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さる皇女の追憶

 時々、ふと考えることがある。


 お母様はどうして、私を産んだのだろうか。


 国王陛下に見初められ、平民の身分から皇の側室という地位を得たお母様。貧しい家に生まれたお母様は元々体が弱くて、私を身篭った頃には既に、流行り病に侵され、一日のほとんどを寝たきりで過ごしていたという。


 お母様は幸せだったのだろうか。


 富も地位も、健康な体でさえも、何も持たずに生まれてきたお母様。それでも強く生きて、遂には皇宮に住う権利すら手に入れたお母様。私の知らない場所で、知らない時間を生きていたお母様。私の命と引き換えに、死に召抱えられていったお母様。


 寂しいと思ったことはない。


 会ってみたいとも、思わない。


 それでも一つだけ、死者と言葉を交わすことができるなら。私はお母様にこう尋ねたい。


 どうして私を産んだのか、と。



『残念ながら、この子の人生はそう長いものにはならないでしょう』


 私の出産に立ち会った医者が、最後に言い残した言葉だ。私の体は、生まれながらにして呪われていた。


 お母様の体を蝕んでいた流行り病は、私にも伝染していたのだ。本当ならば、私は生後間も無くに命を失うはずだった。それでも一命をとりとめるために、国王陛下の意向で私は国家秘伝の霊薬を投与された。


 そうして私は生き延びた。高過ぎる代償を伴って。


 母は死に、私もまた、重い命の制約を課せられた。普通の人間と同じような生き方は望めないと。私の人生は、崖の上に張られた一本の綱の上を歩き続けるようなものだと。その最果ては、すぐ目の前に迫っているのだ、と。


 母親の命を糧として生まれてきた、哀れな赤子に告げられた未来。この道の先には、ただ死だけが大きな口を開けて、私を飲み込もうと待ち構えている。


 きっと、お母様はそこで待っているのだ。


 早く来い、とそう呼び立てられているような気がする。


 お母様が私に向けて残した綴り書きに初めて目を通したのは、まだ皇宮にいた頃のことだ。お姉さま達に少し遅れて字の読み書きを覚え、お母様の御付きの文官からそれを頂いた。


『私の愛しの娘、シルフィリディアへ』


 という書き出しから始まるその綴り書きは、初めの方はつらつらとお母様の生い立ちの話や、国王陛下との微笑ましい馴れ初めについての話などが、私を大切に思う言葉と共に記されていた。美しい話なのだろうな、と思った。籠の中に閉じ込められていた私にはよく分からなかったけれど。だから、途中に何が書いてあったかということは、あまり鮮明には思い出せないのだ。


 ただ、そんな中で、一つだけ。


 最後の段落に、付け加えるようにして書かれていた一文は、今でも忘れられない。その一語一語でさえも、確かに思い出すことができる。


 それが、今のこの私を形成してしまった、呪いの言葉でもあるからだ。


『この悲嘆溢れる動乱の時代、母の愛無くして生きていかなければいけないあなたは、私を許さないかもしれませんね。けれど、それでも構いません。どうか、母を恨んでください。いつの日か、あなたに母がいたことなど忘れてくださってもいい。ただ、それでも、どうかこんな母の僅かな心残りの、その一つだけでも聞き入れて下さるなら、シルフィリディア。幸せになってください。夢を見つけ、愛を見つけ、例え神無き時代が訪れることになろうとも、幸せに生きてください。たった一つ、それだけが、あなたをこの世に生み出した私の、身勝手でささやかな願いなのです』


 最後の文字は、消え入りそうなほどに弱々しかった。病の床の中で、お母様はきっと力を振り絞ってこれをしたためたのだろう。汗か、涙か、ところどころの文字が滲んでいたことも、よく覚えている。


 そうまでしてお母様は、私の幸福に縋ったのだ。未来のない自身の全てを私に託したのだ。死の際にさえ、同じことを願ったのかもしれない。



 だが、それは呪いだ。


 お母様がこの世に残した、私を縛り付ける呪いなのだ。


 だから私は、きっと幸せにならなければいけない。


 残された、ほんの僅かな時間の中で。


 でも、一体どうすれば幸せになれるのか、それは誰も教えてくれなかった。何が幸せなのか、私には分からなかった。


 腹違いのお姉さまも、皇宮の騎士も、世話係も、女官も、侍従も。誰もが病弱な私を腫れ物に触るかのように扱った。皇宮で私は、確かに孤独だった。実の父である国王陛下でさえ、執政に忙しく、滅多に顔を合わせることがなかった。


 だから私は、皇宮を出た。不自由で、窮屈で、こんな場所に、夢も愛も幸せも存在しないと思ったから。背を向けて、耳を塞いで、目を逸らして。表向きは病の療養と謳い、逃げ出すように辺境の地にまでやってきたのだ。


 お母様。どうしてあなたはこんな所にやってきたのですか。どうしてあなたは、こんな所で私をお産みになったのですか。どうしてあなたは、私に幸せになってほしかったのですか。


 お母様にとって私は、一体何だったのですか。


 分からない。ずっと分からない。


 夢とは何か、愛とはどこにあるのか、幸せになるとはどういうことか。あなたの言っていることが、何も分からない。


 どれほど豪華な食事も、煌びやかな邸宅も、麗しいドレスも。私にとっては空虚で、煩わしいばかり。そんなもの、いらないのに。私がそう言うと、誰もが困ったような顔をする。


 幸せじゃない。あれも違う、これも違う。どんなに探しても見つからない。


 もう、どこにもないのかもしれない。最初からそんなものは、御伽話の中にある幻想で、そもそも存在していないのかもしれない。ただ、力無い者が、明日無き者が、惨めに縋り付くためだけの、気休めの言葉なのかもしれない。



「姫さま!」


 そう。すっかり疲れ果てた私が、あの辺境の街にやってきて、諦めかけてしまっていた頃だった。


「……リアス!」


 あなたが私の前に現れたのは。


 私が振り返ると、リアスはすぐにこちらに駆け寄ってくる。その様子は、まるで尻尾を振って主人の元へと帰ってくる忠犬のように見えて、なんだか無性におかしかった。いつもはべったりとくっついてくる彼女が少し鬱陶しいくらいなのに、こんな時には私をとても安心させる。


 彼女の瞳は純粋で、とても透き通っている。何がそんなに嬉しいのか、私には分からないけれど。


「……姫さま? 私の顔に何かついていますか?」


 私が顔を綻ばせていると、リアスははてと首を傾げて聞いてきた。


「いいえ、そんなことないわ。ちょっとおかしくなっただけ」


「おかしく?」


「ええ。……それよりも、大丈夫だった? 国王陛下から一体何を言われたの?」


 リアスの表情からして、恐らく深刻なお話ではなかったらしい。案の定、彼女はすぐにぎこちなく笑いながら頷いた。


「はい。これからも姫さまの専従に励むようにと、激励されてしまいました」


「まあ。それじゃあ、国王陛下はあなたのことをお許しになってくださったの?」


「た、多分、そうだと思います」


 頭をかきながら、気恥ずかしそうにリアスが言う。


 私もその返事に安堵して、胸を撫で下ろした。それから、彼女の手を取って。


「そう。それなら良かった。あなたのことだから、少し心配していたの」


 ひんやりと冷たく、堅い掌だった。一見すると透き通って見えそうなほど白く、細く、美しいのに。その掌は、彼女の歩んできた苦難の道を示すかのように、傷と豆の跡に分厚く堅い皮が張っていて。私はその感触に、胸が締めつけられるように苦しくなるのだ。


「私も良かったです。嬉しいです」


 リアスは私の手を握り返しながら同調する。


「そうよね。危うく、不届き者としてお叱りを受けてもおかしくなかったものね」


 私が苦笑しながらそう言うと、リアスは大真面目な顔になって首を振った。


「いえ、そうではなく!」


「……え?」


「これからも姫さまのおそばにいられることが、この上なく嬉しくて。とても……とても、嬉しかったんです」


 真っ直ぐ、透き通った瞳で、彼女は語る。私を気後れさせるほどの純粋な声音で。


 この子は時々、こうやって私を困らせる。屈折した私の心を震わせる。


 私には、無理なのに。あなたの純粋さに応えられないのに。どうしていつも、そんなにも無垢な目で私を見つめてくれるのだろう。


 本当は少し、羨ましかった。


 私もこんな風に、心からの喜びを叫んでみたい。何かを手に入れて、嬉しいと感じてみたい。


「……本当にあなたは、口ばっかりお上手ね」


 今日もまた、私は彼女から目を逸らす。こんなにも真っ直ぐに私を見つめてくれる彼女の瞳から。


「ご、ごめんなさい。でも、本当に……!」


「はいはい、分かってるわ。いつもありがとう」


 私はそう答えて、リアスの手に、更にもう片方の自分の掌を重ねた。


「じゃあ、これからもよろしくお願いね、リアス」


「……」


 リアスはそこで一度、逡巡するように視線を落とす。まるで、何か後ろめたいことがあるかのように。


 そして、やや間を置いてから。


「は、はい。この身朽ち果てるまで、どうかおそばに」


 そう告げるリアスの表情は笑っていたけれど。やっぱりどこかぎこちなかった。


 そうだ。この表情だ。


 リアスはずっと、この表情なのだ。


 彼女は、私の前で、本当の笑顔を見せはしない。いつも、繕ったような、どこか辛そうな笑みばかりを見せる。あれほど透き通って見えた彼女の顔に、薄暗い影がさす。


 あなたはどうしてそんな顔をするの?


 私の前では、心から笑えないの?


 ……そう。きっと彼女は、私のそばにいることが辛いのだろう。本心を隠して、明るく振る舞って、本当の自分から目を背けて、無理やり私に仕えているのだ。


 私がリアスを縛り付けているのだ。私のわがままで彼女は辛い思いをしているのだ。傷ついているのだ。


 彼女の、痛ましいほどの切実な瞳を見れば分かる。私はリアスの本当の居場所ではない。まして、幸福などでは有り得ない。そんなことは分かりきっている。


 私がいる限り、彼女は自由にはなれないし、幸せにもなれない。


 それなのにリアスは何も語ってくれない。本当のことを話してはくれない。私といて何を思い、どう感じて、何がそんなにも苦しいのか。何も教えてくれはしない。


 ねえ、あなたは気付いているかしら。私とあなたの関係は、とても危ういものだって。


 触れ合うには遠く、けれど、もう一度はじめからやり直すには近すぎて。まるで今にも掌の中から溢れ落ちてしまいそう。


 瞬き一つで容易く変わる。囁き一つで脆く崩れる。


 今もまだ、私はあなたの本当を知ることが出来ないまま。それがどんなに切なくても、虚しくても。


「そうね。あなたの身が朽ち果てるまで、私に仕えてもらうわ」


 ……でも、仕方がないでしょう。


 だって何も分からないんだもの。


 私に残された、ほんの僅かな時間の中で。こんな関係が永遠に続かないことなんて分かっている。


 この先に待っているのが、例え確かな破滅だとしても。私たちの未来の先には、奈落の大穴が口を開けていたとしても。


 いつか、私かあなたか、どちらかが先に壊れてしまうまで。私はずっとあなたと一緒にいるわ。


 だって、あなたは。


「だから私を幸せにして、リアス」


 私の夢を叶えてくれる、最後の希望なのだから。

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