作家の『承認欲求』真論 ~あなたの作品は誰にどう伝えたいのか~
■はじめに
作家さん達は、私が語っていない、持っていない戦略戦術も駆使しているでしょう。今回はその中で『身内』とそれにまつわる『承認欲求』について、メスを入れていきます。
■作家における『身内』とは?
私自身、そういう『身内』がいないため、すべて推察になります。
その上で『身内』というのは、概ねこういう協力関係にある人たちを指すでしょう。
「自分が作品を投稿したら、ポイントを得られる。同様に、相手が作品を投稿したら、自らポイントを取らせるようブクマや評価をする」
私は、これ自体に否定的な立場ではありません。
かつて「少しでも読者を引き込み、評価を高めるための小説作家戦略 ~The Royal Road of the Amateur Novelist~」で語ったように、コンテストを露出の場にしろという話と酷似しています。
相互に評価を与えあうことで、ランキングという露出機会を高めているわけです。
当然、プロ作家になれば……作家同士の繋がりという関係も無視できないでしょう。
率直な話、同レーベルの作家同士で相互に広告を出し合っていますよね?
これは、ある意味で当然の戦略です。
レーベルが同じであれば、応援自体がレーベルの広告になり、結果として自分の作品露出度が高まる、そういう理屈の上ですから。
小説創作界隈でも『身内』は、ある程度以上に……有利に働くでしょう。
この『身内』を作ることが必須と言えるレベルの、創作界隈すらありますからね?
■身内を作りすぎることの代償
メリットは既に挙げましたが、やはり私でも思いつく、そこそこ深刻なデメリットがあります。
それを幾つか例示していきましょう。
「身内同士の評価は、どうしても甘くなる」
自分の身内が、作品を投稿したとしましょう。
その時に、思ったままの評価をしますか?
私なら、そんな事はしませんね。甘めの評価を相手につけます。
……これは、相手もまた『あなたに甘めの評価をつける』ことを示唆しています。
そんな身内が増えすぎたら?
結果として、自分の作品に対する「本来の評価」というのが、見えなくなってくるでしょう。
「身内の作品を読むために、創作時間を割かなければならない」
これはケースバイケースでしょう。
純粋な「相互票」として互いを割り切っているなら、作品を読む時間を使わないかもしれません。
しかし、本当にそこまでドライな関係を築けるものでしょうか?
「私の作品、なんか評価が伸びないけど、つまらなかったのかな?」
などと相談してくる身内も当然いるでしょう、容易に想像がつきます。
この時に、問題点どころかストーリー展開すら把握していなかったら?
もはや、身内関係の決裂待ったなしでしょう。
そう、結果として……身内作品は読まざるを得ないのです。
「身内が本当に評価をしてくれているのか、という疑心暗鬼」
例えばですが、今まで身内が四人いて、必ず翌日には★5で40ptを得ていたとします。
これが、ある作品で突然38ptになったら?
「今まで★5評価を必ずつけてくれてたのに、今回★4をつけた人がいる!」
そういう思考になりませんか?
本来これは、身内による適正評価に近いものかもしれません。
身内のアカウントを知っていれば、誰が★4をつけたか……マイページを見て『犯人』を突き止めるかもしれませんね?
これも、結果が容易に想像がつきます。
身内コミュニティにおける、★4評価者の村八分くらいは起こるでしょう。
もしかしたら、単にスマホの手が滑ったまま、気づかなかっただけかもしれないのに、です。
この村八分事件でも起これば、互いに★4~★5評価を全員が失うにも関わらず、です。
村八分事件が起これば、身内を作ること自体に閉鎖的になるかもしれませんね?
下手をすると「他に身内を作るだけで、裏切り者扱い」すらあり得ます。
■身内とは、一種の同人誌界隈構造
この、身内構造は同人誌的と言わざるを得ません。
それも、文芸的同人誌の界隈に近いでしょう。
書いてるのが、小説だったり詩だったり、エッセイだったりですからね。
コミックとは違い、文章というのは読むだけで相応のカロリーを消費するものです。
そういう意味では、私の小説やエッセイを読むだけではなく、評価をしてくださった方には……この場を借りて、深い感謝を。
当然、読んでくださるだけでも大歓迎ですからね?
さて、ここで文芸的同人誌のノリだったら、どうでしょうか?
「読むのは当然、評価するのが当たり前、仲間だろう?」という――同調圧力すら想像できます。
これは一種の甘えとさえ思いますが、その甘えの根底には『承認欲求』が根深くあるように推測します。
そのメンタリティを赤裸々に想像するなら……こんな感じでしょう。
「俺に注目するのは当たり前だ、俺も全員を注目しているんだ!」
当然、同人誌サークルのノリで活動しているなら、それ自体は否定しません。
そこには必ず「甘い評価」「絶対に読んでくれる読者」がいるのですから。
しかし、このメンタリティでは、プロになるのは厳しいでしょう。
同人誌サークルのノリで活動して、商業デビューを成し遂げたら?
プロ作家ともなれば、売れる作品を作らなければなりません。
その中に、かつての同人誌サークルのノリで活動をする余裕など、おそらくないでしょう。
同様に、同人誌サークルのノリで活動を続けてる人たちもまた「あの人は商業作家だから」と、距離を置くことすら想像できます。
実際に、同人誌からのプロデビュー創作などで、このような描写を見たことはありませんか?
■承認欲求を持つこと自体は、決して悪くない
ここで「私が承認欲求を持つことを否定している」と誤解されたなら、それを解かせてください。
マズローの欲求五段階説における、承認欲求段階とは――生命などの安全を踏まえて、やっと到達しうる自然な欲求です。
そもそも、誰もが自己実現をできるなどという、胡散臭いことを言うつもりは毛頭ありません。
それ以前に、創作などという行為は、承認欲求が十分満たされてしまったなら、むしろ困難になり得るのではないか……そんな疑いさえ持っています。
「満腹になったから、食事はもういいです」という心境に近いのではないかと。
私が戒めているのは「安易な承認を得ること」です。
また同時に、安易な承認でいいと言うなら、止める気も全くありません。
その姿は、SNSにおいて「いいね」やリツイートなどを相互フォロワー同士で行う姿と重なります。
小説投稿サイトをSNSとして利用している、と解釈できますね。
行く末は、肥大化した承認欲求ではないか、とは危惧していますが。
私の考える、健全な承認欲求とは「まだまだ認められていない、だから認められたい」という姿です。
話は変わりますが、私が強く感銘を受けた『なろう作品』は、正直に言うと商業ラインは厳しい総合ポイントでした。
それでも、その先生……「負けてない」んですよ。
その作品を読んでから、私の視点が致命的に変わってしまいました。
凡百の『なろう作品』に、満足できなくなってしまったんですね。
それはきっと「一度高級寿司を食べたら、もうコンビニ寿司に満足できない」に近いです。
私は、それが小説執筆の原点です。
「俺はこういう作品が読みたいんだ!」という飢餓感から、作品を作っています。
だから、尊敬する先生の手法や、自分なりに考えた手法を『胡散臭い予備校講師風の創作論コース』としてCC0として公開しているんです。
必ずしも私が書かなくていい、この飢餓感をなんとかしてくれ……そんな切実な叫びです。
そのために、少しでも面白い作品を作って、評価を得て、同じ価値観を持つ同志を育て上げなければいけません。
もはや、評価ポイントやランキング、そのためのSNS告知すら飢餓感を埋めるための手段に過ぎない。
必要とされるならプロも辞さない――普通はプロになるために書くんでしょうけどね?
ある人に、こう評されたことがあります
「もりゃき先生の小説は贅沢欲張りフルコースなんだよな」
本当に恨めしい、俺自身はそのフルコースに満足できないまま、飢餓感を抱えているというのに……っ!
■おわりに
こんな飢餓感を抱えずに、身内で安穏と暮らすのは……きっと平和なのでしょう。
その根底が承認欲求であろうと、私が否定できるはず、ありませんよね。
ただ、そうして生まれた作品は、きっと私の飢餓感を全く満たしてくれない……そう確信してしまうのです。
私はここしばらく、エッセイを連発していましたが……そろそろ慣れてしまった頃ではありませんか?
そして、少しでも「他の作家のエッセイでは物足りない」と思ってしまったなら――ようこそ飢餓感の地獄、その入り口へ。




