、私を特定して動いている」


朝倉は少しの間、黙っていた。


否定しなかった。


「そうだな」と朝倉は静かに言った。「最初から、美佳に向かっていた」


「うん」


「なんで美佳なんだろう」


「分からない」と美佳は言った。「でも、理由がある気がする。偶然じゃない気がする」

朝倉はスマートフォンをテーブルに置いて、少し考えた。


「翔がファイルを解析したら、何か分かるかもしれない」


「うん」


「それまで、ここにいる」と朝倉は言った。


美佳は「ありがとう」とだけ言った。

それ以上の言葉は、今夜は要らなかった。

日付が変わる少し前に、翔からメッセージが届いた。


「解析、一部だけ進みました。全部ではないですが、読めた箇所があります」


「送って」と美佳は返した。


翔から、短い一文が届いた。


「設計者適性:最高位」


部屋が、静かだった。


朝倉が画面を覗き込んで、何も言わなかった。


美佳も、何も言わなかった。


スマートフォンを膝の上に置いて、その文字を見ていた。


設計者適性、最高位。


誰かが、美佳をそう評価していた。美佳の知らないところで、美佳の端末の中に、その評価を書き込んでいた。


才能の話じゃない、と美佳は第2章で言った。責任を引き受けられるかどうかの話だ、と。


でも向こうは、才能の話をしている。適性の話をしている。


引き受けさせようとしている。


「美佳」と朝倉が言った。


「うん」


「お前が決めることだから」と朝倉は言った。「俺は何も言わない。でも」


「でも?」


「隣にいる」


美佳はスマートフォンを、テーブルに置いた。


画面を、下に向けた。


今夜初めて、下に向けた。


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