第9話 些細な衝突
朝倉と待ち合わせたのは、前回と同じ喫茶店だった。
美佳が着くと、朝倉はすでに席についていた。テーブルの上にノートと、細かい文字で書かれたメモ用紙が何枚か並んでいる。いつもより、準備が多い。
「待たせた?」
「いや」朝倉はノートから目を上げた。「座って」
美佳は向かいに座って、コーヒーを頼んだ。朝倉はメモ用紙を一枚、美佳の方へ向けた。数字と、短い文字列が並んでいる。
「『@LAPIS_echo』のアカウントを、翔が解析した」朝倉は言った。「投稿のメタデータから、いくつか分かったことがある」
「メタデータ?」
「投稿した端末の種類、投稿時刻のパターン、使用されたネットワークの痕跡。直接的な情報ではないが、積み重ねると傾向が見えてくる」朝倉はメモを指でなぞった。「まず、投稿は毎回、深夜零時から午前二時の間に行われている。曜日はバラバラだが、時間帯は一定だ」
「規則的、ということ?」
「意図的に時間を選んでいる可能性が高い。それから、使用されているネットワークは毎回異なる。固定回線ではなく、都度変えている。場所を特定されないための措置だと翔は言っていた」
美佳はコーヒーが運ばれてくるのを待ちながら、その情報を頭の中で整理した。深夜の投稿。毎回変えるネットワーク。それは、技術的な知識を持った人間の行動だ。偶然そうなっているわけじゃない。
「LAPISと関係があると思う?」
「翔は、そう考えている」朝倉は答えた。「ただ、LAPISの残党なのか、LAPISを模倣している別の誰かなのか、まだ判断できない」
コーヒーが来た。美佳はカップを両手で包んで、「残党」という言葉を繰り返した。
「残党って、LAPISって組織があったの?それとも、システムだけ?」
「そこが、まだはっきりしない」朝倉は少し間を置いた。「システムを動かしていた人間が、必ずいるはずだ。でも表に出てきていない」
そこへ、ドアが開く音がした。
美佳は反射的に振り返った。入ってきたのは宮下ユリだった。ピンクのダウンジャケットを着て、ショルダーバッグを肩にかけて、店内を見回してから美佳を見つけて、小走りに近づいてきた。
「あ、やっぱりここだ。朝倉さんも来てたんだ」ユリは朝倉に軽く頭を下げてから、美佳の隣に座った。「ごめん、突然。連絡したら美佳がここにいるって言うから」
美佳は少し驚いた。ユリには「朝倉と話がある」とだけ伝えていた。来るとは思っていなかった。
「どうしたの?」
「あのアカウント」ユリはスマートフォンを取り出して、テーブルの上に置いた。「『@LAPIS_echo』。美佳も知ってるでしょ」
「知ってる」
「わたし、フォローしてた」ユリは言った。その声に、少し迷いがあった。「昨日、DMが来たの」
美佳と朝倉は、同時にユリを見た。
「DMって、アカウントから直接?」美佳は聞いた。
「そう」ユリはスマートフォンの画面を開いて、二人に見せた。
メッセージは短かった。
『あなたの回答を、覚えています。もう一度、問いに向き合いませんか』
美佳の背筋に、冷たいものが走った。
「ユリは、LAPISのアンケートに答えたことがあるの?」朝倉が静かに聞いた。
「うん。一回だけ。途中でやめたけど」ユリは画面から目を離して、二人を交互に見た。「これって、やばいやつ?」
「返信した?」美佳は聞いた。
「してない。なんか怖くて」
美佳はユリの顔を見た。いつも明るいユリが、今日は少し青ざめて見えた。感情を率直に表に出す人間が、怖いと言っている。それは、怖がるべき理由があるということだ。
「しないで」美佳は言った。「絶対に、返信しないで」
ユリが帰った後、美佳と朝倉は店に残った。
「ターゲティングしている」朝倉は言った。「アンケートのログを使って、過去に回答した人間を特定して、個別に接触している」
「端末のログから?」
「可能性が高い。消えないデータが、今、使われているのかもしれない」
美佳は手の中のコーヒーカップを見た。もうほとんど冷めていた。
翔が言っていた。「今は使えない」と。今は、という言葉。それが、今は変わったということか。サーバーが止まっていても、ログを読み取る別のシステムが動き始めた。だから「近日中に、新しい問いをお届けします」という投稿が出てきた。
「わたしにも、DMは来ると思う?」美佳は聞いた。
「来るとしたら、すでに来ていてもおかしくない」朝倉は答えた。「確認してみて」
美佳はスマートフォンを取り出して、「@LAPIS_echo」のDMを開いた。
一件、来ていた。
開封していなかったので、気づいていなかった。メッセージの内容は、ユリへのものとほぼ同じだった。ただ、最後の一行だけ、違った。
『あなたには、問いを作る側の才能があります』
美佳は画面を、朝倉に向けた。
朝倉はそれを読んで、しばらく何も言わなかった。
「削除する?」美佳は聞いた。
「待って」朝倉はメモ帳を取り出して、メッセージの文面を書き留めた。「証拠として残しておいた方がいい。ただ、返信はしないこと」
「分かった」
美佳はスマートフォンを伏せた。
問いを作る側の才能。
その言葉が、頭の中に貼り付いた。才能、という言葉を使っている。脅しでも、命令でもない。勧誘だ。丁寧な、しかし明確な、勧誘。
喫茶店を出ると、空は薄曇りで、冷たい風が吹いていた。
朝倉と並んで少し歩いてから、美佳は口を開いた。
「ユリに話しておいてよかった?」
「結果的には」朝倉は言った。「ただ、ユリにはあまり深く関わらせない方がいいかもしれない」
「どうして?」
「ユリは感情を表に出す。それ自体は悪いことじゃないが、何かあったときに、動きを読まれやすい」
美佳はその言葉を聞いて、少し胸が痛んだ。ユリを遠ざけることへの抵抗感と、朝倉の言葉が正しいかもしれないという感覚が、同時にあった。
「分かった」美佳は言った。「でも、ユリには状況を伝えた方がいいと思う。知らないままの方が、危ない気がして」
「それも分かる」朝倉は少し考えてから、「適切なタイミングで」と言った。「今はまだ、全体像が見えていない」
二人は角で別れた。朝倉は北の方向へ、美佳は南へ。
美佳は歩きながら、スマートフォンをポケットの中で握った。あのDMは、まだそこにある。削除していない。返信もしていない。ただ、そこにある。
問いを作る側の才能。
才能があると言われたことを、否定する気持ちはない。でも肯定する気持ちも、ない。ただ、その言葉が、美佳の中のどこかに引っかかって、取れなかった。
カフェのシフトまで、あと二時間あった。美佳はいつもより少し早足で、アパートへ向かった。後ろを振り返ったのは、一度だけだった。
誰もいなかった。
それでも、足を速めた。




