第七話「交差点」
第七話後半では、物語の空気が大きく変化します。
これまで雄大の中で燻っていた違和感や疎外感が、ついに明確な形として表面化しました。
この場面で描きたかったのは、単純な感情の爆発ではありません。
「立っている世界の違いに気付いてしまった瞬間」
それこそが本質になります。
雄大はこれまで、努力や常識が通用する世界で生きてきました。
しかし、篤・歩・亜紀の三人はすでに別の基準で会話している。
このズレは才能の有無だけの問題ではなく、
環境・価値観・経験の差から生まれるものです。
そして重要なのは、誰も雄大を慰めないこと。
この物語の世界では、優しさよりも現実が先に来ます。
それが今後の展開を決定づける、非常に大きな転換点となります。
月園舎の打ち合わせ室は、妙に静まり返っていた。
原稿。
コーヒー。
無機質な机。
そして、居心地の悪い沈黙。
「……で?」
扉の前で立ち止まった女が言った。
奈那峰亜紀。
その場の空気を一瞬で支配する存在感。
ラフな私服。
無造作な仕草。
だが、視線だけで分かる。
この女は、場慣れしている。
「本当にいた」
小さく笑う。
その視線の先には篤。
「編集者って聞いた時は半信半疑だったけど」
八島歩が椅子に座ったまま答える。
「失礼ですね」
だが声にはどこか親しい響きがあった。
雄大の胸がざわつく。
この距離感。
この空気。
自分だけが完全に部外者の感覚。
「久しぶり」
亜紀が歩へ向けて言う。
「相変わらず真面目そうで安心した」
「そっちは相変わらず自由そうですね」
軽いやり取り。
だがそこには長年の関係性が滲んでいた。
篤が不機嫌そうに呟く。
「なんで来てんだよ」
亜紀は悪びれもせず言った。
「歩から聞いたから」
「面白い話があるって」
雄大の視線が歩へ向く。
歩は平然としていた。
「事実ですから」
「彼氏が持ち込みに来たなんて、なかなか聞きません」
篤が舌打ちする。
「余計なこと言うなよ……」
亜紀が笑う。
その笑い方にはどこか余裕があった。
雄大は気付く。
この女は完全に「こちら側」の人間だ。
業界の空気。
大人の距離感。
全てが自然すぎる。
自分とは決定的に違う。
「で?」
亜紀が原稿へ視線を落とす。
「どうなの」
その瞬間、歩の表情が変わった。
編集者の顔。
私的な空気が完全に消える。
「武器はある」
静かな声。
「でもこのままでは通らない」
篤が即座に反応する。
「だから何直せってんだよ」
歩は迷わず言った。
「全部です」
空気が張り詰める。
雄大の心臓が跳ねる。
亜紀の目が細くなる。
篤の視線が鋭くなる。
「構図が甘い」
「キャラクターの感情線が弱い」
「見せ場の設計が未熟」
容赦のない言葉。
一切の遠慮がない。
「才能で押し切れる段階じゃない」
完全な否定ではない。
だが甘さもない。
篤が机へ肘をつく。
苛立ちが露骨に滲む。
「……あんたさ」
「さっき才能あるって言ったよな」
歩は即答する。
「言いました」
「だからこそ言ってるんです」
視線がぶつかる。
編集者と描き手。
完全な対立構図。
「未完成の才能ほど危険なものはない」
「勘違いが一番の敵です」
雄大の背筋がぞくりとする。
言葉の圧。
空気の緊張。
亜紀が静かに笑う。
「相変わらず容赦ないね」
だがその声にはどこか楽しんでいる響きがあった。
篤が鼻で笑う。
「上等だよ」
「じゃあ具体的に言えよ」
歩の目が鋭くなる。
「言いましょうか」
そこから始まったのは――戦いだった。
コマ割り。
視線誘導。
心理の演出。
専門用語が飛び交う。
理屈。
構造。
設計。
雄大の理解を超える会話。
篤が反論する。
歩が即座に切り返す。
一歩も引かない。
完全な編集バトル。
その光景を前に、雄大の中で何かが崩れ始めていた。
「……なんだよ……これ……」
自分の知らない領域。
自分の入れない世界。
才能を語る人間。
作品を裁く人間。
どちらも異常に見える。
そして気付く。
自分だけが圧倒的に場違いだ。
「……俺は……」
誰にも聞こえない声。
積み重ねてきた努力。
守ってきた優等生の立場。
だが今この場では、何の意味も持たない。
篤がいる。
歩がいる。
亜紀がいる。
全員が同じ言語で会話している。
自分だけが理解できない。
疎外感が一気に膨れ上がる。
「……ふざけんなよ……」
思わず声が漏れた。
室内が静まり返る。
三人の視線が雄大へ向く。
自分でも何を言おうとしているのか分からない。
だが感情だけが溢れていた。
「なんで……」
「なんで当たり前みたいに話してんだよ……」
息が荒くなる。
「才能だの編集だの……」
「俺には……何も分からねえよ……!」
沈黙。
空気が変わる。
亜紀が僅かに目を見開く。
篤が黙り込む。
歩だけが静かに雄大を見る。
その視線は冷静だった。
「……それが普通です」
淡々とした声。
残酷なまでに平然とした言葉。
「この世界の外側にいた人間は、最初は全員そうなります」
雄大の胸へ突き刺さる。
救いではない。
慰めでもない。
ただの事実。
「問題は――」
歩が続ける。
「そこからどうするか、です」
逃げ場のない現実。
雄大の呼吸が乱れる。
そして初めて理解する。
この世界は、想像より遥かに残酷だ。
だが同時に――
決定的に引き返せない場所へ足を踏み入れていることも。
三つの世界が交差する。
才能。
現実。
劣等感。
物語は、完全に新しい局面へ突入していた。
重苦しい沈黙が部屋を満たしていた。
誰もすぐには口を開かなかった。
雄大自身でさえ、今の感情の爆発に戸惑っていた。
言ってしまった。
抑えきれなかった。
喉の奥が焼けるように熱い。
「……はぁ……」
荒い呼吸だけがやけに響く。
視線を感じる。
逃げ場のない圧。
最初に動いたのは篤だった。
「……何キレてんだよ」
低い声。
いつもの軽さがない。
だが怒っている様子でもない。
むしろ、どこか困惑しているような響き。
雄大は思わず睨み返す。
「お前には分かんねえだろ……」
掠れた声。
「最初からそっち側の人間なんだから」
空気が一瞬だけ揺れる。
その言葉に最も強く反応したのは歩だった。
「それは違います」
静かな否定。
だが強い。
「藤堂くんも最初からこの世界の人間ではありません」
篤の眉が僅かに動く。
雄大の胸にまたざわめきが走る。
歩は続ける。
「才能がある人間は、結果的にそう見えるだけです」
「最初から特別だったわけじゃない」
淡々とした理屈。
だが、どこか容赦がない。
雄大の苛立ちが再び燃え上がる。
「じゃあ何だよ……」
「俺が悪いって言いたいのかよ……」
歩の視線は変わらなかった。
「善悪の話ではありません」
「認識の話です」
冷静すぎる声。
感情を一切挟まない編集者の言葉。
「狭間くん」
名前を呼ばれ、雄大の心臓が跳ねる。
「あなたは今、自分が外側にいると感じている」
「それ自体は間違っていません」
胸の奥が冷える。
否定されない。
だが救われもしない。
「ですが」
歩の声が僅かに変わる。
「それは永続的なものではありません」
雄大の思考が一瞬止まる。
意味が理解できない。
「……え……?」
亜紀が静かに口を開く。
「要するにさ」
椅子の背にもたれながら言う。
「今分からないのは当たり前ってこと」
軽い調子。
だが視線は鋭い。
「誰だって最初は素人なんだから」
雄大は言葉を失う。
篤を見る。
歩を見る。
亜紀を見る。
全員の言葉が噛み合っている。
自分だけが理解できないわけではない。
だが――納得できない。
「……簡単に言うなよ……」
小さく漏れる。
亜紀が笑う。
「簡単じゃないよ」
「だから面白いんでしょ」
その一言に、雄大の胸がざわつく。
篤が口を挟む。
「つーか」
気だるそうに言う。
「お前、何もしてねえじゃん」
一瞬、意味が分からなかった。
だが次の瞬間、言葉の刃が突き刺さる。
「分かんねえ分かんねえ言ってるだけで」
「見ようともしてねえ」
空気が凍る。
雄大の視界が揺れる。
「……っ……」
反論が出ない。
図星だった。
理解できない。
だが本気で理解しようともしていなかった。
ただ拒絶していただけ。
歩が静かに頷く。
「厳しいですが、正論です」
容赦のない追撃。
「この世界は待ってくれません」
「分からないなら学ぶしかない」
「嫌なら離れるしかない」
選択肢は二つだけ。
残酷なほど単純。
雄大の拳が震える。
悔しさ。
怒り。
そして強烈な劣等感。
自分が圧倒的に遅れているという事実。
「……クソ……」
誰に向けた言葉か分からない。
だが胸の奥で何かが燃え始めていた。
篤が立ち上がる。
「まあいいだろ」
ぶっきらぼうに言う。
「どうせ巻き込まれてんだから」
歩が僅かに笑う。
「ええ」
「もう無関係ではいられません」
亜紀が面白そうに二人を見る。
「いいじゃん」
「青春っぽくて」
雄大は顔を上げる。
まだ整理はできない。
まだ納得もしていない。
だが、はっきり分かる。
ここは引き返せる場所ではない。
この世界。
この空気。
この異常な交差点。
自分の人生は、すでに確実に逸れ始めていた。
今回の続き部分で意識したのは、「逃げ場の消失」です。
雄大は怒りを爆発させましたが、
物語はそこで彼を救済しません。
代わりに提示されるのは極めて残酷な事実。
分からないなら学ぶしかない。
嫌なら離れるしかない。
創作の世界、そして競争の世界では、
この単純すぎる構造が支配的に存在します。
また、篤の言葉も重要な意味を持ちます。
彼は決して優しい人間ではありません。
だが同時に、最も本質を突く人物でもあります。
「見ようともしてねえ」
この一言は、雄大だけでなく読者にも向けられた問いになります。
才能とは何か。
努力とは何か。
そして、世界を変える覚悟とは何か。
物語はここからさらに加速していきます。
雄大の選択。
歩の本性。
篤の異常性。
三つの要素が、次の章でより激しく衝突することになります。




