第10話 それでも続く日々
一週間が、静かに過ぎた。
「@LAPIS_echo」からの追加のDMはなかった。朝倉からの連絡も、翔の動きについての短い報告が一件あっただけだ。内容は「引き続き調査中。新しい情報が入り次第連絡する」という、現状維持を告げるものだった。ユリからは「あのアカウント、フォロー外した。なんか怖くなってきた」というメッセージが来て、美佳は「それでいい」とだけ返した。
何かが動いているのか、止まっているのか、分からない一週間だった。
美佳はその間も、いつも通りカフェのシフトに入り、食事をして、眠った。眠れない夜が二度あったが、それでも朝になれば起きた。当たり前のことが、当たり前にできている。それを、今の美佳は少しだけ誇りに思っていた。
水曜日の午後、カフェに七海彩音が来た。
美佳がカウンターの中から顔を上げたとき、扉の前に彩音が立っていた。グレーのロングコートを着て、肩にトートバッグを下げている。店内を見渡してから美佳に気づいて、小さく会釈をした。
美佳の心臓が、一拍だけ速くなった。
彩音とは、アンケートを通じて繋がった。言葉は少ないが、核心を突く人だ。美佳に「鍵」を託した人でもある。あの日から、会うのは久しぶりだった。
「いらっしゃいませ」美佳は、努めて普通の声で言った。
彩音はカウンターの端の席に座って、「ホットのほうじ茶があれば」と言った。メニューを開かずに頼んだ。事前に調べてきたのか、勘なのか、美佳には判断できなかった。
ほうじ茶を用意しながら、美佳は彩音の様子を窺った。彩音はトートバッグから文庫本を取り出して、開いた。読んでいるのか、読んでいるふりをしているのか、こちらからは分からない。
美佳はほうじ茶をカウンターに置いた。
「ありがとう」彩音は本から目を上げずに言った。それから、一拍置いて、「元気だった?」と聞いた。
「まあ、なんとか」美佳は答えた。「彩音は?」
「わたしも、なんとか」
それだけで、会話は終わった。彩音はまた本に目を落とした。
美佳は他の客の対応に戻りながら、彩音のことを意識し続けた。わざわざここへ来た理由が、あるはずだ。彩音は何も言わずに行動する人ではない。でも今日は、ただお茶を飲みに来ただけのようにも見えた。
一時間後、彩音は本を閉じて、代金を払った。立ち上がりながら、「また来ます」と言った。
美佳が「ありがとうございます」と答えると、彩音はコートの衿を直しながら、ほんの少しだけ声を落として言った。
「あのアカウント、見た?」
美佳は動きを止めた。
「見た」
「そう」彩音は小さく頷いた。それ以上は何も言わずに、扉を開けて出ていった。
美佳はしばらく、彩音が出ていった扉を見ていた。
見た、と確認しただけだった。何を思うかも、どう行動するかも、聞かなかった。ただ、「見た?」と聞いた。
それが彩音らしい、と美佳は思った。と同時に、その短いやり取りの中に、何か含まれているような気がして、うまく拾えなかったことが、少しだけ引っかかった。
その夜、美佳はノートを開いた。
日記をつける習慣はなかったが、最近の出来事を整理したくなった。頭の中だけで考えていると、どこかへ行ってしまう気がした。書いておけば、少なくともそこに残る。
アンケートが終わってからのことを、時系列で書き出してみた。
翔からの情報。端末のログ。空白のメッセージ。グレーのジャケットの男。常連客の不在。黒いコートの女性。「@LAPIS_echo」の出現と急拡大。ユリへのDM。自分へのDM──「問いを作る側の才能があります」。そして今日の彩音の来訪。
書き出してみると、点と点が並んでいた。
繋がっているかどうか、まだ分からない。でも、並べてみると、ある方向を向いているように見えた。すべてが、美佳に向かっている。美佳の周囲で起きていることが、少しずつ、美佳自身に近づいてきている。
偶然の集積なのか、意図された接近なのか。
美佳はノートを閉じて、ペンを置いた。答えは出ない。でも書いたことで、少し頭が整理された気がした。
窓の外を見ると、藍都の夜景が広がっていた。遠くにビルの明かりがいくつか灯っていて、その下に街が広がっている。いつも通りの夜だ。でもその「いつも通り」の中に、今は見えない何かが潜んでいる気がした。
翌朝、美佳はいつもより少し早く起きた。
ベッドの中でぼんやりしていた時間は、今日はなかった。起きると決めて、起きた。それだけのことが、少し前より楽にできるようになっていた。選択癖が消えたわけではない。ドライヤーを持ってまだ迷うし、冷蔵庫を開けて何を食べるか考えすぎることもある。でも一週間前よりは、少しだけ軽くなった気がした。
慣れているのかもしれない。ユリが言っていたように、開き直りに近い何かが、少しずつ育ってきているのかもしれない。
朝食を食べながら、スマートフォンを開いた。
「@LAPIS_echo」に、新しい投稿があった。
『問いは、もうすぐそこにあります』
それだけだった。フォロワーは、昨夜から五千増えて、四万五千を超えていた。
美佳はその数字を見て、静かに息を吐いた。
来る、と思った。何かが来る。いつなのか、どんな形で来るのか、まだ分からない。でも、来る。それだけは、確かな気がした。
美佳はスマートフォンを置いて、残りの朝食を食べた。
今日もカフェのシフトがある。いつも通りに出かけて、いつも通りに働いて、いつも通りに帰ってくる。何かが来るとしても、今日ではないかもしれない。明日でも、来週でも、来月でもないかもしれない。
それでも、日々は続く。
アンケートが終わっても、ログが残っても、謎のアカウントが現れても、DMが届いても、彩音が来ても──それでも朝は来て、仕事があって、飯を食って、眠る。その繰り返しが、今の美佳にできる唯一の抵抗のような気がした。
普通に生きること。流されずに、でも抗いすぎずに、ただ自分のペースで続けること。
美佳はコートを着て、鍵を持って、扉を開けた。
藍都の朝は、今日も曇っていた。でも雲の隙間から、わずかに光が差し込んでいた。晴れとも雨ともつかない、いつもの空。
美佳はそれを見上げて、一歩踏み出した。




