謁見の間ー3
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「そなたが今、シルフィリディアの騎士を務めているというのは真か?」
仰々しく息苦しい、無駄に煌びやかな玉座の前に私一人を立たせたまま、陛下はそう尋ねてきた。しかも彼の両脇には、今もアロセリアとラゴンが、まるで監督するかのような態度で佇んでいる。私が人見知りなことを差し置いても、すこぶる居心地が悪い。
「は、リアスと申します。僭越ながら、お言葉の通りでございます。今回の遠征につきましても、姫さま……いえ、シルフィリディア皇女殿下の御指名を賜り、専従の供として王都へと参りました」
「ふむ、そうか」
陛下は白い顎髭を撫でながら、何かを考えるように視線を上にやった。
「では、そなたが市井の出であるというのも?」
「……はい。間違いありません」
立場を考えれば、やはり苦しい質問ではあった。しかし、まさか国王陛下の手前、安い嘘をついて誤魔化すわけにもいかず、私は大人しくそれを肯定する。
というか、私の生い立ちを思えば「市井の出」などという表現ですら、大分都合よく脚色したものといっていい。きっと私の詳しい素性が知られてしまえば、私はすぐにでも皇宮を追い払われ、二度と姫さまの前に立つことすら許されないだろう。……どころか、最悪の場合はこの場で皇立騎士団に囲まれて串刺しの目に遭うかもしれない。
「そうか、そうか。なるほどな」
しかし、私の物騒な懸念とは裏腹に、陛下は落ち着いた様子で頷いた。そして、にわかには耳を疑うような発言をする。
「それは大任、ご苦労であった。これからもシルフィリディアのこと、どうかよろしく頼むぞ」
その瞬間、アロセリアの方がギョッとした顔で陛下に目を向けた。他方、ラゴンの方は、無礼なことに思わず吹き出している。
私が言うのも何だが、二人の、特にアロセリアの反応はとても理解できるものだった。何せ、今の陛下の言葉は到底、勝手に皇族の近衛騎士を名乗っている平民あがりの身元不明者に対してかけるようなものではないからだ。
少なくとも、もし私が国王陛下であったのならば、まさか私なんかを姫さまの側につけたりはしないだろう。いや、大分意味のわからない想定ではあるのだけれど。
「へ、陛下! ご無礼を承知ながら、お気は確かですか!? このようなどこの馬の骨とも分からない不埒者が、シルフィリディア様の騎士を名乗ることを許されると!?」
両手を広げて精一杯の抗弁をするアロセリア。陛下は年季を感じさせる皮の厚い腕を組んで、思いあぐねる様子で首を捻った。
「ふーむ、まあ、それはそうなのだが。しかし、聞いたところによると、あの子が自ら、この者を騎士として認めたのであろう?」
「それはそうですが! シルフィリディア様は成人を迎えられたとは言えまだ十五、そのような軽率な判断が理にかなっているとはとても思えません!」
「そうは言うが、アロセリアよ。ならばどうする? あの子は皇宮の騎士をつけることを酷く嫌うぞ? 一体これまで何人の騎士が手を焼かされてきたと思う?」
「はは、私もその一人ですがね」
脇で聞いていたラゴンが、痛快そうに口を挟む。アロセリアは、そんな朋輩を横目でキッと睨みつけると、ぐぬぬと歯軋りした。
「し、しかし……ですが、それとこれとはまた別の問題でして……」
「私はな。シルフィリディアが、そなたのような者を側に置く理由が分かるような気がするのだ」
未だに納得しきれない様子のアロセリアにも言い聞かせるようにして、陛下は私を見つめた。
「姫さまが私を……でございますか?」
「うむ。あの子は昔から、どこまでも自由を求める子だった。縛られることを嫌い、決められることを嫌う。そして、自分が何を必要としているかを理解している、とても賢い子だったのだ」
「自分が何を必要としているか……」
「そう。ある意味では……自分の欲動に対して、とても素直な子だと言える。故に、宮廷の騎士ではあれを持て余すのだよ」
陛下はそこで、少し困ったように苦笑した。それから「だからな」と前置きして、更にお言葉を紡いだ。
「シルフィリディアが……束縛を嫌う彼女が、それでもわざわざそなたを仕えさせる理由。……それは、あの子がそなたのことを必要としているからに違いないと、私はそう思う」
「必要……私が、ですか」
思わず言葉に詰まり、私は俯く。
姫さまが私のことを必要としている。……そんなこと、考えたこともなかった。
私は誰からも、必要とされない存在だったから。生まれてより烙印を押され、愛よりも遥かに深く憎を知った。呪いと苦痛、それに嘆きの悲鳴が、私を定義し、確立した。暗く深い闇の中だけが、唯一私の安息の地だった。その私が、誰かに存在を求められるなんて。
……それも、よりによってあの姫さまに?
あり得ない。
私はただ、己のエゴのために生きているだけだ。自分の生存欲求のためだけに、世界中の尊い願いを踏みにじって、汚らわしい体を姫さまに擦り付け、無様に生き延びているだけに過ぎない。それでいいと、世界を裏切ってでも生きてやると誓ったのだ。
何より、姫さまほどの存在が、私如きを求めるはずがない。あの方は気高く、強く、美しい。私などいなくても、幸せに生きて、素晴らしい一生を送るだろう。
そんな彼女を。
私が、汚しているのだ。ただ近くにいるだけでも、贖いきれぬ罪過だろう。言葉を交わすだけで、罪の意識に押し潰されそうになる。触れることなど、最早神に唾を吐きかけるような愚行だと自覚している。
しかし、それでも。
私は焦がれた。
望んだ。
希った。
全てをかなぐり捨ててでも、この衝動に忠実であることを選んだ。
どれほどの罪悪感が、私の心を蝕もうとも。姫さまの笑顔が、優しさが、怒った顔が、私を振り返る時の微かな動作が、どんなに私の胸をしくしくと痛ませようとも。
例え、この命が潰えてより永劫の時間を、地獄の業火に焼かれても構わない。最後の瞬間を、孤独と後悔の深淵に抱かれて迎えたとしても。
それらを代償に、たった一瞬、ほんの瞬きほどの時間。ただ、この身を姫さまの隣に置いて、安らぎを得ることができたなら。
他には何もいらない。この内なる欲求だけが、私を生かしてくれているのだから。
だから、残念ながら陛下のお言葉は誤りだ。
姫さまが私を必要としているのではない。そんなことは断じて、あり得ない。
私が姫さまを欺き、踏みにじり、蔑ろにして。呪われた身で彼女に取り入り、醜悪な笑みを向け、貶めているのだ。こんな私を、それでも抱きしめてくれたただ一人の相手への、許されざる背信によって。
その全てを理解してもなお。
私が彼女を必要としたから。
「……そのような勿体ないお言葉。光栄の極みにございます」
だが、私はただ、陛下に対して頭を下げる。
卑劣にも、狡猾にも。何も語らず、欺瞞に味を占める。
この場で、今すぐにでもアロセリアの主張の正当性を肯定し、全てを打ち明けて宮廷を去ることもできた。そうしてしまいたい、というもう一つの感情とのせめぎ合いさえあった。
しかし、結局のところ、どこまで行っても私は私だ。
今回もまた、私は自分を失望させる。心を殺し、理性を殺して。きっといつか、完全に壊れてしまうまで、この選択を省みることはないだろう。
「ほっほっほ、まあ、そう固くならずともよい。この国の皇を名乗ってはいても、私など所詮、愛する娘たちから父とさえ呼んでもらえぬ窮屈な身よ。シルフィリディアのように、ただ心置きなく、誰かと語らう自由を切望したこともあったが……」
私の気持ちも知らない陛下は、気さくな笑みを浮かべた。それを見て、アロセリアもやれやれ、と嘆息する。どうやら彼女の方も、折れてくれたらしい。
「娘たちにはできうる限り、思うまま、望むままにしてやりたいのだ。王として国を運べども、父として私があの子らにしてやれたことはあまりにも少ない。それを返してやれるほどの時間も……残念だがもう残ってはいない」
「陛下、そのような……」
アロセリアが口を挟もうとするが、陛下はそれを片手で制した。
「よい。自分のことだ、自分が一番よく分かっている。私の病は、大陸に流行る不治の病だ。レーネもこれによって死んだ」
レーネ様……姫さまのお母様。そしてまた、お父様である国王陛下も、その「不治の病」にかかっているのか。
「リアスといったな? そなたも先程聞いての通りだと思うが、今回の戦は避けられぬ。そして、メルキセドの建国以来の、長く苦しい戦いになることだろう。恐らく、私の人生最後の務めになる。例え歴代最悪の皇との汚名を受けようとも、私はこの国を守らねばならない」
「過酷なお役目であること、お察しします」
「……そうだな。だが、心残りはある。娘たちのことだ。あの子らはまだ若い。特にシルフィリディアは、私の他には皇宮に後ろ盾もなく、ともすれば立場も危ういものとなるかもしれぬ。だから、その時は……」
陛下は切実な瞳で、私に語りかけてくる。目の前にいる女が、何者であるのかも知らぬまま。
「あの子が心を開いたそなただけでも、どうか味方になってやってくれ。皇として、この国の王として、本当はこのようなことは言えぬのだが……これは父として、死を間近に控えた私の頼みだ。聞いてくれるか、リアスよ」
「……」
陛下の視線を受けて、私は一瞬、言葉に詰まった。
……が、すぐに取り直して、深々と再度低頭する。
「はっ! この身、この命に誓い、陛下のご期待に沿う所存です!」
それを見て、陛下は満足そうに、そして安心したように大きく息を吐いた。
一方、その背後に控えたアロセリアは、厳しい瞳で私を見据えて。
「よいか、騎士よ。貴様の不手際でシルフィリディア様の身に万が一のことでもあってみろ。私が真っ先に、貴様のそっ首を跳ね飛ばしに向かうからな」
「しかと、心に刻みます」
その必要はないだろうけどな、と私は心の中で付け加える。
当たり前だ。
ご丁寧に王国の騎士様が討ち倒したりせずとも、姫さまのいなくなった世界で私が生きていくなど、できるはずもないのだから。