宴の夜にー2
「この国は好きかい?」
アリスが、開口一番に私に投げかけてきたのは、そんな質問だった。
彼女は私を後に従えると、宴の席を離れて広間の大きな窓際へとやってきた。そこで、片手に持ったグラスを揺らしながら、私に背を向けている。
「国……ですか」
私は、なんと答えたものか分からず、言葉に詰まった。
「まだ、この国のことはよくわかりません。メルキセドにやってきたのも、つい三年前のことですので」
「……」
アリスは無言のまま振り向くと、窓に背中を預けてグラスの酒に口をつける。そして、指し込む月光を背に受けながら、軽く微笑んだ。
「ふふ、そうか。ま、無理もないことだな。この国の歴史はとても長いものだしねぇ」
彼女はそのまま、目を細めて天井を見上げる。
「だけどね。僕は好きだよ、この国が。ずっとここで生きてきたからね。雪溶けの春も、大雪の冬も、幾度となく見てきた」
愛おしむような声色の彼女になんと返していいか分からず、私はただ頷くのみだ。そんな私に視線を移して、アリスは更に尋ねる。
「少し質問を変えよう。君はなぜ、シルフィリディア様の騎士を務めている?」
「なぜ……ですか」
無理もないことだが、少々聞き飽きたような質問だ。私のような不埒者が姫さまの近衛を務めることに関して、誰だって問いただしたくなるものだろう。
「それは……姫さまが命じられたからです」
「ふーむ、それが理由かい?」
「はい。それ以外にはありえません」
私がきっぱりと答えると、アリスは顎に手を当てて首を傾げた。
「そうか。しかし、不思議だね」
「不思議?」
アリスの言葉に、私は眉を潜める。
「ああ、不思議だよ。この国に来て三年……君はメルキセドのことはまだ分からないと言う。……だが、たったそれだけの期間で、君はどうしてそんな盲目的な理由でシルフィリディア様に従うことを決めたのかな」
「……」
「君はあの方の一体何を分かる? 何を理解している? いや、何も理解していないのかな? それでは一体、何をされたらそうなれるんだろうね?」
探るような瞳で、彼女は私に顔を寄せてきた。その声が、不気味に耳の中で木霊する。
「心臓を掴まれたか、骨を抜かれたか。君とシルフィリディア様の間に、果たして何があるというのかな。教えてくれないか? 一体君は何なんだい?」
正体不明の圧力。
アリス・テンバートという女から発せられるプレッシャーに気圧されて、私は一歩後ずさった。しかし、すぐに眉間にシワを寄せ、首を振って我に帰ると、彼女のことを手で制する。
「やめてください。そのように勘ぐるようなことを言うのは。私は姫さまに忠誠を決めている、それは何のためでもありません。……いえ、強いて言うならば、自分のためです」
間違いのないことだ。
あの日、あの時、姫さまが私を助けてくれた。そして、その姫さまが私に、そばにいてほしいと言ってくださった。
それだけで充分なのだ。それ以外に必要ないのだ。いや、充分以上、必要以上ですらある。ただそれだけで、私はあの方に命を懸けることだってできる。
それだけは、唯一間違いのない、確かなことだ。
私が怪訝そうに見つめると、アリスは慌てて身を引き、おどけたような態度で両手をあげる。
「おっと、失礼。少し無粋な質問が過ぎたかな、悪かったね。君が宮廷ではなかなか見ないような、あまりにも純粋な瞳をしていたものだから、ついからかいたくなってしまったんだ」
ただね、と彼女はそれから更に話を続けた。
「とにかく僕は、この国が好きなんだよ。君がシルフィリディア様に誓う忠節と同じくらい、僕はこの国に対して愛を抱いている。だから、この国を貶めようとする者が許せない」
「貶めようとする者、ですか?」
強い信念の籠もったアリスの眼差しを受けて、私は問い返す。アリスは神妙な面持ちで頷き。
「ああ、そうさ。君も見ただろう。謁見の間に入る時、入れ違いに出てきた怪しげな集団を」
「ああ、あれ……」
言われて、私はあの時のことを想起した。
確かに、皇宮には相応しくないような、陰険さを漂わせた集団が間から退出してきたのを、私達は目撃している。あれは一体何者だったのだろうか。
私のそんな疑問に答えるように、アリスは言った。
「恐らくあれは「戦争屋」だ」
「戦争屋……? 聞いたことがあります。確か各国に武器を売り捌いて稼ぎを得ている闇の商人達。この大戦の動乱を利用して、巨大な利益を得ているとか……」
「そうだ。人々の血の上に築かれる争いを是とし、あまつさえそれを利用して甘い蜜を啜ろうなどと企てる卑劣な輩だよ。彼奴らはそのために、国々の戦争を焚きつけることも厭わない」
私はそこで、ハッと目を見開いた。
「戦争を、ですか」
「君も気づいたかい? 国王陛下が告げた、唐突な戦の報せ。しかし、いくら大国ログレインズが動いたにしても、余りにも事態が早急すぎる。まるで何者かに唆されたかのようだ」
「何者かに……。それってもしかして?」
私が問うと、アリスも静かに首を縦に振る。
「まだ、確証はないけどね。だが、偶然と呼ぶには、これらの一致は余りにも不穏すぎる。この国を、そして陛下を謀る不遜な連中が存在して、何かいらぬ息を吹きかけていることはほぼ間違いない。僕にはそれが許せないんだよ」
眉間にシワをよせ、拳を握りしめるアリス。
私は一度俯き、視線を伏せた後、ふと気になったことを聞いた。
「それは分かりましたが……しかし、何故私にそのようなことを? 私は皇立騎士団にさえ所属していない、宮廷の埒外者ですが……」
私がそう言うと、アリスはニィッと妖しく唇の端を吊り上げた。それから、滑るようにずいっと身を寄せてきて、囁きほどの声量で告げる。
「だからこそ、だよ。今、国の息のかかった者であれば、どこに不届き者の手合いが紛れ込んでいるか分からない。むしろ、君のような新進気鋭に話しておきたかった」
「なるほど」
「なに、君に協力を強要しているわけじゃないよ。そこは安心して欲しい」
彼女のその言葉を聞いて、私はついつい露骨に安堵の息を吐いてしまう。それから慌てて居住まいを正し、背筋を伸ばした。
「あ、し、失礼しました。ですが、もし助力を請われたとしても、私ではご期待に沿うのは難しかったでしょう」
「ほう、それはどうして?」
アリスが不思議そうに首を傾げる。
「私には、姫さまを守り、姫さまに幸福を届けるという使命があります。私にとって、姫さまは国より大切な存在ですから。例え御国のためであろうと、この任に優先するわけには参りません」
胸に手を当てて私がそう告げると、アリスは少し驚いたように目を丸めた。しかし、すぐにまた愉快そうな笑みを浮かべて私を見つめてくる。
「そうか、なるほど。それはとても大切な任務だ。だが……」
窓際に肘をつきながら、アリスは再び酒の入ったグラスに口をつけた。そして艶やかな唇を湿らすと、悪戯に口元を歪めながら言葉を紡いだ。
「果たして、国のために動くことと、シルフィリディア様に献身することは、必ずしも相反することではないのではないかい?」
「……というと?」
「なに、簡単なことだよ。つまり君は、シルフィリディア様の利益になる範囲で、国のために働けばいい。それは即ち、あの方に幸福を捧げることにもなるだろう?」
諭すように、アリスはそんなことを言ってくる。
私は、言葉の意味は理解していたものの、すぐには納得せずに腕を組んだ。すると、アリスの方も、補足の必要性を感じ取ったのか、更に続けた。
「いやね、これは別にこの話に限ったことではない。例えば此度の「燃える海の国」との戦について言えばどうかな?」
「此度の戦について、つまり……」
「シルフィリディア様はこの国の辺境、「樹氷の街」の領主であらせられる。で、あるならば必然的に、かの国との戦においては前線に携わる可能性が高い。……だが、この時、戦場を離れて撤退するか、あるいは敵軍を迎え撃ち、戦果を上げるか」
「……」
つまり、アリスは私に、姫さまの剣として戦えと、そう言っているのだろう。
いや、そんなことはわざわざ言われるまでもないことだ。現に私は、三年前より既に、「樹氷の街」の駐留軍を指揮して、隣国との小競り合いを含めた小さな紛争を経験してきた。
……けれど、今回はこれまでのこととは些か以上に話が変わってくる。だからこそ、彼女も改めて、そのことを告げてきたのだろう。
「私に、ログレインズとの戦争に参加しろと、そう言われるのですね」
私が要約して聞き返すと、アリスはしらを切るように肩をすくめた。
「別に。ただ、君の働き如何で、皇宮内でのシルフィリディア様の評価は大きく変わってくるだろう。……うん、それは間違いない。何せ、次期皇位継承のこともあるからねぇ」
「……」
姫さまの、皇宮での評価。
国王陛下も言われていた。姫さまには後ろ盾がないと。つまり、彼女の今の立場というのはきっと、とても危ういものなのだろう。それは、もし政争が始まることになれば、真っ先に姫さまが敗退するであろうことを示している。
そして、今。姫さまの助けとなれる人間は私だ。
だからこそ、私が。姫さまの騎士である私こそが、一念発起して彼女のために力を尽くす時なのだ。
そう、そんな彼女の理屈については、私だって勿論、分かっているつもりだ。
「僕はこれ以上はなにも言わないよ。後は君が、自分で考え、自分で決めるといい。君たちの主従関係は、君たちだけのものだ。せいぜい大事にすることだね。……まあ、一つ君にアドバイスをするとすれば」
アリスは月光を背に受けながら、蛇のように抜け目ない視線をくれる。その目は、まるで全てを見透かしているかのように不穏で、得体の知れない不気味さをたたえていた。
「目に見えるものだけが真実とは限らない、ということだ」
「なんですって?」
私が眉根を寄せると、からかっているつもりなのか、アリスは微笑みながら続けた。
「この世界は所詮、星々の見る射干玉の夢に過ぎない。全てを理解しているのは、天に飾られた光のみだ。君は何かを理解しているつもりでも、それが本質であるとは限らない。例えそれがどんなに、手放しがたいものであったとしても、ね」
まるでタチの悪い道化か何かのように、アリスは意味深にほくそ笑んだ。何かを匂わせるように、ほのめかすように。いや、あるいは、それは誘いにかけるかのようでもあった。
何を知っているつもりでも、だって?
それならば一体あなたは何を知っているというのか。
そう思い、私が彼女に言葉の真意を問い質そうと、一歩前に進み出た時。
「おや、そこにいるのは……」
ふと、私の背後から聞き覚えのある凛とした声がかけられた。




