第13話 朝倉の調査
朝倉がLAPISについて本格的に調べ始めたのは、翔に頼まれたからじゃない。
自分でそうしたかったからだ。
それが朝倉自身の正直なところだった。翔から最初に話を聞いたとき、朝倉の中に生まれたのは不安より先に、妙な引力だった。仕組みを知りたい。設計の輪郭を掴みたい。なぜそれが人を動かすのか、理解したい。その感覚は、高校のときに数学の証明問題を前にしたときと、どこか似ていた。
解けるかどうかより、解きたいという衝動が先に来る。
でも正直に言えば、もう一つ理由がある。
美佳のことが、心配だった。
木曜日の夜、朝倉は自室でノートパソコンを開いていた。
翔から送られてきたデータを、もう一度最初から見直している。四人分の端末ログ、タイムスタンプの記録、そして翔が独自に収集した「@LAPIS_echo」の投稿データ。どれも単体では断片に過ぎないが、並べると何かが見えてくる気がした。
「気がした」というのが正確なところで、まだ確信には至っていない。
朝倉は紙のノートを開いた。パソコンで考えるより、手を動かした方が整理できるときがある。それも高校のときから変わらない癖だった。美佳には「朝倉ってアナログだよね」と言われたことがある。「デジタルとアナログを使い分けてる」と返したら、「同じことだよ」と笑われた。
そのときの美佳の顔を、朝倉は今でも割と鮮明に覚えている。呆れているんじゃなく、ただ可笑しそうで、でも少し羨ましそうでもあった。美佳は昔から、自分と違う感覚を持つ人間を否定しない。「分からない」と言わずに、「そういうものか」と受け取る。それが美佳の、朝倉が一番好きなところだった。
ペンを持って、書き始める。
LAPISの停止について、現時点での仮説
①停止は一方的な決定ではなかった可能性がある。
②サーバー停止後のタイムスタンプ更新(一回目・自動、二回目・手動)は、異なる意志の存在を示唆する。
③「止めたかった誰か」と「続けたかった誰か」が、同じシステムの内部にいた。
ここまでは、美佳と図書館で共有した内容だ。
朝倉がそこから先に進もうとしているのは、もう一つの疑問があるからだった。
④「続けたかった誰か」が@LAPIS_echoと繋がっているとしたら——タイムスタンプの手動更新と、アカウントの開設時期は一致するか。
朝倉は翔のデータを開き直した。
@LAPIS_echoのアカウント開設日は、翔が最初のメッセージで教えてくれていた。サーバー停止から、十八日後。
タイムスタンプの二回目の更新は、サーバー停止から七十二時間後、つまり三日後。
一致しない。
でも、と朝倉は思った。タイムスタンプの更新が「準備」だとしたら、十八日は準備期間として不自然じゃない。データを確保して、形を整えて、動き出す。その間に十八日かかった。
仮説は崩れていない。ただ証明もできていない。
朝倉はコーヒーを一口飲んで、別のページを開いた。
こちらには、美佳についての記録を書いていた。
美佳が気づいていないことを、朝倉は知っている。
翔が端末のログを調べたとき、ログのサイズが美佳だけ大きかった──その理由として翔は「迷い方の深さ」を挙げた。それは正しいと思う。でも朝倉には、もう一つの仮説があった。
美佳は、アンケートの途中で「問いの構造」に気づいていた可能性がある。
答えながら、問いが自分に合ってくる感じがした──美佳は図書館でそう言っていた。「そういうものだと思ってた」とも。でも「気づいていた」と「そういうものだと思っていた」の間には、紙一重の差がある。無意識に違和感を持ちながら、でも言語化できずに答え続けた。その「言語化できない違和感の記録」が、ログに余分な厚みを作ったとしたら。
朝倉はペンを止めた。
美佳は昔から、言語化が遅い。感じるのは早い。でもそれを言葉にするまでに、時間がかかる。高校のとき、それを「美佳らしい」と思っていた。何かを感じても、すぐに言葉にしてしまわない。しばらく自分の中に置いて、触って、確かめてから、ようやく口に出す。
そのやり方は、丁寧だと思う。
でも今は──その丁寧さが、誰かに利用されようとしている。
朝倉はそれが、静かに、でも確実に、腹立たしかった。
美佳の迷い方は美佳のものだ。それを「才能」と呼んで引き込もうとする誰かに対して、朝倉は言葉にならない怒りを持っていた。言葉にならないのは、怒りが薄いからじゃない。言葉にすると、収まらなくなる気がするからだ。
この仮説を、今は誰にも言っていない。
言うべきタイミングが、まだ来ていない気がするから。そして──美佳に言ったとき、美佳がどんな顔をするかを、朝倉はまだ想像できないでいるから。
画面を切り替えて、朝倉は翔に送るメモを書き始めた。
今日図書館で気になったことが、一つある。
有栖川玲について、翔は「外部からの関与」と言った。設計の内側にはいない。でも設計者と直接接触があった。
それはつまり──設計者と有栖川の間に、何らかの共通の目的か、あるいは対立があった、ということだ。接触が一方的なものなら、それは調査か接近だ。双方向なら、協力か交渉か。どちらにしても、有栖川は設計者の近くにいた人間だ。
朝倉はメモに書いた。
有栖川は、「止めたかった誰か」の側にいた可能性はあるか。
送信する前に、少し考えた。
翔は答えを持っているかもしれない。でも翔は、答えを持っていても言わないことがある。それは隠しているんじゃなく、確信が持てないうちは言葉にしない性質だと、今は分かっている。高校のときは「感情が読めない人だ」と思っていたが、それは違った。翔は言葉に対して、誠実すぎるくらい誠実だった。
朝倉は翔のことを、今は信用している。
信用、というのは「全部話してくれる」という意味じゃない。「話せるタイミングで、正直に話してくれる」という意味だ。それで十分だと思っている。少なくとも今は。
送信した。
翔から返信が来たのは、三十分後だった。
「その可能性は考えています。ただ確認できていない。有栖川に直接聞けるなら、聞いてみてください」
つまり——来週の面会で、美佳が有栖川と話す場が、朝倉にとっても情報収集の機会になる。
朝倉はノートに書き足した。
来週、聞くべきこと:有栖川はなぜ「止めようとした側」かもしれないのか。
それから少し迷って、もう一行書いた。
美佳が有栖川に何を言われても、動じないでいられるか。
心配している、ということを、朝倉は美佳に直接言わない。言うと美佳が気を遣う。気を遣って、自分の不安を小さく見せようとする。それが美佳の癖だと、朝倉はよく知っていた。だから言わない。ただ、隣にいる。それだけでいい、と今は思っている。
夜が深くなっていた。
朝倉はパソコンを閉じる前に、もう一度だけ「@LAPIS_echo」のページを開いた。
最新の投稿は、六時間前。
「問いがあるから、あなたは考える。考えるから、あなたはあなたになる。」
フォロワーは四万九千を超えていた。
リプライ欄には、今日も声が溢れていた。「この言葉に救われた」「答えることで、自分が整理される」「問いがないと、空白になる気がする」。
朝倉はリプライをしばらく読んだ。
──誰も、おかしいとは思っていない。
そこが、一番怖いところだ、と朝倉は思う。強制されていない。脅されていない。ただ、問いがあると安心する。答えると落ち着く。それだけのことで、人はここに集まってくる。
悪意がない場所の方が、止めるのが難しい。
朝倉はパソコンを閉じた。
部屋の電気を消す前に、窓の外を一度見た。藍都の夜は静かだった。どこかに、LAPISを続けたかった誰かがいる。どこかに、止めようとした誰かがいる。そして来週、美佳の前に有栖川玲が現れる。
美佳は「怖い」と言っていた。
それでいい、と朝倉は思う。怖いと言える人間の方が、怖いと言えない人間より、ずっと強い。美佳はそれを知らないが、朝倉は高校のころからずっとそう思っていた。美佳が自分の感覚に正直なとき──迷うときも、怖いときも、うまく言葉にできないときも──その正直さが、朝倉には眩しかった。
眩しい、というのは羨ましいということでもある。
朝倉は自分の感覚を、言葉より先に整理してしまう癖がある。感じる前に分析する。それが便利なときもあるが、不便なときもある。美佳と一緒にいると、そのことをたまに思い出す。
電気を消した。
翌日の朝、美佳からメッセージが来た。
「有栖川に会うの、やっぱり少し怖い」
朝倉は少し考えてから、返信した。
「怖くていい。怖いまま行こう」
既読がついて、しばらく間があった。
それから「うん」とだけ返ってきた。
朝倉はスマートフォンを置いた。
——うん、か。
その一文字が、朝倉には十分だった。美佳が「うん」と言えるとき、それは本当に受け取ってくれたときだ。「分かった」でも「ありがとう」でもなく、「うん」。高校のときから変わらない、美佳の返し方。
朝倉は今日の準備を始めた。
来週まで、あと五日。




