蠢く闇ー3
早い……というよりも、捉え難い。まるで、意識の間隙を縫うかのように、何とも察知し難い挙動だ。決して警戒を怠っていたわけではないのに、私は敵に懐への接近を許してしまった。
私は咄嗟に、斜め上方から振り下ろされるヴォイドの腕を、上半身を反らせて無理やりに回避した。そこから続けて、お返しとばかりに片手で剣を振り払う。後ろへ飛び退いてかわそうとするヴォイドの袖口を、魔剣オルドビスの切っ先が僅かに掠めた。
ヴォイドは数歩後ずさって体勢を整えると、切れた袖口と、その下から覗く小さな切り傷へと顔を向けた。
「傷……やはり君は、私の実態に触れられるのか」
「何?」
意味の分からない相手の言葉に、私は眉を潜める。
さっきから、奴の言葉はどうにも要領を得ない。たどたどしく、おぼつかず、理解し難い。言葉は通じているのに、まるで話が通じていないかのようだ。
「君は興味深いな。まさかこんな所で見つかるとは」
ヴォイドは襟元を正すと、そっと傷口を撫でる。すると、瞬時に切れた薄皮が塞がり、続けて裂けた袖口までもが元どおりに繋がった。
魔法の類だろうか。いずれにしろ、何らかの小細工を使えることは間違いないらしい。そも、小細工というのなら、こいつの存在そのものが何かの悪ふざけのようなものだが。
「本当はさっさと帰るつもりだったが……。もう少し試そう、これはまたとない機会だ」
ヴォイドは独りで勝手にそんなことを呟くと、不意に私に向かって手を差し向けた。
その挙動を目にして、私も剣を構え、意識を集中させる。次は決して、相手を間合いに立ち入らせないように。
「『ラヴ』」
しかし。
またしても私は、予期せぬ事態に直面する。
ヴォイドが短く言葉を発した途端、私の体は彼に向かって吸い寄せられたのだ。
「なっ!」
逆らい難い引力によって、私はヴォイドの手元にまで引き寄せられる。身に纏うライトメイルが、奴の指先に触れようかという瞬間。
「くっ……ふん!」
私は大きく身をよじり、考えるよりも前に魔剣をヴォイドの首元に向かって振り払った。
原理について勘ぐるのは後だ。結果的に私と相手の距離が近づいたということは、奴もまた、私の間合いに入ったということ。
「『フィアー』」
だが、私の剣撃がヴォイドに届くことはなかった。
その一太刀は、ヴォイドの眼前で、まるで不可視の障壁に阻まれたかのように、突然何もない空間で静止してしまう。
「なにっ!?」
「『レイジ』」
私が戸惑いの声を上げるのとほぼ同時に、ヴォイドが私の脇腹を目掛けて回し蹴りを放った。
「がはっ!」
風を切る音だけが聞こえ、避ける間も無く重い衝撃が全身を伝う。大した溜めさえない状態から放たれたとは思えないほどの、臓腑をえぐるような一撃。誇張表現を抜きにして、一瞬意識が飛びかけたほどだ。
その勢いのまま私の体は斜めに吹き飛び、脇の石壁に激突する。壁全体に亀裂が走り、砕けた破片が辺りに崩れ落ちた。
軽く脳震盪を起こしたのか、頭がぐらぐらと揺れている。視界が霞み、口の中に血の味が滲んだ。蹴られた脇腹が鈍く痛む。幸い、肋を砕かれることはなかったようだが、それでももしかしたら、ヒビくらいは入っているかもしれない。
壁に立てた片手を支えにして、私は体勢を立て直した。剣の柄を握り、正眼に構える。
身体中の痛み。本能が告げる警鐘。身の毛もよだつような確かな危険。
……ああ、心地よい。久しく遠ざかっていた感覚に、今日は二度も浸ることができるなんて。
もっと、もっとだ。
この私に、相応しい……。
「『影の奔流』」
私はオルドビスを掲げると、闇の瘴気を解放し、剣身へと纏わせる。螺旋を描く闇の束が、幾つも現れて魔剣の周囲に収束した。
「ふむ、やはりその力は……」
「はあっ!」
御託を並べようとするヴォイドに取り合うことなく、私は一気に駆け出した。
寸分の内に間合いを詰め、剣を横薙ぎに払う。瘴気を纏った剣には、いかなる防御も無効。それどころか、たった一つのかすり傷でさえ、瞬時に肉を腐りただらせ、全身を侵す致命の一撃にすることができる。
そう、正しく必殺の一振りなのだ。
「『サドネス』」
「……!」
だが、またしても。私の攻撃は阻まれる。
突如として全身を襲う脱力感。見えない何かが重くのしかかっているような奇妙な感覚に、体の自由が効かなくなる。
顔を上げ、もう一度剣を構えようとする私だったが、すぐに耐え切れず膝をついてしまう。
一体どうしてしまったというのか。
動け、動け!
「私と同じだな。いや、しかし人間である君が使えば、同じではない、か」
そんな私を涼しげに見下ろす姿勢を取って、ヴォイドは意味の分からない言葉を独り言ちる。
「実に興味深い。君はとても良い材料になりそうだな。こうして出会えた幸運に感謝すべきかな」
「くそ! なんで……!」
私は、全身にのしかかる正体不明の力に抵抗しようとする。だが、その力による拘束は想像以上に強力で、簡単には振り払えそうにない。
……いや、この際、それについてはいい。今しも私にのしかかる不可視の力がいかに厄介なものであろうとも。どんな魔法や、奇跡によってもたらされたものであろうとも。
それは私にとって問題にならないはずなのだ。瘴気を宿し、操る私には、魔法も奇跡も祝福も意味をなさない。例え神の神秘であろうとも、私のことを存在しないものとして、見向きもしない。私はあらゆる奇跡に否定された、呪いの子なのだから。
それなのに、何故。
「不思議かな。何故私の力が君に通じるのか」
「……っ!」
まるで心の中を読んだかのように、ヴォイドは私の思考を見透かした。そして、私の反応を見てすぐに、それが図星であるということにも察しが及んだようだ。
「君と私の持つ力は同質のものだ。世界を腐らせる闇の力、あらゆる奇跡の否定。ゆえに、私たちは理を共有する。年老い、枯れ果てる時の流れが君にも有効なように、根源を同じくする力は作用し合うのさ。君が私に傷をつけられるのも、正しくそれが理由なのだがね」
ヴォイドはご丁寧な能書きをくれると、膝をついて見上げる私に向かって、ゆっくりと右手を伸ばす。
「さて、私が君に触れればどうなるかな。触れれば枯れて、掴めば腐る。この力で君がどうなるのか、少し試してみるとしよう」
まずい。
直感的に私は感じた。
奴の掌に触れてはいけない。とても危険な匂いがするのだ。これまでに培ってきた鋭利な生存本能が、けたたましく警鐘を鳴らしている。
だが、それでも。私の体は意思に反して、自由に動いてくれようとはしない。どんなに必死に抗おうとしても、力なく垂れた両腕は、まるで頭の支配を離れたかのように微動だにしなかった。
「……くっ!」
ダメだ、もうその指先がすぐそこまで……。
私が観念して目を閉じようとした時。
「リアス! 動きなさい! 私のために、こんな所で諦めてはいけない!」
私の耳に、どこまでも響き渡るような、強く透き通った声が聞こえてきた。
例え、群衆の雑踏の中にいたとしても、それを聞き逃すことはなかっただろう。
それほど強烈に、激烈に、彼女の……姫さまの声は私を叱咤した。
「うおおおおお!!」
私は、自身を奮い立たせるように咆哮をあげる。心の迷いを振り切り、ただ直向きに、純粋に、彼女の言葉に答えるために。
すると、なんとあれほどまでに脱力していた私の体に、自由が戻ったのだった。
「はあっ!!」
私は即座に力を込め、迫り来るヴォイドの腕を魔剣で斬り上げた。次の瞬間、黒い残像を引きずる軌跡と共に、その腕が飛んだ。
「ぐぬっ!」
ヴォイドが声をあげ、切断された腕の斬り口を抑える。断面からは血のような黒い液体が勢いよく吹き出していた。
遅れて、宙を舞った腕の先が地面に落ちる。
ヴォイドはそちらに顔を向けた後、焦った様子で後退り、私から距離を取ろうとした。
「ぐぅ……まさか、心の束縛に抗ったのか。……いや、それよりもむしろ……」
ヴォイドは明らかに動揺していた。私はこの機を逃すまいと、問答無用で一歩を踏み出し、間合いを詰める。最早一切の容赦も躊躇もなく、鋭く的確に剣を振りかぶり、相手の急所を狙って斬撃を放った。
対して、ヴォイドも残る左手を私に向けて構える。その様子では何かまた、新たな術を使おうとしているようだ。
「くっ! やむを得ないが、此度はここまでとしよう」
黒いエネルギーがヴォイドの左腕に、目に見えるほどに集束し、渦を巻いていく。それは明らかに、何か強力な力を行使する前触れだった。
それがどんなものかは分からないが、恐らく、まともに食らえば私もただでは済まない代物だろう。莫大な力の奔流を目にすれば嫌でもわかる。だが、今はそんなことはどうでもいい。私がどうなろうとも構わない。
目の前の敵を倒せ。脅威を排除しろ。
ただ、全てはあの方の為に。その為に私は、この瞬間を動いていられるのだから。
「つあっ!!」
しかし、ヴォイドの顕現させたエネルギーが、正に私と衝突しようとした時。
雄叫びと共に、突然何者かが傍から踏み込んできてヴォイドの頭部を斬り払った。
「……っ!」
その一撃によって、ヴォイドはかすり傷の一つさえ負った様子はない。だが、それでも、確かに一瞬。ヴォイドの意識が逸れ、そちらへと向いた。
立っていたのはガルタスだった。大剣を振り切り、息を荒げてヴォイドを睨みつけている。
一瞬だった。その一瞬、敵の動きが遅れた隙に、私は渾身の力を込めて、魔剣を薙ぎ払った。
「ふんっ!!」
肉を断つ確かな手応え。魔剣オルドビスが、ヴォイドの構えた左腕ごと、その首を斬り払う。奴の顔に表情こそなかったが、それでも、ヴォイドは驚愕しているようだった。
「馬鹿……な……」
掠れかけた言葉を残して、ヴォイドは地面へと倒れ落ちた。
「助かりました……感謝いたします」
正体不明の敵を確かに斬り倒したことを確認した私は、すぐに魔剣を鞘へと収めながら、ガルタスに向かって頭を下げた。彼の助太刀は完璧なタイミングだった。先の一振りがなければ、相手の反撃を喰らい、私もどうなっていたか分からない。
例え効かないとしても、それを踏まえた上での見事な陽動。戦闘心理と実技に精通していなければ、あれだけの芸当は披露できないだろう。
「いや、むしろ助けられたのはこちらの方だ。私の剣は奴には全く通用しなかった。捕らえることこそ出来なかったとはいえ、対処できたのは貴殿のお陰だ」
ガルタスの方は首を振って謙遜すると、眉を潜めて自身の持つ大剣に目をやった。釣られて見れば、鏡の如く磨き上げられ研ぎ澄まされた見事な剣身の一部が、まるで錆び付いたかのように黒く染まって腐食している。更にそこから、ボロボロと破片が崩れ落ち、腐食部は今も少しずつ広がっているようだった。
「奴を斬ったせいか。剣を腐らせるとは、この者は一体……」
「魔神ですよ」
突如、ガルタスの独白に応えるかの如く、意識の外から新たな声が響き渡る。
「何者だ!!」
私は、たった今鞘へと収めたオルドビスの柄へと再び手を触れて、周囲に大喝した。次から次へと、まだこの場には招かれざる客がいるというのか。
「おやおや、親切に教えてさしあげれば、何とも荒々しいお返事だ。怖いですねぇ」
人をおちょくるような飄々とした物言いと共に、闇と入り混じったような床の影が、一度大きくうねった。そして、ゆっくりと膨張したかと思うと、やがてそこから三人の人影が忽然と姿を現した。




