第八話「食らいつく理由」
夢に近づくほど、現実は牙を剥く。
才能、努力、環境――
どれか一つでは足りない世界で、まだ何者でもない二人は今日も足掻く。
理解者のはずの他人は壁となり、味方の言葉すら刃に変わる。
それでも描く。
笑われても、否定されても、ページをめくる手を止めないために。
第八話。
小さな綻びが、やがて大きな歪みへと変わり始める。
――物語は、少しだけ苦くなる。
月園舎を出た後も、雄大の胸の奥はざわついたままだった。
冬の空気は冷たいはずなのに、
体の内側だけが妙に熱い。
「……クソ……」
小さく吐き捨てる。
何に対しての言葉なのか、自分でも分からない。
歩の言葉か。
篤の態度か。
それとも――自分自身か。
隣を歩く篤はいつも通りだった。
ポケットに手を突っ込み、気だるそうな顔。
まるで先ほどの緊張感が嘘のように。
「で?」
篤が言う。
「どうすんだよ」
雄大は即座に答えられなかった。
答えは単純なはずなのに。
離れるか。
踏み込むか。
あの部屋で突き付けられた二択。
「……お前は何で平気なんだよ」
思わず漏れる。
篤が片眉を上げる。
「何が」
「何がって……」
言葉が詰まる。
「全部だよ」
「才能あるとか言われて」
「ボロクソにも言われて」
「普通もっと動揺するだろ……」
篤は一瞬だけ黙り――
そして、鼻で笑った。
「今さらだろ」
あまりにもあっさりとした口調。
「俺は昔からそういう扱いだ」
雄大の足が止まりかける。
「……どういう意味だよ」
篤は前を向いたまま言う。
「できて当たり前」
「できなきゃゴミ」
「それだけの話」
軽く言っているようで、どこか重い。
雄大は言葉を失う。
篤の過去。
考えたこともなかった領域。
「……だから別に」
「褒められても何も思わねえし」
「否定されても驚かねえ」
歩とのやり取りが脳裏をよぎる。
あの異様な応酬。
才能と理屈の衝突。
「……意味分かんねえよ……」
雄大の呟き。
篤が笑う。
「分かる必要あんのか?」
突き放すような一言。
だがどこか核心を突いていた。
沈黙が落ちる。
しばらく歩いた後、雄大が低く言う。
「……描く」
篤が足を止める。
「は?」
「描くって言ったんだよ」
声が震える。
怒りでもない。
決意とも違う。
もっと原始的な感情。
「分からねえなら」
「できねえなら」
「やるしかねえだろ……!」
自分でも驚くほど、言葉が自然に出た。
篤の目が細くなる。
「本気か?」
「……知らねえよ……」
吐き捨てる。
「でもこのまま終わるのはムカつく」
それが本音だった。
才能が欲しいわけではない。
評価が欲しいわけでもない。
ただ――
あの部屋で何もできなかった自分が許せない。
篤が小さく笑う。
「いいじゃねえか」
珍しく、素直な声音。
「じゃあ地獄見るぞ」
雄大の背筋が冷える。
「……は?」
「原稿作るってのはそういうことだ」
淡々と告げる。
「寝る時間ねえぞ」
「遊ぶ時間も消える」
「評価なんて保証されねえ」
現実の羅列。
脅しではない。
事実。
「それでもやんのか?」
雄大は一瞬だけ黙り――
そして言う。
「……ああ」
自分でも驚くほど迷いはなかった。
篤が笑う。
獰猛な笑み。
「後悔すんなよ」
「今さらだ」
即答だった。
その瞬間。
雄大の中で何かが確実に変わった。
優等生の理屈ではない。
合理的な選択でもない。
ただの意地。
ただの反発。
だがそれは確かに、創作へ踏み込む最初の動機だった。
遠く、月園舎のビルが見える。
あの場所。
あの空気。
あの圧。
「……見てろよ……」
誰に向けた言葉かは分からない。
だが胸の奥で、確かな火が灯っていた。
物語は新たな段階へと進み始める。
才能だけではない。
努力だけでもない。
執念という名の燃料が、ついに注ぎ込まれた。
「まずネームだな」
篤の部屋は相変わらず雑然としていた。
漫画家志望の作業場とは思えない光景。
散らばった服。
開きっぱなしの本。
床に転がるペン。
だが机の周辺だけが異様に整っている。
まるで別の空間のように。
「……ネーム……」
雄大が呟く。
聞いたことはある。
だが実際に描いたことはない。
「話の設計図だよ」
篤が椅子へ腰を下ろす。
「ここで全部決まる」
紙が差し出される。
真っ白な原稿用紙。
雄大の指が僅かに止まる。
「適当にコマ割って」
「セリフ入れて」
「流れ作れ」
簡単に言う。
だが意味が分からない。
「……適当って何だよ……」
「そのまんまだろ」
篤はすでに鉛筆を走らせていた。
迷いのない線。
躊躇のない構図。
雄大の視界が揺れる。
早い。
異常なほど。
「……ちょっと待てよ……」
自分の紙へ視線を落とす。
何も浮かばない。
コマ?
構図?
演出?
頭の中は真っ白だった。
「止まってんじゃねえよ」
篤の声。
「時間無駄だぞ」
「うるせえよ……!」
苛立ちが滲む。
だが手は動かない。
何を描けばいい。
どう始めればいい。
「……クソ……」
鉛筆を握る。
とにかく線を引く。
四角。
歪なコマ。
バランスの悪い配置。
それだけで異様な違和感が生まれる。
「……なんだこれ……」
自分で見ていて気持ち悪い。
篤が横目で覗く。
一秒。
そして即答。
「読みづらい」
躊躇ゼロ。
容赦ゼロ。
「……は?」
「視線の流れ考えろ」
「読者は迷うと読むのやめる」
意味が分からない。
だが言われてみれば、確かに見づらい。
「……じゃあどうすんだよ……」
篤は自分のネームを突き出す。
「こうだろ」
一目で差が分かる。
整然としたコマ。
自然な流れ。
視線誘導。
同じ紙とは思えない。
「……何でそんな簡単に描けんだよ……」
「慣れだろ」
興味なさそうな返答。
「数だよ」
雄大の胸に刺さる。
結局それか。
積み重ね。
経験。
だが今の自分には圧倒的に足りない。
時間だけが過ぎる。
描いては消し。
描いては止まり。
思考と現実のズレが広がっていく。
「……全然進まねえ……」
時計を見る。
まだ一時間。
だが体感では数時間。
精神が削られていく。
篤の紙はすでに何ページも進んでいた。
「遅えな」
無慈悲な一言。
雄大の苛立ちが爆発しかける。
「……お前基準で言うなよ……!」
「じゃあ何基準だよ」
即座の返し。
言葉が詰まる。
反論できない。
現実として遅いのは事実だった。
「ネームで詰まるようじゃ先無えぞ」
さらなる追撃。
「ここが一番楽な工程なんだから」
雄大の思考が停止する。
「……は……?」
「原稿はもっとキツい」
当たり前のように言う。
「ペン入れ、仕上げ、修正」
「寝れねえ日が普通に来る」
血の気が引く。
今ですら限界に近いのに。
まだ入口。
「……冗談だろ……」
篤は笑わなかった。
「業界舐めんな」
静かな声。
妙な説得力。
雄大の喉が乾く。
紙を見る。
歪なコマ。
不自然な流れ。
自分の未熟さが容赦なく可視化されている。
「……クソ……」
だが、鉛筆を置かなかった。
置けば終わる。
離れれば負ける。
理解不能な意地だけが支えだった。
深夜。
部屋の空気は重く、濁っていた。
目が霞む。
頭が回らない。
「……なんで……」
掠れた声。
「こんなことやってんだ俺……」
誰にも向けない呟き。
篤の返答は即座だった。
「自分で決めたからだろ」
振り向く。
篤は相変わらず淡々と線を引いていた。
「理由なんて後付けでいい」
その言葉が妙に胸へ残る。
正論でもない。
励ましでもない。
だが否定もしていない。
雄大は再び紙を見る。
ぐちゃぐちゃのネーム。
だが――
確かに、自分の線だった。
逃げ場のない現実。
終わりの見えない作業。
それでも。
「……やってやるよ……」
小さく呟く。
誰に対してでもない宣言。
創作という名の消耗戦が、静かに始まっていた。
第八話までお読みいただきありがとうございます。
物語が進むにつれ、登場人物たちの「未熟さ」や「焦り」が前面に出てきました。
順調な成功譚ではなく、むしろぶつかり合いと不安の連続こそが、この作品の核でもあります。
夢を追う物語において、才能よりも先に試されるのは「心の耐久力」なのかもしれません。
次話では、さらに関係性が揺れ始めます。
亀裂か、成長か――その境目を楽しんでいただければ幸いです。




