第12話 個人端末の深層
翔から次のメッセージが来たのは、木曜日の朝だった。
「今日、時間ありますか。端末を直接見たい」
美佳はシフト表を確認した。木曜は休みだった。「午後なら」と返すと、「十四時に昨日と同じ場所で」とすぐに来た。
昨日と同じ場所、というのは図書館のことだろう、と美佳は思った。でも翔は一度もそこに来ていない。翔が知っているとすれば、朝倉から聞いたということだ。
高校のとき、朝倉は何でも把握していた。クラスの中で誰が誰と揉めているか、次のテストがどの範囲か、先生がどの答えを期待しているか。本人は「なんとなく分かる」と言っていたが、美佳には、朝倉が意識して周囲を観察しているように見えた。その癖は、今も変わっていない。ただ観察の対象が、クラスメイトからもっと大きな何かに移っているだけで。
「分かった」と返信して、美佳はコーヒーを淹れた。
図書館の閲覧ロビーに着くと、翔と朝倉が両方いた。
朝倉は「急に呼んだ、ごめん」と言い、翔は「三人の方が早い」とだけ言った。
高校のとき、翔は美佳と同じクラスだったが、あまり話したことがなかった。いつも教室の端に座っていて、誰かと騒ぐわけでもなく、かといって孤立しているわけでもなかった。いてもいなくても自然な存在感、とでも言えばいいのか。名前は知っていたし、顔も分かっていたが、声を聞いた回数は片手で数えられる程度だったと思う。
今もその静けさは変わっていなかった。
テーブルの上に、翔のノートパソコンと、美佳のスマートフォンを置く場所が想定されているような空き方があった。美佳は無言でスマートフォンをテーブルに置いた。
「触っていいですか」と翔は聞いた。
「どうぞ」
翔は手袋をしていた。薄い、作業用の手袋だった。スマートフォンを受け取り、画面をいくつか操作してから、ケーブルで自分のノートパソコンと繋いだ。
「ロック解除してもらえますか」
美佳は翔のパソコンの前に回り込み、スマートフォンの画面に指を当てた。
翔の作業は静かだった。
キーボードを打つ音と、ときどき画面をスクロールする指の動き。それだけだった。美佳と朝倉は向かいに並んで、黙って待った。
朝倉が小声で「緊張してる?」と聞いてきた。
「してない」と美佳は返した。
「嘘だ」
「……少しだけ」
朝倉は小さく笑った。高校のときから、朝倉は美佳の嘘を見抜くのが得意だった。べつに鋭いわけじゃなく、ただ長く一緒にいたせいだと美佳は思っている。三年間同じクラスにいると、嘘をつくタイミングまで覚えられる。
五分ほどして、翔が「ありました」と言った。
「何が」と朝倉が聞いた。
「ログファイル。OSの基層、通常のアプリからはアクセスできない領域に、暗号化された状態で存在しています」
翔はパソコンの画面を二人に向けた。英数字と記号が連なる、意味を読み取れない羅列だった。
「これが、美佳さんの端末に残っているLAPIS由来のデータです」
美佳はその画面を見た。
自分のスマートフォンの中に、ずっと、これがあった。知らないまま、持ち歩いていた。
「読み取れますか」と美佳は聞いた。
「暗号の種類は特定できました」と翔は言った。「ただ、解読キーを持っていない。解読キーは——おそらく、サーバー側にあった」
「サーバーは止まっている」
「止まっています。だから今は、読めない」
「今は」と美佳は繰り返した。
翔は少し間を置いた。「将来的に、解読できる状況が生まれる可能性はあります。キーが別の場所に保存されていれば」
「されていれば、と翔さんは言う。されていると思ってますか」
翔は美佳を見た。「はい」と言った。「されていると思っています」
「美佳の端末だけ調べたんですか」と朝倉が聞いた。
「いいえ」と翔は言った。「私自身の端末と、朝倉さんの端末、それから──もう一人の端末も」
「もう一人」
「宮下ユリさんです。朝倉さん経由で、データだけ提供してもらいました。本人は詳しく知らない状態で」
朝倉が少し顔をしかめた。「それは、ユリには話してない」
「今は話さない方がいいと判断しました」と翔は言った。感情のない声だったが、言い訳の色もなかった。「関与の深さを増やすと、リスクが上がる」
「そうだね」と朝倉は言った。納得というより、保留の声音だった。
美佳は何も言わなかった。
ユリは、知らない。自分のデータが今この場で並べられていることを、知らないまま今日も何かをしている。バイトかもしれないし、誰かと話しているかもしれない。高校のとき、ユリはいつも明るかった。何かを深刻に抱え込むより、笑って流す方を選ぶ子だった。アンケートの後も「開き直った」と言っていた。その言葉は本物だと美佳は思っていた。ユリは強い。でもその強さは、深く考えないことで成立しているわけじゃない。ちゃんと向き合った上で、それでも前を向ける人だ。
だからこそ、ユリの知らないところでユリのデータが動いていることが、喉に引っかかった。
──ユリは自分のログが調べられていることを、いつか知るのだろうか。
翔は「四人の端末を比較して、分かったことがあります」と続けた。
美佳は引っかかりを飲み込んで、画面に目を戻した。
翔は画面を切り替えた。四つの列が並んだ表が出た。各列に、英数字のブロックが並んでいる。
「ログの構造は全員同じです。でも、一部だけ違う」
翔は画面の特定の行を指した。
「この領域が、個人差のある部分です。全員に共通するログの中に、各自固有のデータが埋め込まれている。何が書かれているかは読めない。でも──」
翔は少し止まった。
「美佳さんの端末だけ、このブロックのサイズが他の三人より大きい」
美佳は画面を見た。
四つの列の中で、自分の列だけ、特定の行の幅が明らかに広かった。数字として見ても、それは分かった。
「大きい、というのは」と美佳は言った。「データ量が多い?」
「そうです」
「なぜ私だけ」
「分かりません」と翔は言った。「でも、仮説はあります」
「聞かせてください」
翔は画面を元に戻した。美佳のスマートフォンのログだけが、また映し出された。
「アンケートへの回答数は、四人とも大きな差はなかった。でも回答の質、というべきものが──美佳さんだけ際立っていた可能性があります」
「質」
「一つの問いに対して、どれだけ深く迷ったか。選択までの時間、再考の回数、修正の有無。LAPISはそういうメタデータを取得していた設計です。美佳さんは、他の人より長く、丁寧に迷った。その記録が、ログに厚みを作った」
美佳は黙った。
高校のとき、美佳は文化祭の出し物を決める多数決で、一人だけ白票を出したことがある。どれでもよかったわけじゃない。どれにも、それぞれ理由があった。選んでしまうと、選ばれなかった理由が消えてしまう気がした。だから選べなかった。ユリには「美佳ってそういうとこあるよね」と笑われた。責めているわけじゃない、ただ不思議そうに。朝倉は「分かる気がする」と言った。翔は——翔はそのとき、何も言っていなかったと思う。でも美佳の方を、一瞬だけ見ていた気がする。見ていたのか、気のせいなのか、今となっては分からない。
「選択癖みたいなものは、アンケートの前からありましたか」と朝倉が聞いた。
「……あったかもしれない」と美佳は言った。「でも今よりは、ずっとましだった」
「アンケートが、それを引き出した可能性がある」と翔は言った。「設計として、意図的に」
意図的に。
その言葉が、閲覧ロビーの空気に溶けていくのを、美佳は感じた。
「つまり」と美佳は言った。声は思ったより落ち着いていた。「私は最初から、目をつけられていた?」
「目をつけていた、というより」と翔は言った。「見えていた、という方が正確だと思います。アンケートが深く刺さる人間が、データの中から浮かび上がってくる。その中に美佳さんがいた」
「刺さる、というのは」
「問いに対して、逃げずに向き合う。答えを出した後も、考え続ける。選択を引きずる。そういう人間を、LAPISの設計は拾い上げる作りになっていた」
美佳はテーブルの上の自分のスマートフォンを見た。
薄い板の中に、自分の迷いの記録が全部入っている。暗号化されて、読めない形で。でもそこにある。
高校のときから続いている、あの感覚の全部が。
そして同じ表の中に、ユリのログもある。美佳より小さい、でも確かにある。ユリが答えたときの、ユリなりの迷いの記録が。ユリはそれを知らない。
「消せますか」と美佳は聞いた。
翔は少し間を置いた。
「技術的には、消せます。ただ」
「ただ?」
「消した痕跡も、残ります。消したこと自体が、何かを知っているというサインになる可能性がある」
美佳は静かに息を吐いた。「消しても消さなくても、どちらも問題がある」
「今は、触らない方がいいと私は思っています」
──ユリのも、消せない。
美佳はそれを声に出さなかった。出しても、どうにもならないことだったから。
「有栖川について、教えてもらえますか」
美佳は翔を見た。翔は少し目を細めた。
「どこまで」
「知っていることを」
翔はパソコンの画面を閉じた。端末の作業が終わった、という区切りのような動作だった。
「有栖川玲は、LAPISに関わっていた人物です。ただ、外部からの関与です。設計の内側にはいない。でも設計者と直接接触があった。それは確かです」
「設計者と、どういう関係で」
「最初は調査する側だったと聞いています。LAPISが何をしているのか、外部から調べようとしていた。でもいつの間にか──調べる側から、知っている側になっていた」
「引き込まれた」
「自分から入ったのか、気づいたら入っていたのか、本人にしか分からない」と翔は言った。「有栖川自身は、今もその境界線を曖昧にしています。意図的に」
「なぜ美佳に会いたがっているんですか」
翔は少しだけ、迷うような間を作った。
「それは──有栖川本人に聞いてください」
答えを知っていて、言わないのか。本当に知らないのか。翔の表情からは、どちらとも読み取れなかった。
高校のとき、翔はいつもそうだった。知っていることと知らないことの境界を、顔に出さなかった。美佳はそれを「感情が薄い人だ」と思っていたが、今は少し違う気がしている。感情が薄いんじゃなく、出すタイミングを自分で決めている。それは意志の話だ。
図書館を出ると、外は曇っていた。
翔は駅の方向へ歩いていった。朝倉は美佳の隣に並んだ。
「どう思う」と朝倉は言った。
「何が」
「全体的に」
美佳は少し歩きながら考えた。「怖い、というより」と言いかけて、止まった。「怖い、が正しいのかもしれない。でも怖いのとは少し違う感覚もある」
「どんな感覚」
「自分のことなのに、知らないことが多すぎる、という感じ」
朝倉は「うん」と言った。否定も肯定もしない相槌だった。
「私の迷いが、記録されていた」と美佳は言った。「それを誰かが読んでいた、かもしれない。私が何に迷って、どのくらい迷ったか、全部」
「嫌だ?」
「嫌だ」と美佳は言った。すぐに答えられた。「見られていい迷いと、見られたくない迷いがある。でも向こうは選ばない。全部持っていく」
朝倉はしばらく黙っていた。
「ユリのことも、気になってる?」と朝倉が言った。
美佳は少し驚いた。「……なんで分かるの」
「さっき、表を見てるときの顔が変わったから」
美佳は前を向いたまま答えた。「ユリは知らない。自分のログが並べられてることを。それが」
「引っかかる」
「うん」
朝倉はしばらく黙って歩いた。「私も同じ」とやがて言った。「でも今ユリに話したら、ユリを巻き込むことになる。翔の判断は、たぶん正しい」
「正しいのは分かってる」と美佳は言った。「でも、正しいことと、喉に引っかからないことは、別だから」
朝倉は「そうだね」と言って、それ以上は何も言わなかった。
「文化祭の白票のこと、覚えてる?」と朝倉がしばらくしてから言った。
美佳は少し驚いた。「覚えてるの、そんなこと」
「覚えてるよ」と朝倉は言った。「美佳がどれにも入れなかった理由、そのときは聞かなかったけど、なんとなく分かった気がして。だから覚えてた」
「あのとき選べなかったのは」と美佳は言った。「選ぶと、選ばなかった理由が消えるような気がしたから」
「それが記録されてた、ってことだよね」と朝倉は言った。静かに、でも確かに。
美佳は「そう」と言った。「高校のときから、ずっと」
角で朝倉と別れた。
アパートに戻って、コートを脱がないまま、美佳はしばらくソファに座っていた。
スマートフォンを手に持つ。
薄くて、軽い。毎日持ち歩いている、何でもない道具。でも今は、その中に何かが入っているのを知っている。暗号化されていて読めないが、確かにある。自分の迷いの、全部の記録。高校のときから続く、あの感覚の痕跡が。
そしてユリの端末の中にも、同じ構造のファイルがある。ユリはそれを知らないまま、今日も笑っているかもしれない。
それでいい、と美佳は思おうとした。
でも思いきれなかった。
本物の迷いが、記録として使われる。本物の感覚が、設計の材料になる。それが怖いのは、迷いを否定しているからじゃない。迷いを肯定したまま、奪われるからだ。
──ユリの開き直りも、記録されている。
その事実が、じわりと重かった。
ノートを開いた。
今日の内容を書いた。最後に一行だけ、付け加えた。
私の迷いは、私のものだ。
書いてから、少し間抜けだと思った。でも消さなかった。
それからもう一行、書いた。
ユリのことを、いつか話せる日が来るといい。
翌朝、翔からメッセージが来た。
「有栖川との日時が決まりました。来週火曜日、十一時。場所は追って連絡します」
美佳は「分かりました」と返した。
それから朝倉に転送して、「一緒に来られる?」と添えた。
朝倉から「行く」とすぐに返ってきた。
美佳はスマートフォンを置いて、今日のシフトへ向かう準備を始めた。コートを羽織る。鍵を持つ。靴を履く。
一つ一つは、何でもない動作だった。
でも今日の美佳は、それを少しだけ、丁寧にやった。設計に選ばれた迷い方じゃなく、自分のペースで。遅くても、非効率でも。
それが小さな抵抗なのか、ただの習慣なのか、美佳には分からなかった。
でもどちらでもよかった。




