おもしれー女になりたい令嬢マリアベル
黄金の髪に、透き通るアクアマリンの瞳。
優しげに微笑み、淑女の手を取ってワルツを踊る彼はとても優雅で美しかった。
彼の名前はウィルフレド・ヘインズ……マリアベルの実家、アップルビー男爵家に婿入り予定の婚約者である。
シャンデリアの光が降り注ぐダンスホールでウィルフレドと踊っていたのは、本来ならマリアベルだった。
けれど二人の関係は政略的なものである。
ヘインズ伯爵家はデレイニー王国の建国当初からある由緒正しい伯爵家。歴史はあっても金がなく、とても貧乏だった。
対してアップルビー男爵家は二年前に武器商人から成りあがった新興貴族。金や取引は十分あるが格はなく、貴族社会に対し対等な関係のコネクションを求めていた。
そういう意味では、マリアベルはウィルフレドにとって唯一無二の存在である。きっと大切にしてくれるだろう。
だけど彼にとってマリアベルは特別な人ではないし、たぶん愛してはいない。
でもマリアベルはウィルフレドのことが好きだった。
ワルツの曲に合わせてウィルフレドがどこかのレディの腰を引き寄せ、優雅にターンする。
その姿を見ながらマリアベルは静かに目を伏せた。
もしもマリアベルがウィルフレド好みの女性になれたなら、彼に好きだと言う権利くらいはもらえるだろうか?
じんじんと痛む胸をさすりながら視線を上げると、自分と同じ緑色の瞳と目が合った。
「……お姉様? もうロレッタは魔力が限界です」
マリアベルの十歳の妹、ロレッタである。
「ごめんなさい、もう少しだけ……ウィルフレド様のお姿を見ていたいの……」
「ならどうしてウィルフレド様と婚約後初めて出席するパーティーの前日早朝に、中庭でストレッチをしたのです! 春だといってもまだ寒いのに、なぜネグリジェで⁈」
ロレッタが大型の記録魔道具を持つ手を震わせながら怒鳴った。
「そのせいで風邪をひいてパーティーを欠席だなんて、政略結婚の相手が自分で申し訳ないとかいう前にそっちの方がウィルフレド様にとって大迷惑です!」
ロレッタが持つ記録魔道具には、ダンスホールで女性の手を取って何かを話すウィルフレドが映っている。
マリアベルに映像をみせていたロレッタは、魔道具を起動させる魔力と腕力が限界を迎えたらしい。マリアベルが寝るベッドの足元にそれを放ると、ロレッタは青ざめる姉の鼻に小さな人差し指を突きつけた。
「パーティー会場で姉の婚約者をコソコソ盗撮する妹の身にもなってほしいのです! あとその盗撮映像を見て青紫色の顔色でうっとりする姉を見る妹の気持ちも考えてほしいです。情けないです」
ロレッタが言う通り、マリアベルはウィルフレドとの初めてのパーティーを風邪で欠席した。
けれど婚約前からウィルフレドに一目惚れしていたマリアベルはどうしても着飾った彼を見たくて、妹にお願いして記録の魔道具でその姿を映してきてもらったのだ。
そう、マリアベルはウィルフレドの見目麗しい姿に心底惚れている。
今は病床でロレッタが撮ってきたその麗しの映像を鑑賞中、胸の痛みは咳のしすぎである。
「ごめんなさい……でもウィルフレド様が以前お手紙でおっしゃっていたの、『僕は面白い女性が好きだ』って」
ウィルフレドから提案され、二人は少し前から文通をしている。
マリアベルは遠くから姿を見られるだけで満足だったが、ウィルフレドはこの婚約の〝政略〟の部分をとても真面目に考えてくれているらしい。
だからマリアベルもウィルフレドのその心遣いに応えるべく、『面白い女性』という彼の好みに真剣に向き合おうと思っていた。
「だから、庶民に伝わる乾布摩擦を貴族っぽくアレンジしたら面白いかもしれないわ! って夜中に思いついたら、じっとしていられなくなったのですわぁ……」
さすがに庶民の中年男性のように上半身裸で背中を布で擦るのは自重し、代わりに薄着でストレッチをしてみた。
だがむしろ、そういう中途半端が良くなかったのかもしれない。無駄に汗をかき、それが冷えて風邪を引いた。
「いっそ潔く上半身裸で挑むべきでしたわぁ……!」
部屋の端に控えていた執事がボフッと息を噴き出して顔を伏せた。
もっさりした黒い前髪からのぞく眼鏡のレンズが照明の光に反射して、小刻みに揺れている。
雇われて一ヶ月の新人だが普段はとても冷静な執事がそこまでの反応をするのなら、面白さを追求するためには上半身裸乾布摩擦が正解だった気がする。
「そんなことをしたらお姉様を溺愛するお父様とおじい様が心臓発作で死ぬと思うです」
しらっとした目でロレッタに見られ、マリアベルは枕に頭を沈めて布団を頬まで引っ張り上げた。
「でもわたくし、どうしてもウィルフレド様好みの女性になりたいのですわぁ……。けれどもほら、わたくしって本当に面白みがないでしょう?」
平凡な見かけもそうだし、取柄といえば財産だけだと社交界でもよく言われる。
ロレッタを出産後、体調を崩して亡くなった母譲りの病弱さでのせいで人付き合いもなく、人脈の面でも面白みはない。
「ですからどこかにウィルフレド様のいう〝面白い〟のヒントがないかしらって、映像を見て分析したかったのですわ」
「いやお姉様はどう見ても面白みしかないのです。セバスさんはどう思うです?」
ロレッタがあきれたように言って、執事の名前を呼んだ。
「え! そ、そうですね、好み通りの面白い女性だと思います」
「ほら、セバスさんもそう言っていますし、もう面白探しはやめてほしいと妹は切に望むのです。そして今日はもう大人しく寝てほしいです」
「わたくしにあきれている妹や、わたくしが寝ないと業務が終わらない執事に面白いと言われても……わたくしをなだめるために言っているとしか思えませんわぁ……」
「わかっているのならさっさと寝るです! もうこの盗撮記録観賞も十四周目、犯罪現場の証拠集めで徹夜する憲兵並みのしつこさで舐めるように見て何も発見できないなら何も無いのです!」
「そんなことありませんわぁ! 見直すたび新しいウィルフレド様の美しさを発見して心震えますのよ!」
マリアベルがちょっとムッとしながらそう言い返すと、ロレッタが心底疲れたように長いため息をついた。
「結局〝面白い〟は見つかっていないのです……ロレッタはお姉様の目のぽんこつさと純粋さに心底、心底、震えるのです……」
そして指輪型収納魔道具から本を数冊取り出すと、マリアベルの枕元に置いた。
「もう深夜十二時を過ぎましたし、十歳に徹夜させないでほしいのです。ロレッタのお気に入りの哲学の本を貸しますから、これを読んで面白いこと――滑稽であることと知的好奇心の違いや共通点などを学んで寝るといいと思うのです」
一冊が鈍器のように厚い本が枕元に山と積まれていくのを見て、マリアベルは恐怖を感じた。
「寝ている間に倒れてきたら死にますわぁ……」
一歩下がって本の高さを確認したロレッタは、姉の言葉に納得したらしい。
収納の魔道具に全ての鈍器本を戻したあと、「では……」とまた別の本を取り出して積んだ。
「この恋愛小説の中に出てくる〝おもしれー女〟とお姉様の共通点を洗い出し、自分がいかに無駄な努力をしているかを考えるといいと思うのです」
今度の本は全て常識的な厚さをしていたし、可愛らしいピンク色の表紙も気に入ったので、さっそく手に取ってパラパラとめくる――……読む――……
めくる――……読む――……めくる――……
気づけばロレッタと執事はいなくなり、マリアベルが顔を上げると朝日が窓から差し込んでいた。
その陽光が読書で乾いた目に沁みてとても痛かったが、心は潤っていた。
なぜならマリアベルは指針を得たからだ。
「〝おもしれー女〟……ウィルフレド様の理想の女性はきっと、何か専門的なものを極めた末のユーモアに優れているような〝面白い女性〟ではなく、この小説のヒロインのような女性なのですわ!」
思ったことをはっきり言い、気が強く男性に媚びない。
大胆不敵で度胸があって、予測不能な豪胆さがある。
そして少しだけ自分へ向けられる感情に鈍感な女性……それがきっとウィルフレドの理想とする〝おもしれー女〟なのだ。
「そうと決まればまずはこの本『廃棄寸前のお飾り姫ですが、愛馬と駆けていたら砂漠の国の王様に「おもしれー女」だと見初められました!』のように、裸馬にまたがって山野を駆けられるように馬術を極めねばなりませんわぁ!」
ガバッと布団をめくって、マリアベルはベッドの上に立ち上がった。
そんなことは普段ならばしない。けれども〝おもしれー女〟ならばするはずだ。
天井へ向かって突き上げた手には、眉目秀麗な異国の王子に囚われたお姫様の絵が描かれた表紙の小説がある。マリアベルのバイブルに今さっき昇格した。
マリアベルの〝おもしれー女になりたい欲〟がぐらぐらと煮詰まっていくが、残念ながら早朝のためそれを諭せるものは誰もいなかった。
◇
とはいえマリアベルも己の体の貧弱さと、運動音痴を自覚している。
歩く速度すらロレッタに負けるマリアベルが乗馬をマスターするといっても、かなりの時間がかかるだろう。
なのでバイブルを手に入れたその朝、マリアベルは祖父と父へ相談することにした。
「乗馬を極めたいのですわぁ」
ゆで卵の殻をコンコンとスプーンで叩きながら言ったマリアベルに、父ロバートがクロワッサンを皿に戻して大きくうなずき、祖父のリチャードがふさふさの顎髭を撫でながら言った。
「よし、パパが王都で一番の馬を買ってこよう! 一番ならマリアベルが無茶してもなんとかなるだろうから」
「では落馬しても怪我をしないように、じーじが開発した魔道具防御布で乗馬服を作ってあげようなあ」
乗馬を極めたい理由には全く触れず、マリアベルの運動神経を知っている二人はその身の安全確保に向け全力である。
「それよりいっそ馬の頭に魔道具を埋め込んで命令を聞かせる方が安全かもしれんの。や、倫理的に錬金局の許可が出ぬか……?」
祖父のリチャードは、魔道具開発の腕を評価されて一代限りの準男爵となった魔道具師だ。
病弱な孫や知的好奇心旺盛な孫のための魔道具作りに燃えているが、昔は戦闘用魔道具ばかりを開発していた。
あまりに性能が良いので、ついたあだ名は〝死を呼ぶ匠〟である。
「一頭に決め打ちするよりもこの辺一帯の馬を牧場ごとと、牧草農場も買い占めるか!」
父ロバートはリチャードの魔道具をメインに、武器防具専門店としてアップルビー商会を立ち上げ、その成功とともに男爵位を金で買った商売人である。
マリアベルとロレッタの母であるアメリアを愛していた二人は、その忘れ形見である娘たちのこともチョコレートに生クリームをかけて砂糖を振るように溺愛している。
ちなみに祖母のパトリシアは海外出張中で不在だが、彼女もまた孫を溺愛するアップルビー家の一人である。
パンケーキに蜂蜜をかけていたロレッタは、糖度大爆発の父と祖父へ感謝で瞳をうるうるさせる姉の膝の上に、見覚えのある書籍が乗っているのに気がついて目を見開いた。
『廃棄寸前のお飾り姫ですが、愛馬と駆けていたら砂漠の国の王様に「おもしれー女」だと見初められました!』
タイトルからして愛馬と駆けている。
だから運動音痴のマリアベルが急に乗馬をしたいと言い出したのかと合点がいった。
そしてロレッタの記憶が正しければ、この本のヒロインは馬具なしの馬を駆っていたはずだ。
「セ、セバスさん!」
ロレッタはアップルビー家の会話を唖然とした表情で聞いていた執事を呼んだ。
勢いよく呼んだせいで手元が狂い、蜂蜜がだぶんとパンケーキにかかる。
「お姉様は、きっと裸の馬を乗り回す気です。頑固なのでダメと言っても聞かないです。セバスさんが見守るしかないのです!」
ロレッタの言葉に絶句したセバスは、チラッとマリアベルを見た。
セバスの眼鏡に映るマリアベルは、ロバートとリチャードの「アップルビー商会軍馬部門立ち上げ計画」を笑顔で聞いている。
その姿は淑女そのもので、まさか裸馬を乗り回そうと考えているようには見えない。
しかし彼女のことを病弱と理解しているはずのロバートとリチャードが、マリアベルのために王都にあるどこかの貴族の屋敷を潰して牧場を作り、軍馬を手に入れようとしていることに気がついて震えた。
本来ならばマリアベルを真っ先に止めるべき家族が、全く機能していない。
小等学校の成績表にいつも『共感性が高い』と書かれているロレッタには、アップルビー家独特の感性に驚くセバスの気持ちはよくわかる――が、ロレッタも姉を止めようとは思わない。
なぜならこういう時の姉の提案は、巡り巡っていずれ家に莫大な財産をもたらすからだ。
たとえばウィルフレドを盗撮した時に使った映像の魔道具は、マリアベルが「近所の野良猫のかわいい猫パンチを永遠に記憶にとどめておく方法を考えてほしいですわぁ」とリチャードに言ったことで生まれたものだ。
まず軍事関係に流通し、次に貴族、さらに冒険者ギルド経由で魔物の生態を研究する研究者たちの間で流行り、一般に出回る頃には金銀財宝の山が複数そびえ立っていた。
こういう時のマリアベルには不思議な力があると、アップルビー男爵家は信じている。
だからロレッタは、セバスの初々しい反応にしみじみとうなずきながらも、アドバイスをするしかできない。
「無茶をしないようにではなく、無茶をしたらフォローできるように見守るのがコツなのです」
頼んだのです! と蜂蜜の海に浮かぶパンケーキへナイフを突き刺したロレッタに、セバスがぎこちなくうなずいた。
◇
今、マリアベルは……馬具のない裸の馬の背に乗っている。
馬の能力が高いおかげだ。
ここは王都の郊外にあるアップルビー男爵家の牧場である。
元は貴族街だったが、リチャードの魔道具によって環境を整えて牧場化している。多くの優れた馬たちがのんびりと草を食んでいた。
遠くには王城と街並みが見え、景色が良い。
父がマリアベルのために購入してくれた馬は、本当にこの王都で一番の馬だった。
といっても、厳密には王族が所有する馬以外で一番の馬である。
明るい黄褐色の被毛が美しい利口な牝馬で、名前をキャラメルグレースという。
「甘い香りがしますわぁ」
マリアベルはジャスミンの香りに染まった風にうっとりと目を閉じた。
誰にも告げずに一人で牧場にきたので、マリアベルの言葉を聞いているのは彼女だけだ。
いくら王都一の馬だといっても、乗馬練習を始めた当初は全く呼吸が合わずに何度も振り落とされた。
落馬するたび付き添いのセバスが青い顔をしていたが、怪我はない。
祖父リチャードの開発した魔道具『超高機能防御布』で作った乗馬服をはじめ、ありとあらゆる防御の魔道具がマリアベルの身を守っているからだ。
今のマリアベルは体長三メートルのトロールにこん棒で殴られても、傷ひとつ付かない防御力がある。
「これでウィルフレド様の〝おもしれー女〟になれましたかしらぁ?」
キャラメルグレースの背の上で頬に手を当て、マリアベルは考える。
乗馬への挑戦を書いたウィルフレドへの文通の返事は『絶対に無理しないでくださいね』だった。
さすが〝金翼の慈悲〟と二つ名を持つだけのことはある。
ちなみに金翼の金はウィルフレドの金髪から、翼は天使の意味からつけられた名前らしい。
老若男女誰にでも優しい彼の性格をよく表しているとマリアベルは思っている。
ところでマリアベルはバイブルである小説のヒロインと似たようなことはできるようになった。
しかしただ小説をなぞるだけで、ウィルフレドが望むおもしれー女になったと言えるだろうか。
否、断じて否。
ヒロインが裸馬で山野を駆ける本があるということは、目新しさはないということだ。
二つ名の通り慈悲深いウィルフレドならば労ってくれるかもしれないが、どこかで見たようなおもしれー女に心底惚れてくれるとは思えない。
自問自答に、マリアベルはキリリと眉尻を上げた。
アップルビー男爵家は魔道具開発の第一人者にして商売人である。
魔道具開発は小型化や魔力の効率化など、常に改良を繰り返す。
商売では取引の繰り返しで信頼と経験を積み重ねることによって、より大きな市場へと挑戦するのだ。
マリアベルとウィルフレドの婚約も、大きな市場に挑戦するためである。
彼にしてみれば不本意かもしれないが、政略結婚だからこそマリアベルがアップルビー男爵家の発展性を身をもって証明するべきである。
「つまり、わたくしに必要なのは発展なのですわぁ」
ぽふぽふとキャラメルグレースの首筋を撫でると、長いまつ毛を震わせて彼女はきゅるんとこちらを見た。
キャラメルグレースは素晴らしい馬だが、馬なのだ。
本のヒロインと全く同じ形で馬に乗っていても発展はない。
しかしながらマリアベルの体力と運動センスでは、ヒロイン以上の動きはできない。
ならば馬だ。
もっといえば魔獣だ。
「馬以上に乗るのが難しい魔獣を乗りこなせれば、一人前のおもしれー女に近付くのではありませんこと?」
キャラメルグレースが不服そうに鼻を鳴らした。
そこでマリアベルは失言に気づく。
「練習で築いたわたくしたちの絆を無碍にするようなことを言いましたわぁ。キャラメルグレースさんが駄目なわけでも、乗りたくないというわけでもないですの……困りましたわぁ」
絆……? という目で見てから、キャラメルグレースはもう一度鼻を鳴らして首を下げた。
自分の背に乗って何かをぶつぶつ呟き続けるマリアベルから、耳を遠ざけたかったのかもしれない。
「貴女のお婿さんを探しに行くべきだと思うのですわぁ!」
マリアベルはこれこそ発展ですわぁ! と手を鳴らして続けた。
「王都の魔獣屋には、少し前に話題となったダンジョンで捕獲されたオスのスレイプニルがいますの。我が家で一番優秀なキャラメルグレースさんのお婿さんにぴったりではなくって? そしてお子は、きっと強さと優美さを兼ね備えた仔馬になりましてよ!」
キャラメルグレースが顔を上げた。
まあ? 一応? 聞いてもいいけれど? とでもいうように小さく鼻を鳴らしている。
「わたくしが責任をもって、キャラメルグレースさんにふさわしいお婿さんを購入してみせましてよ!」
動物と魔獣のカップルの子供は、どちらか一方の種族として生まれてくる。
どちらの種族になるかはその時によるが、どちらの種族で生まれた場合でも優れた個体が生まれる可能性が高いという。
「ですからスレイプニルとして生まれたお子さんに、わたくしを乗せてほしいのですわぁ……」
キャラメルグレースはバサッバサッと尻尾振ったあとにピンと高く上げ、マリアベルを乗せて軽やかな足取りで牧場の出入り口へ向かった。
◇
「完全に迷子でしてよ……」
キャラメルグレースの背の上で、マリアベルはしおしおと空を見上げた。
塊で浮いた雲の底が茜色に染まっていて、そろそろ日が落ちそうな空だ。
そしてそのしなびた大根のような顔で辺りを見回せば、崩れかけの壁を走るネズミと黒光りする虫の群れが目に入った。
どこかで犬が吠えていて、足元にはゴミが散乱し、石畳のめくれた道のくぼみには粘度の高そうな灰色の水が溜まっている。
何かが腐った臭いがして、空気が重たく凝っていた。
一頭とその背に乗った一人は、そんな見知らぬ怪しい裏路地で途方に暮れていた。
馬上から自信満々に誘導し、たどり着いた先がこれである。
怖いと思うよりも前に、何か未知のものに出会った謎の感慨が湧いた。
「どうしましょう。帰り道もわかりませんわぁ……」
困り果てたマリアベルの声に、耳をぴんと立てたキャラメルグレースが鼻を鳴らし振り返った。
それで次はどこに行くの? 付き合うわよ。という、親戚の子供を見る眼差しである。
「わたくしのカンは今日は絶不調ですので、キャラメルグレースさんにお任せしますわぁ」
いつもは使用人やロレッタから持たされる『全デレイニー王国測位機構』によってマリアベルは迷ったこともなかったが、そういえば今日は誰にも何も告げずに出てきたので持ってきていなかった。
これは方向音痴のマリアベルのために祖父リチャードが作った魔道具で、その地域の魔力に反応して自分がどこにいるのか示してくれるものだ。音声で道案内までしてくれる。
「慢心ですわぁ……」
魔道具のおかげだということをすっかり忘れ、マリアベルはデレイニー王国の道のことなら全て把握していると信じ込んでいたようだ。
落ち込む人間を揺すらぬようにとゆっくり歩くできた馬の背中で、マリアベルはため息をついた。
イヤリングを通った夕焼けの光がプリズムとなって、マリアベルの頬や首に虹が揺れる。
仕事のできる女がどこへ向かおうとしているのかはわからないが、マリアベルは移動をすっかりキャラメルグレースに任せることにした。
「綺麗ですわぁ」
崩れかけの建物の間から空が見えた。
夕方の茜色から夜の夕闇へと変わる瞬間をのんびり見つめている――……と、大きく広げた翼が視界を横切った。
カラスでも鷹でもない。
成人男性の身長ほどもある大きな翼を広げて飛んでいたのは、真っ白な馬だった。
「まあ、天馬ではないの!」
翼の生えた馬は倒れた家の上を音もなく飛んで横切り、かろうじて斜め上から差す夕日の最後の光を遮って、マリアベルたちに大きな影を落とした。
◇
キャラメルグレースの背がぶるると震えた。
振り返ってマリアベルを見る大きな瞳が煌めいている。濃い茶色の目の中で、馬特有の真横になった瞳孔が大きく開いて燃えていた。
そして耳が小刻みに動いたあと、しっかりとあの天馬が飛び去って行った方向へと向く。
その一途なしぐさを見て、マリアベルは胸がいっぱいになってしまった。
マリアベルにはキャラメルグレースの気持ちがわかる。
「その背筋の震えは一目惚れ、キャラメルグレースさんはあの天馬に恋なさったのですわぁ!」
キャラメルグレースが甲高い声でいなないた。
わずかに遠くで拒絶するような鳴き声が聞こえる。そして大きな魔力の揺れと、剣が何かにぶつかる音も。
「もしかしてあの天馬さんは何かと戦っていらっしゃるの?」
首筋を伸ばしたキャラメルグレースが、フンッと鼻を鳴らしてからまた甲高く鳴いた。
今回は有無を言わせぬ圧力のある声だった。
さらにブルルルルッと鼻を鳴らすようにいななきながら、かろうじて残っていた石畳をひっぺがすように前脚を鳴らす。
そして熱のこもった視線をマリアベルに投げてよこした。
マリアベルは恋する乙女として、戦友を得たような気持ちになって大きくうなずいた。
「わたくしももしウィルフレド様が戦っていらっしゃったら、必ず駆けつけますわぁ! 愛しい殿方を助ける、その意気や良し!」
マリアベルが万感の思いを込めてぽんと首筋を叩いたとたんキャラメルグレースが棹立ちになっていななき、石畳を破壊しながら走り出し――……
マリアベルは振り落とされた。
◇
割れた石畳の上に放り出されたマリアベルは、キャラメルグレースを呼ぼうとした声をのみ込んだ。
愛しい人のために走り出したところを誰かに呼び戻されたら、マリアベルだってその人を嫌いになるだろう。
そのかわりマリアベルはすぐに立ち上がり、キャラメルグレースが走り去ったほうを見た。
軍馬の脚力で全力疾走したあとには、路地の石畳に無事に形を保ったものは一枚もない。
壊れた石畳はささくれ立って、まるで地割れのように真っすぐ進行方向へ伸びている。
そのあとを歩いて追いかけながら、マリアベルはイヤリングを巻き込まぬように風でそよぐ髪を耳にかけ、路地に響く音へ耳を澄ました。
キャラメルグレースが走り去った方向からはまだ剣戟の音と、微かに人の怒声が聞こえてくる。
羽ばたく音と魔力の圧は魔獣である天馬のものだろう。そして増えた馬のいななきはキャラメルグレースの声に間違いない。
マリアベルはそちらへ向かって歩き出した。
マリアベルの歩みは壊れた石畳でも頭はぶれず、優雅で、ものすごく遅い。
まるで幽霊船が漂流しているようだった。
しばらくしてようやく遠くに人間の男二人と馬の雄雌二頭が対峙し戦っている姿が見えてきたが、心なしか人間二人の方の動きが鈍い。
一人は胸の前で大きな荷物を抱えていた。落とさないよう大事に庇っているのか、もう一人よりもさらに動きが悪い。
天馬の翼から放たれた衝撃波を一人がなんとかかわす。
男の骨を砕き損ねた衝撃波は壁に当たり、塀が音を立てて崩れ落ちた。
噴き出す粉塵に足を止め、マリアベルは緑の瞳を鋭く光らせる。
思うにこれは演劇や小説でいうところの、クライマックスに差し掛かっているのではなかろうか。
何者かと戦うヒーローを助太刀に行ったヒロインが絆を深め合って共闘し、そろそろとどめを刺そうといったところか。
どちらかと言えばマリアベルは人間なので、どうやら身なりからして冒険者であるらしい男たちの方に肩入れしたくなる。
しかし彼らの装備は薄汚れていて、まとう気配も薄暗い。
「いやぁな臭いがしますわぁ」
アップルビー男爵家は武器商人である。
武器防具を求める客は荒事を生業にしていることがほとんどで、中には非合法なことに手を染めている者ものいる。
そうした客たちの大抵は、祖母パトリシアに塩を撒かれて追い払われていた。
そんな客を見てきたマリアベルは、パトリシアの教育もあってその人の手の汚れ具合がある程度わかる。
キャラメルグレースに後ろ足で蹴り飛ばされそうになっている男たちの手は、間違いなく汚れているはずだ。それも相当真っ黒に。
自分の娘に使う拷問具を購入しにきた男と同じ悪党臭がする。
「キャラメルグレースさん!」
マリアベルが名を呼ぶと、蹴りの動作途中で愛馬が一瞬こちらを見た。その隙を突き、荷物を抱えたほうの男がこちらへと疾走してくる。
しまったという顔をしたのはキャラメルグレースではなく、その隣で急いで羽を広げた天馬だ。
キャラメルグレースの後ろ蹴りを顔面に食らい折れた前歯を噴き上げて倒れる男を踏みつけ、天馬が翼に魔力を込める。
天を駆けるためにいななきながら振り上げた前足の蹄と広げた翼が、魔力で金に発光している。
その光に一瞬見とれたマリアベルの視界に、額から血を流した男が現れ突っ込んできた。
男は容赦なくマリアベルを突き飛した――が、マリアベルはよろめきながらも微笑み、そのまま走り去ろうとした男の腰にしがみつく。
「嘘だろオイ! 放せ!」
驚いた男が焦って声を上げ、マリアベルの顔に肘を撃ち込む。
しかし祖父の魔道具のおかげでマリアベルは無傷。さらに握力強化手袋の力を発動させれば、男がどれだけ身をよじろうと振り払われることもない。
腰にしがみついたまま男の抱えた荷物を覗き込むと、マリアベルはその麻布の袋に入ったつるりとした丸いものに目を奪われた。
「まあぁ! こちらのお荷物はもしかして何かの卵ではありませんこと?」
臭くて汚い麻袋から覗くのは、翡翠色に輝く大きな卵だ。
天馬のいななき声に呼応して魔力が漏れている。
「そういえば天馬という魔獣は、ドラゴンと共生関係にありましたわねぇ……」
マリアベルの言葉を聞いて男がピクリと震え、立ち止まった。
どんな攻撃にも笑顔で動じず、ズリズリと引きずられながらのんびり荷物の検分を続けるマリアベルに恐怖を感じたのか。
はたまた「ドラゴンの卵の採取は犯罪ですわぁ」という言葉に己の悪事の露呈を悟ったのか……男は真っ青な顔で自分の胴にしがみつくマリアベルを見下ろした。
男と目が合ったマリアベルもまた、雷に打たれたような衝撃を覚えて動きを止める。
犯罪者にしがみついているという事実に気づき、今さらながら身の危険を覚えたから……と、いうわけではない。
「こ、これはもしや、おもしれー女チャンス! なのではありませんこと⁈」
ここに到着した時、これは演劇や小説のクライマックスだと思ったばかりではないか。
そして今、男が違法にドラゴンの卵を巣から盗んだ密猟者であることが判明した。
卵を追いかけてきたドラゴンに国を滅ぼされる恐れもあるのだから、犯罪の度合いとしては最悪である。
天馬はドラゴンと共生関係にある。ドラゴンの種類によっては複数生まれた卵を守るために巣から離れられず、天馬に世話をさせることがあるという。
十歳にして鈍器のような哲学書を暇潰しに読むような頭の良い妹から聞いた話だから間違いない。
つまり今、国はドラゴンに滅ぼされるピンチに陥り、天馬はドラゴンの使いで卵を取り返すために犯罪者を追ってきた正義の魔獣であることが確定したわけである。
小説ならば山場、芝居ならば見せ場に、今……マリアベルはいる。
そしてマリアベルのバイブルである小説のヒロインであれば、間違いなく正義の側に立つ。
さらには惚れた男のために戦うキャラメルグレースを助けないわけがない。
ヒロインから学んだおもしれー女の条件はいくつかあるが、今の状況でマリアベルに求められる〝おもしれー女の立ち居振る舞い〟といえば、間違いなく『大胆不敵で度胸があって、予測不能な豪胆さ』だ。
天馬を助けて国の危機を救い戦友の恋を助けるためには、まず男からドラゴンの卵を取り返すことが肝要である。
しかしながらマリアベルは非力だった。
魔道具のおかげで防御力だけはあるが、攻撃力はない。
「ならば攻撃力のある者をアシストするのが正解ですわぁ!」
マリアベルはぐっと身を乗り出して卵を抱える男の腕を上から押さえ、しがみつき直してから叫んだ。
「さあ天馬さん、今こそ衝撃波でわたくしごと吹っ飛ばしますのよ!」
卵泥棒の頭は多少くちゃっとなるかもしれないが、マリアベルが押さえている腕辺りはきっと無傷で残るだろう。祖父の魔道具の効果範囲内にある卵に衝撃波は通らない。
「なに言ってんだコイツ!」と、男が我に返って暴れ出す。
そんなに動かれては、天馬が照準を定められないではないか。
足を踏ん張って男の動きを抑えるマリアベルが天馬に視線を送れば、天馬は男と同じ「なにいってんだこいつ」の顔をして固まっていた。
ある程度人間の言葉を理解するといわれる天馬でも、マリアベルの言葉は理解できないほど突飛だったのかもしれない。
おもしれー女を目指すマリアベルには望むところな反応だが、それにしてもこんなにも「はあ?」を前面に押し出した馬面を見たことがない。
対してキャラメルグレースには、マリアベルの意図がわかったらしい。
天馬の真横で、とりあえず一発攻撃してみて? と説得するようにブルブルと短く鳴いている。
彼女は魔獣の中でも高位の天馬と共闘できるほど優秀だが、普通の馬なので遠距離攻撃の手段を持たない。もどかしそうな馬面だった。
そしてマリアベルもまた、愛馬と同じくもどかしい。
しがみついた男はもぞもぞ動き、マリアベルがどれだけ踏ん張っても着実に馬たちから遠ざかっていく。
いまだとまどいの馬面で耳を震わす天馬に攻撃する意思は見えず、マリアベルは思わず「ど、どなたか!」と叫んでしまった。
どなたかわたくしごとこの男をお潰しになって! と、続けて口に出しそうになり、天馬の説得をやめてこちらへ駆けてくるキャラメルグレースを見てとっさに口をつぐんだ。
軍馬の恐るべき脚力で寄ってくるキャラメルグレースは、さらに首を横へ向け胴をひねり、後ろ蹴りの体勢を取りつつ目で距離を測っている。
キャラメルグレースは天馬に代わってマリアベルごと男を蹴り飛ばすつもりなのだ。
腹を括った愛馬は鋭い目でマリアベルを見てくる。
――そこに、おもしれーはあるんか?
愛馬の深遠なる問いかけに、マリアベルは首を振る。
いいえ、断じて否。
デレイニー王国民の命がかかったこの大一番で、誰かにその運命を決めてもらおうだなどもってのほかであった。
そんな弱気なことで、この国一番の美男子と名高いウィルフレド・ヘインズの心をわし掴むような〝おもしれー女〟になれるわけがない。
それが証拠に、自分よりもはるかにおもしれー女の数値が高そうなキャラメルグレースは、主であるマリアベルの指示も待たずに卵泥棒を蹴り倒そうと駆けだしたのだ。
惚れた男のために、その男を放り出して。
「わたくしとしたことが……」
マリアベルはアップルビー男爵家の嫡女である。
そしてアップルビー男爵家は常に発展を求めなければならない。
先ほど胸に刻んだおもしれー女の立ち居振る舞いにマリアベルらしさを加えて発展させるとするならば、らしさとは〝決断力〟であろう。
いくらともに惚れた男のために戦うキャラメルグレースであろうと、マリアベルから〝おもしれー女チャンス〟を奪うことは許さない。
「一度お止めになって!」
マリアベルに攻撃力はなく天馬は動かないという現状では、密猟者の頭を撃ち抜く役目はキャラメルグレースに任せるほかはない。
だけどそれでもその実行は、馬の主たるマリアベルが命じた結果でなければならない。
馬に任せてぼんやりしているなど、大胆不敵で度胸があって、予測不能な豪胆さと決断力を持つ〝おもしれー女〟のやることではない。
だから結果は同じになるとしても、命令を聞き四つ足を開いて止まったキャラメルグレースに改めて「自分ごと蹴り飛ばせ」と命じるために息を吸った、その時だった。
「お嬢様、ご無事ですか⁈ ごぶっ……どういう状況ですか?」
執事のセバスが別の角から息せき切って姿を現し、持っていた剣を構えてマリアベルの名を呼び――……小汚い男にしがみつくマリアベルと主人に尻を向けて足を踏ん張る牝馬を遠くからうかがう天馬、という謎の状況に困惑して分厚い眼鏡を曇らせた。
対してマリアベルは混乱するセバスへ、なんて良いところに! と喜色満面の笑みを向けた。
「どうしてこの場所がおわかりに?」
「マリアベルお嬢様用魔力測位機構から発信された情報をたどってきたのです」
「忘れていましたわぁ……」
マリアベルは方向音痴なのでよく迷子になる。そのため家族はマリアベルの位置を特定するための魔道具を、イヤリングとして身に着けさせることにしたのだ。
そして念のためにとアップルビー家総出で探される。
総出、というのは家族、使用人はもちろんのこと、金に物をいわせて傭兵や冒険者を雇い、憲兵に袖の下を渡して手の空いている隊員全員にマリアベルの捜索をさせることをいう。今日もきっとそうなっているだろう。
だとすれば、この卵泥棒との決着を早急につける必要がある。
憲兵や傭兵たちに決断と発展のおもしれー女チャンスを奪われてなるものか。そう考えてマリアベルは顔を上げた。
他に所属している者へマリアベルが命令する権利はないが、幸いにもセバスはアップルビー男爵家の執事である。
「そちらの剣はどちらでお求めになったものですの?」
第三者の乱入に一度は驚いて動きを止めた密猟者が、慌てて逃げようともがき始めていた。それを手袋の魔道具で抑え込みながら、マリアベルはおっとりと首を傾げる。
「普通に街で買える市販品ですが……?」
マリアベルのおっとりにつられて、セバスもおっとり首を傾げて答えた。
「アップルビー商会のものですの?」
「いえ、ヘインズ領にある個人商店のものです」
のんびりしたマリアベルの様子と律義に答えるセバスに、密猟者がぞっとした顔で再びもがいた。
その肘が、マリアベルの眉間に当たる。
本日何度目かの肘鉄に少し鬱陶しさを覚えたマリアベルが、会話中に暴れないでくださいましと注意しようとした瞬間、
「おい」と、セバスが地獄の底から響くような低い声を出した。
「今お嬢様を打ったな……?」
セバスが馬対卵泥棒の戦いで荒れた地面をザクザクと音を立てて歩いて、マリアベルたちへと近づいてくる。
狼煙を上げるような犬の遠吠えが響く空には一番星が輝いて、すっかり暗くなっていた。
セバスのもっさりした黒い髪が闇に溶け、剣と眼鏡だけが星明りに青白く反射する。
マリアベルがしがみついていた密猟者が、セバスの圧に震えて固まった。
ちらりと視線を後ろに投げると、体を斜めに向けて立つキャラメルグレースのさらに後ろで天馬も固まっている。こちらは目まぐるしく変わる状況についていけてないだけかもしれない。
「お嬢様のかわいらしいお顔に傷がついたらどうする。命で贖うか? それとも神へ許しを請いに行くか?」
「まあセバスったら、同じことを言ってますわよ」
死になさい、と。
セバスの微笑ましい言い間違いに思わず笑みを浮かべてしまったマリアベルは、しかし状況を思い出して顔と気を引き締めた。
今はほっこりしている場合ではない。
なにせ大胆不敵で度胸があって、予測不能な豪胆さと決断力を持つおもしれー女として、密猟者がもたらした国家滅亡の危機を救わねば、ウィルフレドに顔向けできなくなってしまう。
「セバス、セバス」
「はい」
密猟者に対してとは打って変わって、執事は穏やかに返事をした。
「こちら、ドラゴンの卵を盗んで天馬に追いかけられ逃亡中の密猟者の方ですわぁ」
「はい……はい?」
しがみついた手は離せないので、お行儀が悪いことは知りつつも顎先で卵泥棒を指して紹介する。
濃い困惑を浮かべて、セバスがうなずく。
「卵はこちらに」
マリアベルに言われてセバスの視線が……というか眼鏡が、密猟者の抱える麻袋に移る。
袋の中でささやかに翡翠色で発光する卵の魔力に気がつくと、セバスがわずかに顎を引いた。
「なので、わたくしごとこの卵泥棒さんをその剣で斬ってほしいのですわぁ!」
「いや無理です」
セバスの即答は人として当然のものだったが、アップルビー男爵家の使用人としては評価できない。
「まあ! あなたはおじい様の魔道具を信じていませんの?」
言葉に詰まったセバスへ、マリアベルは乗馬服が『超高機能防御布』の魔道具でできていることを思い出させる。
「市販の剣で斬ったところで、痕すらつきませんわぁ!」
祖父の魔道具をもとに家を発展させてきたアップルビー男爵家の使用人であるならば、たとえ新入りだとしてもその性能に信頼を置くべきである。
斬れと言われたらマリアベルごと迷わず斬る。
我が家でこれからも働くというのならば、それが普通だと思ってほしい。
「アップルビー家の人間となるのなら当たり前の心得ですわ!」
鼻息荒く新人にアップルビー男爵家の心構えを説くと、セバスはハッと顔を上げて眼鏡を光らせた。
毛量の多い前髪からわずかにのぞく眉をキリリと上げて、案外整った形をした唇を引き結んで二度ほどうなずく。
「アップルビー家の人間となるなら……! 承知いたしました!」
「オイ、や、やめ」
一閃。
セバスの剣は卵泥棒の首を迷わず斬り裂き、噴出した血がマリアベルの顔にかかり麻袋へ吸い込まれていく。
「一応お嬢様に当たらないように上の方にある首を切りましたが、お怪我はありませんか?」
崩れ落ちる男の体から麻袋に入った卵を受け止めたあと、マリアベルはセバスの問いかけに振り返って微笑んだ。
「意外と剣の腕前がおありでびっくりしましたわぁ」
血がしたたり落ちる真っ赤な顔で笑みを浮かべるマリアベルと、その微笑にほっとした様子でうなずくセバス。
人間二人の常軌を逸した様子に、遠くで天馬が慄いた。
羽を縮こませる天馬のたてがみを、いつの間にか横に寄り添ったキャラメルグレースが慰めるようにはみはみするのだった。
◇
マリアベルは自室で机に向かっていた。
机の上のウィルフレド宛の手紙には、半月前の裏路地での出来事が書かれていてる。
本当ならもっと早く裸馬の乗馬と発展について伝えたかったが、そのためには密猟事件に触れなければならない。しかしそれはドラゴンに国を滅ぼされていたかもしれない大事件だ。
国民の安心のためにもこの事件の公表は控えられ、政治を担うごく中枢の貴族たちしか知らない極秘扱いである。当然だがこの手紙も国の検閲が入る。
ウィルフレドは部外者だが、当事者マリアベルの婚約者でありアップルビー男爵家へ婿入りが決まっているため特別に話すことを許されたのだ。
なので、マリアベルは嬉々として全てを手紙に書いた。
特に力を入れたのは、『そこにおもしれーはあるのか』という、宇宙の真理か魔力の神髄を追求するかのようなキャラメルグレースの鋭い問いかけによって、ウィルフレドの求める〝おもしれー女〟に一歩近づけたという報告。
そしてその問いかけの直後のマリアベルの決断と、卵泥棒を成敗した場面である。
セバスには嫌な仕事をさせてしまったが、あの時に決断しなければデレイニー王国民の命が危うかった。
アップルビー男爵家の次期当主として命じたマリアベルが謝罪をするのは、責任感という意味で一貫性がない。おもしれー女としての決断と発展を謝るのも筋が違う。
けれど執事には十分な心のケアを行っていくつもりである。
そして手紙には事件後のことも、余すことなく書いた。
具体的には、まず密猟者二人の結末だ。
一人はセバスに斬られて死亡。
馬に蹴られて失神していたもう一人は、国の騎士の尋問に背後関係を洗いざらい吐いた。
マリアベルには詳細を知らされなかったが、それによりどこかの伯爵家が無くなったのだという。
その空席にアップルビー男爵家が座ることをふんわり促されたらしいが、父ロバートはそれを拒否した。
伯爵は中間管理職のようなものだ。気苦労が多い割にはアップルビー家にとって得るものが少ない。
ヘインズ伯爵家との政略結婚で貴族社会への対等な関係と繋がりは確保されており、今回の事件で国王をはじめ王家にも顔を売れた。
これ以上は商売の邪魔になるときっぱりと断ったようだ。
ただでさえ成り上がりと言われているのに、さらに爵位を上げてよけいな嫉妬を煽る必要もない。
そしてもう一つの結果は、ロバートがマリアベル用に作った王都郊外の牧場に、あの天馬が仲間を引き連れて頻繁にやってくるようになったことである。
天馬自身はキャラメルグレースへ会いにきているのだが、他の天馬も牧場にいる馬を目的に通っているようだ。
キャラメルグレース率いる群れの馬ならば、魔獣である自分たちの相手にふさわしいとあの天馬が仲間に紹介したのだろう。
今やアップルビー牧場は天馬と馬の集団お見合い会場と化している。
動物と魔獣との子は優れた個体が多い。
すでにいくつか番が成立していると報告が上がっていて、国や有力貴族からそれとなく「仔馬が産まれたら確保できないか」と声をかけられている。
マリアベルのおもしれー女修行のために作られた牧場だったが、その経営は安泰である。
そして天馬との関係が良好ということは、ドラゴンも国に対して敵意はないということだ。
天馬たちが出会いを求めて牧場へやってくるのも、ドラゴンのお墨付きがあってのことだろう。
天馬に一目惚れをして卵奪還に助太刀したキャラメルグレースの存在が、この平和に一役買っているようだ。
マリアベルは今回の事件で自分よりおもしれー女数値の高そうだったキャラメルグレースに肩を並べたと思ったが、愛馬はドラゴンとの和平を成し遂げ遥か高みに上ってしまった。
あの時に誰かに決断をゆだねようとしたことが、とても悔しい。
だが逆に、マリアベルは燃えていた。
もう一度バイブルを読んで勉強し直す所存である。
また同じようなことがあれば、今度こそ躊躇せず決断するのだ。
熱い想いを胸に刻み、マリアベルはふんすと顔を上げた。
そんなマリアベルから少し離れたところで、ロレッタが「お姉様がまた斜め上にやる気を出している気配がするのです」と呟いた。そして隣に立つセバスに話しかける。
「お父様とおじい様が密猟者の所業に怒り狂って、事件の黒幕伯爵たちを滅したことを……お姉様はまったく気づいてないのです。それ、あなたはどう思うです?」
ロレッタの視界の端で、セバスが小さく笑みを浮かべた。
もっさりした黒髪と眼鏡のせいで顔上部の表情はわからないが、シャープな鼻筋と整った唇は穏やかな表情だ。
「当然です」
執事の短い返答に、ロレッタは彼に向き直って見上げた。
ロレッタの身長から見上げると、マリアベルに視線を送るセバスの様子がよくわかる。
頬と眼鏡の隙間から見えるアクアマリンの瞳は、マリアベルを愛おしそうに見つめている。
浮いた黒髪から覗く金髪と同じく、金のまつ毛が微笑ましそうに瞬いた。
ロレッタはその表情をよく知っている。
父や祖父母がロレッタたちを見つめる目によく似ていて、だけどそれよりももっと熱のこもった眼差しだ。
「あいつらは、俺のかわいいマリアベルお嬢様を叩いたのですから。リチャード様の魔道具があったから無事だったものを、そうでなかったら……。その男たちを雇った貴族に、生きている価値が?」
「だいぶ病んでいるのです」
――俺の。
ロレッタたち家族は、マリアベルを執事にあげた覚えはない。
が、マリアベルの婚約者ウィルフレド・ヘインズとしてならば、ひとつまみほどの理解は示してもいいと思った。
社交界では彼が家を助けるために成金貴族の男爵家に婿入りすることを、悲劇だなどと言われている。
あまりに彼が美しすぎるので、手に入れたい貴族女性が多いせいだ。
マリアベルは自分を平凡と評するが、家族の欲目を引いてもウィルフレドと並んでも見劣りしない儚げな美人である。
中身はアレだが。
ウィルフレドに恋焦がれる女性たちにとって、容姿や金については攻撃できない。だから〝成り上がり〟という家格を突くしかないのだろう。
アップルビー男爵家の面々は爵位の低さなど意にも介していないのだが、それでも姉の柔らかな部分であることに違いはない。
しかしドラゴンの卵密猟事件を解決したことで、マリアベルは王家と政治の中枢を担う貴族たちから絶大な信頼を得ることとなった。
国そのものともいえる者たちから自力で信望をもぎ取った姉は、まったく〝おもしれー女〟であるとロレッタは思う。
そして〝金翼の慈悲〟と呼ばれる物腰の柔らかさや優しさは嘘ではないが、この男もまた〝おもしれー男〟である。
なにせ父と祖父母に頼み込み、婿入り前から髪はカツラ、顔はリチャード特製の認識阻害眼鏡で隠してアップルビー男爵家の使用人として我が家に住み込むような男だ。
ちなみに祖父と魔道具をいじって遊んでいるロレッタには、眼鏡が魔道具であることはすぐに分かった。
疑問は調べないと気が済まないたちのロレッタは、すぐに祖父に事情を聞いたのだ。
最初は口を閉ざしていたが、孫大好きなじーじの抵抗は一分ともたなかった。
正体を隠したのは、我が家の性根と、主にマリアベルの人間性を確かめるためだったはずだ。
この家に執事として勤め始めた当初はマリアベルの言動にいちいち驚いていたし、家族が集まる場に居心地悪そうにしていた。
だが、すぐにアップルビー家に染まった。
なにせ純真無垢で儚げな美人が、自分に惚れたといって懸命にその好みに合うように努力する姿を間近で見続けるのだ。
それでマリアベルに惚れなければロレッタがそいつの首を絞めている。
文通でウィルフレドが『面白い女性が好み』と書いたのは、そのまま『面白い女性が好み』の意味だ。
手紙を読ませてもらったが、ロレッタにはそれ以外に意味を読み取れなかった。
それなのになぜ婚約者の好みの女性になる努力が、ドラゴンの卵密猟事件解決になるのだろう。
ロレッタにはさっぱり意味がわからない。
「お姉様の命令で密猟者を斬ったと聞いたのです」
ちらりと見上げて反応をうかがうと、彼は眼鏡の下で鮮やかな海の色の瞳に笑みを含ませて「はい」と答えた。
「〝アップルビー家の人間となるのなら当たり前の心得〟だと言われましたので」
愛する人の家の嗜みならば、当然のことです。と言い切った男に、ロレッタは笑ってしまった。
〝おもしれー女〟と〝おもしれー男〟、なんともお似合いではないか。
「アップルビー男爵家へようこそなのです。……ウィルフレドお義兄様」
早く外見以外も好かれるようになるといいですねと、ロレッタは囁いた。
それが心に刺さったのかウッとよろめいたウィルフレドを、マリアベルが不思議そうに首を傾げて見ていた。
自分の執事の正体に全く気付いていない、きょとんとした目だった。
End
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