さる皇女の追憶ー2
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「シルフィリディア様!」
私の視線に気がついた彼女……こと、二ヶ月前より侍従代わりの私の世話役を務めている騎士アロセリアは、剣を振る手を止めてこちらを振り向いた。額には僅かな汗が光を反射しており、エルフ族特有の美しい金髪が眩しく映る。宮廷騎士の身分を示す白の正装に、男物の赤いキュロット、黒い革のブーツといういつもの格好は、相変わらず彼女の白く滑らかな肌によく似合っていた。
アロセリアは私の姿を確認すると、翠玉のように美しい瞳を一度瞬かせてから、優しく微笑んで剣を鞘へとしまった。
「一体どうなされたのですか、そんなところで」
「……」
ここは皇宮の一階にある中庭だ。普段は宮仕が休憩所として使っており、時たま皇族が花を愛でるために出てくることもある。だが、もちろん私は、女官に捕まって別棟の自室へと連れ戻されるリスクを背負ってまで、一面に咲き誇る美しい草花を一人で眺めに来たわけではない。
「なにしてるの」
ボソリと、覇気のない声で私が尋ねた。壁際に身を隠すようにしながら発したその声が、果たして本当に相手に届いたかどうかでさえ不安になってくる。だが、幸いなことにアロセリアは、ゆっくりと頷いて私の問いに答えてくれた。
「剣の素振りです。体が鈍ってしまわぬよう」
「すぶり?」
「はい、素振りです」
時々目にしたことがある。宮廷騎士が、広間や訓練場で、これ見よがしに声を出して剣を振るっている姿を。相手もいないのに揃いも揃って何をやっているのかと不思議に思ったものだが、どうやらあれを素振りというらしい。
「なんでそんなことをしてるの」
「なんで、ですか……あっ!」
アロセリアは顎に手を当てて考え込んでから、そこで慌てた様子で。
「シルフィリディア様、もしかして何かお言いつけがありましたか? すみません、このような所で勝手に……」
「ううん、違うの。違うのよ」
時々不思議に思う。
なぜ皇宮の者はみな、このように慌てふためくのだろうか。何を焦ることがあるのだろうか。
いちいち色々なことを気にしてばかり。私のことがそんなに気がかりなのだろうか。
いや、あるいは私という存在は、触れ難いものなのだろう。母もいない、病弱な皇女である私は、周囲の人間にとっては厄介な存在であるらしい。
ただ、この前からやってきた二人の騎士だけは、少し違うような雰囲気を感じた。年齢にしてみれば、彼らはまだ少年と少女くらいの年頃であったし、片方は随分気さくな性格で、すぐに私のことを「シルフィ様」などと略称で呼んだりしてきたものだ。
そして、そんな彼を嗜めつつも、不器用ながら私のことを気にかけてくれているのが、もう一人の騎士、アロセリアだった。
当代の騎士見習いの中でも抜群の……いや、年齢を理由に今はまだ騎士見習いという身分に留まっているものの、その腕は既に宮廷の騎士の誰よりも上なのだとか。そんな彼女が、どういった理由か分からないが、私なんかの世話係を任命されたのだというから因果なものだ。
「では、おやつになさいますか? 料理ならラゴンの方に任せていますから、彼を探しましょう!」
「お腹も空いてないわ」
「お昼寝の時間でしょうか? 本を読んで差し上げます!」
「お昼寝なんて私いつもしてないでしょ」
「ははあ」
アロセリアは困ったように首を傾げる。なんだかおかしな仕草だ。宮廷騎士の間ではあれほど持て囃されている彼女が、皇女の世話役ともなるとこうも苦戦する。苦戦、というよりは、不慣れからくる空回りというべきか。
「あなたがよくここにいるって聞いたから。来てみただけ」
「私が……ですか?」
アロセリアはポカンと口を開けた。
「そう。ラゴンに聞いたら、そう言っていたから」
「そうですか」
彼女はそれを聞くと、肩を落として一つ嘆息した。それから、いつもラゴンにしてみせるように、腰に手を当てて。
「ですがシルフィリディア様。あなたはまだたった七つです。お一人で宮廷をお歩きになるのは危険すぎますよ」
出歩くな、歩き回るな、部屋の中にいろ。
もう何度も聞き飽きた言葉だ。
「あなた達はそればっかりね」
聞こえないくらいの小さな声で、そう零す。
誰も彼も、私を駕籠の中に閉じ込めていようとする。私の望みなんてまるで知らない顔。ただ、自分の言い分を押し付けてくるだけだ。
「……ですから、次からは私と一緒に外出することです」
「……え?」
私は、彼女の言葉を聞いて、思わず顔を上げた。
「いつでも、シルフィリディア様の望む時に仰ってください。そうすれば、私が責任を持ってあなたをご案内いたします」
「じゃあ、出歩いてもいいの?」
「もちろんです。どこまでもご一緒いたしますよ」
そう、それもまた、彼女だけだった。私の望みに、私の言い分に、しっかりと聞き入ってくれたのは。私を肯定してくれたのは、彼女の言葉だけだった。
もし見つかれば、アロセリアがお叱りを受けるかもしれない。そんなことだって、きっと分かっていただろうに。
「さあ、どういたしますか? お戻りになって、お部屋でゆっくりとなさいましょうか?」
「ううん……」
私は首を横に振ると、一歩彼女の元へ歩み寄った。
「あの……もう少し、ここに」
自信なさげに、相手の顔を伺いながらそう言ってみる。と、アロセリアはニコリと笑って、私の要望に応えた。
「ここがいいですか? ええ、もちろんそれでも構いませんとも」
彼女はその場に正座する。そして、自分の横を手で示して、私を招いた。
「どうぞ、シルフィリディア様もこちらへ。ここは陽の光もよく当たって心地いいですよ」
「え、ええ」
おどおどと、おっかなびっくりと、私は彼女の元へ歩いていく。そして、ぎこちない動作で隣に腰を下ろしたのだった。
何となく、アロセリアの顔を見上げてみる。彼女は空を見上げながら爽やかに笑っていた。
「いつも、ここでやっているの?」
「え?」
「すぶり」
「ああ」
アロセリアはそこで、腰にさした剣を見やってから頷く。
「そうですね。訓練場を使ってもよいのですが、あそこにはいつも誰かしら騎士の目がありますから。人前で剣を振る姿をあまり見せたくなくて」
彼女の美しい相貌に似合わぬ、無骨な苦笑い。それは暗に「私に見られることも憚られた」という意味合いがあるように感じられた。
「どうして?」
「研鑽は己を高める行為です。誰かの目につけることなく、一人黙々と自らに課さなければ……いえ、というより、簡単に言ってしまうと、人に見られるのが嫌なんです。自分が剣を振るっている姿を」
「そうなの?」
「はい。所詮、剣は人を傷つけるものですから。一心にそれを振るっている時、私は人殺しになろうとしている。そんな姿を見られたくはないですから」
「そう……」
なんだか、よく分からない。
騎士という人間は、それが使命ではないか。一体何を恥じることがあるのだろうか。
「でも。だからアロセリアは強いの?」
「強い?」
「そう。強いんでしょ? 宮廷で一番だって」
「ふーむ」
私の問いに、アロセリアは腕を組んで瞑目する。それから、また困ったような苦笑いを浮かべた。
「そう、ですね。剣の腕を磨くための日々の修練が実をむすんでいるのでしょう。……最も、宮廷騎士は少々私を買い被りすぎですが」
「買い被り?」
「はい。私の他にも、腕の立つ騎士はいますよ。この大国はとても広いですから」
「アロセリアより強いの?」
「手合わせをしたことがないのでそれは分かりませんが……。ほら、例えばあの男、ラゴンです」
「ラゴンも?」
「はい。あやつのことを讃えるのは些か気が進みませんが……あの男、すっとぼけた顔をしていながら、剣を抜けば鉄をも斬る腕前です。いえ、滅多に抜くことはないのですが……。そも、私と違ってラゴンの腕が話題に上がらないのも、人前で実力を発揮することがないからです。怠慢なのですよ、あやつは」
いつもながら思っていたのだが、アロセリアはラゴンのこととなると、普段よりも雄弁になる気がする。気のせいだと言われればその程度のものなのだが、彼を語る時のアロセリアには慎みがない。よく知っている朋輩の騎士のことだから、それだけ思いの丈が溜まっているということなのだろうか。普段は口を開けば喧嘩ばかり、もといアロセリアがラゴンのことを叱ってばかりのような気がするのだが。
「そう。二人とも、すごいのね。……でも」
しかし、そのことについてはひとまず置いて、私は感心してアロセリアの顔を見上げ、最も尋ねたかった疑問について口にした。
「一体どうして、あなたはそんなに頑張るの?」
「ふむ、なかなか難しい質問ですね、それは……」
私の質問に、アロセリアは戸惑ったように眉を下げる。無理もないことだ、騎士を志す者になぜ剣を振るのかと聞くなど、愚問にもほどがある。
そこに理由などいらないのかもしれない。
「こんな誰の目にもつかないところで一生懸命剣を振り続けて……そこまでして、何か叶えたいことがあるの? 夢があるの?」
それでも、私は教えて欲しかった。
ひたむきになる訳を。純粋に望むものを。脇目も振らずに盲信できる、たった一つの夢を。
「そうですね。夢……といえるほど大層なものかはわかりませんが」
アロセリアは、私の浅はかな質問に対しても真剣な表情で首を傾げた。
「この剣で、この身で、シルフィリディア様や国王陛下や……いえ、この国全てを護ること。それを私の生きる道だと思っています。強いて言うならば、そのために己を研鑽している、というところでしょうか」
「この国を護るために……それがあなたの夢?」
「夢というより、使命でしょうか。私には、そのような生き方しか見つけられませんでしたから」
アロセリアは、気恥ずかしそうに苦笑いをしている。でも、どうしてか私には、その表情がとても眩しいものに見えた。彼女が太陽の光を背に受けているから、なのだろうか。
私は、自分の生き方に対してそんなにも眩く話すことのできる彼女のことを、その時少しだけ羨ましく思った。
「そう。あなたにはあるのね」
「え?」
「ううん……でも、素敵ね。とっても立派だと思うわ、私」
「そうですか?」
「ええ。きっとあなたみたいな人が、必要とされているんだわ」
知った風な口調でマセたことを言ってみる。憧憬と、嫉妬とで拗れた感情を吐き捨てるように。私と言うのは、つくづく生意気な子供だ。
と、アロセリアの方は一瞬驚いた様子で目を丸め、それから優しく微笑すると、ゆっくりと私の体を両手で持ち上げた。
「え! な、なに?」
「シルフィリディア様、そうではありませんよ」
彼女はそのまま、自分の膝の上に私の体を乗せて抱き抱えた。この体勢からでは彼女の顔を見上げることができず、一体何事かと私は慌てふためく。そんな私を落ち着けるように、アロセリアはゆっくりと私の頭をさすった。
「本当に必要なのはあなた方です。私があなた方を必要とするが故に、ここにいるのですから」
「私たちが必要?」
「はい。我々騎士は所詮、振り下ろされる刃でしかありません。剣が自ら矛先を決めては人理に背きます。だからこそ、あなた方が我らの心として、その差配を行うのです」
「それはお父さまのお仕事でしょう?」
「然り。即ち、我らの守るべきものです。その中には勿論、シルフィリディア様も含まれているのですよ」
「私も?」
「はい。私は……いえ、私ごときがこのような事を申し上げるのもどうかと思いますが。……あなたのことをお護りしたい、と。そう思っていますから」
暖かい。彼女の腕の中は、中庭のひだまりよりももっと暖かかった。その腕の中に抱かれて、私はなんだかうとうととしてきてしまう。
「シルフィリディア様、あなたはとても聡明で優しいお方です。その歳で既に他者を慮る心をお持ちだ」
「そうめい・・・・ってなに?」
「頭が良い、ということです。端的に申し上げればですが」
「よく分からないわ。私って頭がいいの?」
誰かを思いやって生きてきたつもりはない。ただ、自分というものが怖かっただけ。誰にも理解されないのなら、それを求めなければいい。そう思っていただけだ。
ならば私は、やっぱり違うのではなかろうか。
難しい。言葉というのは、難しい。そうめい・・・・とは果たしてどういうことなのか。もうすぐ、お姉様たちに続いて読み書きを教わることができるようになれば、それもわかるのだろうか。
「そう思いますよ。剣を振るしか能のない私のような者から見れば、シルフィリディア様の持つ可能性はとても羨ましく映ります」
「可能性……私にもあるかしら」
「もちろんですとも」
囁くように、アロセリアが告げる。
「シルフィリディア様は生きるのです。これから先、五年も、十年も、いえ、それ以上に。そして多くを見て、聞いて、経験して、きっと立派に成長されることと思いますよ」
「……」
私は、生まれてより薄弱な身だ。大国一の医者でさえ匙を投げた、掠れかけの命だ。普通の人間の半分の人生、いやもしかしたらその半分さえも生きられないかもしれない。そういう命の宣告を、私は産声をあげた時から受けている。
そしてそんなことは、この宮廷では周知の事実だ。決して永らえることの叶わない、哀れな第七皇女の話。アロセリアの耳にも入っていないはずがない。
私が生きていける、だなどと。今まで、そんな無責任なセリフを言ってのけた者は一人としていなかった。誰もが私を哀れみこそすれ、その未来について話してくれることはなかった。当たり障りのない言葉と態度で、ひたすらに私をかわし続けるばかりだった。
そんな私にとって、彼女の余りにも無責任な言葉は、嬉しかった。空虚な慰めでも、薄っぺらい励ましでも、無慈悲な宣告でもない。彼女はどんな根拠に依ることもなく、自分の言葉で私に語りかけてくれたのだから。
初めて、もらえたような気がした。
「もしそうなら、いいな」
私は、彼女の腕の中で膝を抱えて、ぼんやりと呟く。すると、アロセリアが、そんな私を包み込むように身をかがめた。
「はい。ですから、そのためにも。私がお護りします。シルフィリディア様も、皇宮も、この国も。あなた方が暮らす全てを。自らの使命として、何に変えてでも」
「ええ、お願いね、アロセリア……」
ぽかぽかと暖かい彼女の温度を全身に感じて、私は微睡みながら彼女の言葉に返事をする。そのまま一度目を閉じると、すうっと意識が溶け出した。
不思議な安心感と居心地の良さに身を委ねながら、私は彼女の腕の中で眠りに落ちてしまったのだ。クスリ、と。私を見下ろすアロセリアが静かに笑った声を、最後に耳にした気がした。




