第九話「赤い海」
才能と努力。情熱と現実。
そのどれもが、若さの前では未完成で、だからこそ残酷だ。
三人の関係は少しずつ軋みを上げながら、それでも前へ進んでいく。
「……こんなもんだろ……」
雄大は鉛筆を置いた。
机の上には、徹夜の果てに仕上げたネーム。
歪ながらもコマは埋まり、
セリフも一通り入れた。
完璧とは程遠い。
だが、今の自分にできる全力だった。
「終わったか」
篤が背後から覗き込む。
その視線が妙に緊張を生む。
「……ああ……」
声が掠れる。
睡眠不足だけではない。
評価される側の不安。
逃げ場のない感覚。
篤は無言で紙をめくった。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
沈黙。
「……どうだよ……」
耐えきれず問いかける。
篤はしばらく黙り――
そして言った。
「……まあ」
嫌な前置きだった。
「酷えな」
一切の遠慮がなかった。
「……は?」
「構図死んでる」
「テンポ悪い」
「何見せたいのか分からん」
言葉が次々と落ちてくる。
容赦なく。
「……っ……」
反論が出ない。
だが納得もできない。
「でもな」
篤が続ける。
「悪くはねえ」
雄大の思考が一瞬止まる。
「……どっちだよ……」
「素材はあるって意味だ」
曖昧な評価。
だが完全否定ではない。
「歩に見せるぞ」
その一言に血の気が引く。
「……は……?」
「持ち込みだろ」
当然のような口調。
「評価もらわなきゃ意味ねえ」
理解はできる。
だが――恐怖が勝つ。
「待てよ……!」
思わず声が荒れる。
「こんなの見せたら……」
「見せなきゃ一生このままだろ」
即答。
逃げ場を与えない。
雄大の喉が詰まる。
正論だった。
残酷なほどに。
⸻
月園舎。
編集部の空気は相変わらず異様だった。
歩はネームを受け取ると、
一言も発さず読み始めた。
静寂。
紙の音だけが響く。
雄大の心臓がうるさい。
異常なほど。
「…………」
長い。
永遠のように長い。
そして。
歩が赤ペンを取った。
「……え……?」
次の瞬間。
躊躇なく線が走る。
ザッ。
ザッ。
ザッ。
コマ。
セリフ。
構図。
容赦なく、赤が刻まれていく。
「……ちょ……」
言葉を失う。
訂正ではない。
ほぼ全面修正。
「視線が迷っています」
淡々とした声。
「この構図は機能していません」
赤。
「このセリフは説明過多です」
赤。
「感情の流れが断絶しています」
赤。
止まらない。
一切の容赦がない。
雄大の視界が揺れる。
「……ちょっと待ってください……」
思わず口を挟む。
歩の手が止まる。
静かな視線。
「何を待つんですか?」
冷たい問い。
「……いや……その……」
言葉が出ない。
「これは仕事です」
歩の声に感情はない。
「感想ではありません」
再び赤が走る。
「通用しないものを通用するとは言えません」
紙が、赤く染まっていく。
まるで血の海。
雄大の胸が締め付けられる。
徹夜。
苦悩。
限界。
全てが無慈悲に切り刻まれていく。
「…………」
気付けば、言葉を失っていた。
反論も。
抗議も。
何一つ出てこない。
「基礎が欠けています」
歩の淡々とした宣告。
「ですが」
赤ペンが止まる。
「致命的ではありません」
雄大の心臓が跳ねる。
「……え……?」
「直せばいいだけです」
あまりにも簡単に言う。
「描き直してください」
机の上へ戻されるネーム。
もはや別物だった。
「……これ全部……?」
声が震える。
歩は即答する。
「当然です」
逃げ場ゼロ。
絶対の圧。
「プロを目指すんですよね?」
その一言が、喉元へ突き刺さる。
否定できない。
逃げられない。
篤が横で笑う。
楽しそうに。
「歓迎されてんじゃねえか」
他人事のような声音。
雄大の拳が震える。
悔しさ。
屈辱。
絶望。
だが同時に――
奇妙な感覚が残っていた。
完全否定ではない。
門前払いでもない。
「……クソ……」
ネームを握りしめる。
赤だらけの紙。
だがそこには確かに、
前へ進むための道筋が刻まれていた。
創作の世界。
そこは優しさのない場所。
だが――
努力すら拒絶されない場所でもあった。
雄大の戦いは、まだ終わらない。
むしろ。
ようやく本当の地獄が始まったのかもしれなかった。
「……で、どうするの?」
最初に口を開いたのは八島歩だった。
編集者らしい冷静な声音。だが、その奥には確かな緊張が潜んでいる。
喫茶店のテーブル。
篤のネーム原稿が無造作に広げられ、紙の白さだけがやけに目に刺さる。
藤堂篤は椅子の背にもたれ、わざとらしく視線を逸らした。
「どうするって何が」
「連載会議よ。次、かかるんでしょ」
歩の言葉に、空気がわずかに硬直する。
狭間雄大は黙ったまま原稿を見つめていた。
視線は落ち着いているのに、指先だけが落ち着きなく震えている。
「俺の問題じゃねえだろ」
篤が吐き捨てる。
「コンビで持ち込んだんだから、二人の問題でしょ」
歩の返答は即座だった。
篤は小さく舌打ちし、ネームの一枚を指で弾いた。
「雄大が優等生サマの頭で何とかすりゃいい話だ」
その瞬間。
パシン、と乾いた音。
気付けば雄大の手が動いていた。
篤の胸ぐらを掴み上げていた。
「……お前、いい加減にしろよ」
低い声だった。
怒鳴りではない。
だが、はっきりと怒りを孕んだ声。
篤の目が細くなる。
「何だよ」
「逃げんなって言ってんだ」
テーブルが揺れ、コーヒーの表面が波立つ。
歩は止めない。
編集者としてでも、友人としてでもない。
ただ静かに、二人を観察していた。
「お前、最初に言っただろ」
雄大の声が震える。
「“漫画家になる”って」
篤の表情が僅かに変わる。
「……だから?」
「だからじゃねえよ」
雄大の拳に力がこもる。
「なら、ちゃんと向き合えよ」
一瞬の沈黙。
店内のざわめきだけが遠く聞こえる。
そして。
篤は、ふっと笑った。
「向き合ってんだろ」
挑発的な笑み。
「だからここにいんだよ」
その言葉に、雄大の手が止まる。
「会議、通ると思ってんのか?」
「通すんだろ」
篤は即答した。
迷いがない。
「落ちたら?」
「また描くだけだ」
あまりにも当然のように。
まるで失敗など最初から織り込み済みのように。
雄大は言葉を失う。
努力で積み上げてきた雄大には、理解し難い感覚だった。
だが――
羨ましい、とも思ってしまった。
その時だった。
「いいわね」
歩が呟いた。
二人が同時に視線を向ける。
「今の」
歩はネームを一枚引き寄せる。
「その空気」
編集者の目。
獲物を見つけた捕食者の目だった。
「これよ。あなたたちに足りなかったの」
篤が眉をひそめる。
「は?」
「ぶつかり合い」
歩は断言した。
「遠慮し過ぎてたのよ」
雄大が反射的に言い返す。
「遠慮なんて――」
「してたわよ」
ぴしゃり。
「特に狭間くん」
胸を刺す一言。
「あなた、篤に本気で怒ってなかった」
雄大の喉が詰まる。
言い返せない。
「優等生の距離感で見てた」
歩の言葉は容赦がない。
「でも今は違う」
静かな微笑。
「今の感情、作品に落としなさい」
篤が小さく笑う。
「相変わらず怖えな、あんた」
「編集者だから」
歩は当然のように答えた。
「売れる漫画を作るのが仕事よ」
その言葉に、篤の目が光る。
「売れる、ねえ」
「ええ」
歩は迷わない。
「あなたたち、売れるわよ」
空気が止まる。
雄大が目を見開く。
「本気で言ってるんですか……?」
「ええ」
断定。
「ただし」
歩は指を立てる。
「甘えを捨てたら、ね」
篤の口元が歪む。
「上等だよ」
雄大は黙ったまま拳を握る。
胸の奥で、何かが音を立てていた。
焦燥。
劣等感。
恐怖。
そして――
「……やります」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
歩が頷く。
篤がニヤリと笑う。
三人の視線が交差する。
戦場へ向かう兵士のような、奇妙な連帯感。
まだ何も始まっていない。
だが確かに、何かが動き出していた。
若さは未熟で、未熟さは時に武器になる。
ぶつかることでしか見えない景色がある。
三人の関係は、ここからさらに加速していく。
次回――連載会議。
夢と現実が、ついに正面から衝突する。




