蠢く闇ー2
「消えた……のか」
なんとも呆気ない幕切れに、思わず私はガルタスと目を合わせてしまう。それから息をついて、ゆっくりとひとまずの警戒体制を解こうとした。
「ほう、これはこれは……」
しかし、唖然とする私たちをすぐに現実へと引き戻すように、暗闇の中から突如としてそんな声が響いてくる。
「何者だ!」
気の休まらない状況にも戸惑うことなく、ガルタスが即座に反応して叱声を飛ばした。廊下の向こうの暗闇に厳しい視線をくれながら、警戒を緩めない。
「何者か、と聞いたかな」
彼の言葉に応えるように、暗闇の中からゆっくりと、一つの影が進み出てきた。ずっとそこに潜んでいたのだろうか、あるいは今、現れたのか。見覚えのないスラリとした黒いシルエットが、廊下の先に立っている。
妙だ。相手からは気配のようなものが全くしない。今、すぐそこにいるにしては、あまりにも存在感が希薄なのだ。
「そう問われれば、私は何者でもない。強いて言うのなら、それを探している、と言うべきか」
「なに……?」
訳の分からないことを言う正体不明の相手に対して、ガルタスは怪訝そうに眉を潜める。対して、影は淡々と、起伏の乏しい声色で続けた。
「私は無価値なる者。呼び名が欲しいのならば、『無価値な者』。そう呼ぶといい」
「ヴォイド、だと? 貴様は自分が虚構だとでも言いたいのか」
「言いたいのではない、そうとしか言えないのだ」
低い声でそう告げながら、相手の顔が闇の向こうから現れる。
「……な!?」
「……!?」
だが、そこにはなにもなかった。目も、耳も、鼻も口も。本来人の顔を構成するべきパーツがなにもついていないのだ。ただ、黒い頭髪を生やした真っ白な面のような頭部があるのみだ。それでは彼(あるいは彼女)は、一体どのようにして喋っているのか、いや、それ以前に……。
「貴様、その顔は……」
「名は体を表す、と言うだろう。ならば逆も然り、この顔は私の本質だ。そう、虚無なのだよ。なにもないのだ」
「そのような言葉遊びが通じるか! 一体何のつもりだ、道化がぁ!」
「道化、か。願わくば私もそうありたいものだな。この舞台を賑わせる、愉快な道化役者になれると言うのなら、光栄極まりない。……だが」
刹那、溢れ出る殺気。
否。それは殺気と呼ぶことさえ憚られる、あまりにも冷たく純粋な空気。目を刺し、喉を打ち、肺を凍てつかせるほどの冷気。敵意ではない、恐らく殺意すらもない。それでも、私は確かに、この総身で身の危険を感じ取った。
たった今まで、大気に溶け込んでいるのかと思うほど希薄だったその存在感が、一気に実態を帯びて私たちに向けられる。
「私には別に、やるべきことがあってね」
まるで、存在そのものを無へと帰せられるかのような、絶対的な不安。総身に訴えかける抗いようのない恐怖が全身を包み込む。
何だ、この気配は。この私でさえ、今まで感じたことのないような、異次元のものだ。どうして、このようなものがこの場に……。
「ひ、姫さま……」
「リアス!」
姫さまが、私の掠れた呼び声に答えて、即座に駆け寄ってくる。私と違い、彼女は臆することのない様子でこちらを力強く見つめた。そして、そっと私の肩へと手を置いてくる。
「まさか、怯えているの……? あなたが?」
「い、いえ、ただ……」
彼女の掌の温もりが、徐々に私の緊張を解かしていく。凍てついた体を溶かしていく。
安堵の息を吐きながら、私は本能的に感じ取った相手の印象を姫さまへ伝えた。
「あれは間違いなく、危険な存在です」
そんな私たちの警戒になどまるで無頓着に、ヴォイドと名乗った者は超然と一歩を踏み出した。それに伴って闇に包まれていた姿が露わになる。影のように掴み所のないイメージとは対照的に、ヴォイドは上下とも、真っ白なスーツを身に纏っていた。加えて、白手袋に白ブーツ、白ネクタイと、紳士然としたその身なりは驚くほどに白一色である。その神経質とさえ感じられるほどの統一感が、より一層ヴォイドの不気味さを際立たせていた。
と、相手の動向に対して、ガルタスが過敏に反応し、行手を塞ぐ。
「何のつもりだ! それ以上動くことは許さん!」
「研究の成果を確かめに来た。どうやらあまり思わしくはなかったようだが……」
「はああっ!!」
言下に、ガルタスが大剣を大きく振りかぶった。ただ一度の警告を無視した正体不明の相手に対して、容赦なく斬りかかったのだ。一切の迷いのない判断だった。
彼の渾身の一太刀は、見事にヴォイドを肩口から斜めに両断した。
……かに見えた。
「……なに!?」
しかし、実際にはヴォイドは、依然として剣を振り切った彼の前に、無傷のまま立っていた。確かにその大剣の描く軌道が、奴の痩躯を捉えたはずだ。だというのに、ヴォイドはまるで何もなかったかのように、再び歩き出す。
「無駄だ。私を斬ったところで意味はない。空を斬り、風を斬ったところで無意味であることと同じようにな」
そう告げながら、ヴォイドは正しく、風が通り過ぎるかのように悠々と、硬直するガルタスのすぐ横を通り過ぎたのだ。そのまま、下半身のみとなったダイアンの亡骸の元にまで歩み寄っていく。
そして、覗き込むように身をかがめると。
「ふむ。やはり形象を留めることができなかったか。あるいは容れ物を用意してやれば上手くいくかとも思ったが……そう簡単にはいかんものだな」
独りごちるように、意味深にヴォイドは呟く。
続けて、そばに倒れ、気を失っているマルスの方へと顔を向ける。
「だが、やはり一番の収穫はこちらか。思いもよらない副産物だったが、丁度いい。ここで回収するとしよう」
そう言って、ヴォイドはゆっくりと彼に手を伸ばした。
その光景を見た瞬間、私の脳裏に、先ほどまでのマルスの姿が過ぎる。彼の言葉と、表情と、振る舞いが。
「姫さま、すみません」
「……え?」
無意識に、私はマルスの元へと動き出していた。
本当にとっさのことで、一体どうしてそのような行動に出たのか、自分でもよく分からない。ただ、見過ごせなかったのだ。
彼は私の敵で、私に刃を向け、あまつさえ突きつけた存在だというのに。あろうことか姫さまの身柄を狙った不届き者の一派の一人だというのに。
助けることに、何か意味があるとも思えないのに。
それでも、もしかしたら……これはとても愚かな憶測ではあるのだが。
私は彼を守ろうとしたのかもしれない。
救おうと、したのかもしれない。
「んん?」
気がつけば、私は腰にさした魔剣オルドビスを抜き放ち、ヴォイドへと突きつけていた。マルスを庇うように立ちはだかりながら。
「ほう……」
ギラリと黒い輝きを放つオルドビスの剣身を目にして、ヴォイドは表情のない顔をこちらに向けた。その様子はどこか、不思議な物を見つめるかのようであった。
ヴォイドの無貌に真正面から相対し、私はつい尻込みしてしまう。得体の知れない恐怖に体が硬直していた。その不気味な容姿だけではない。何か、私の根源的な畏怖を掻き立てるものがあるのだ。
「君は……」
「その子供に触れるな。彼はこの事件の重要参考人として我々が身柄を確保する」
「子供……」
ヴォイドが再び、マルスへと顔を向ける。それから、腹立たしいほど落ち着いた声で、静かに呟いた。
「彼は私のものだ」
「何……? では、この事件の首謀者も、やはりお前か?」
「ふむ……」
ヴォイドはそこで、何を思ったかマルスへと伸ばしていた手を戻すと、一歩後ずさった。腕を組んで何か考えている様子だが、どうやら私の質問に答えるつもりはないらしい。
そんなヴォイドに対して、私は尚も続けて問い詰める。
「何のまやかしか知らないが、顔を見せないとは臆病者め! 正体を明かしたらどうだ!」
虚勢を奮い立たせるように声を張る。だが、あいも変わらずヴォイドの方には、目立った反応は見られない。
「正体か。私もそれを探しているのだがね」
ポツリと。
まるで他人事かのように、無関心にそう言い放つと。
「……っ!」
ヴォイドは一瞬の内に踏み込み、私に向かって腕を振りかぶってきた。




