第八話 選択
ルシアンたちと怪物の均衡は既に崩れつつあった。
時間が経つごとに二人の体には幾つもの傷が刻まれていく。
怪物の手足についた硬いヒレがブレードとなり、攻撃の面積を広げることで完全な回避を困難にしていた。
「ッ……!」
「クッ!」
痛みが判断を鈍らせ、疲れが選択を狭まる。
このままではいずれ全滅する。
この状況を逃れるためには帰還魔法の発動を待つしかない。
——まだか!
ルシアンは魚人の頭部に盾を叩きつけながら必死に念じた。
これまでに幾度も攻撃を加えているにも関わらず、目のままの怪物は全くダメージを受けた様子がない。
その事実が彼を更に焦らせ、苛立ちを募らせた。
そして御し難いは感情はいずれ過ちを招く。
「——ッ!?」
怪物の回避をした直後、立て直しを間違えて体勢を崩す。
盾を支えになんとか踏み止まるが、その隙を付くように怪物が足を振り上げた。
咄嗟に盾を構えて体を隠し、その攻撃を受ける。
盾の強度が限界を迎え、粉々に砕けた。
が、その一瞬の抵抗に生じて横に転がり、なんとかなんを逃れた。
「クソッ」
すぐに起き上がり、視線を怪物に戻した。
目に映ったの怪物が掌から生み出した水を自身の周囲漂わせている姿だった。
水の動きは激しさを増し、激流となって怪物を覆い隠す。
あれはヤバイ。
彼は本能でそう悟った。
位置が近すぎる。
出来る限り距離を取らなければならない。
——間に合わなぇッ!!
被弾を確信した時、彼の腕をアリエルが掴んだ。
「ルシアン!!」
彼女は剣を手放してルシアンを抱き寄せると、そのまま彼を抱えて怪物から離れるように飛んだ。
手放された剣は光輪へと形を戻すが、それだけに終わらず回転しながらその大きさを広げていく。
直径が二メートルを超え、そのまま二人を囲むと更に回転の速度を増した。
光輪は天蓋を造り出し、二人を包み込んだ。
次の瞬間、怪物の周囲の水が全方向に弾けた。
凄まじい水の圧力が生み出され、怪物を中心に地面が抉れ、巨大なクレーターが作り出された。
二人は光輪に守られたものの、その衝撃で後方へと大きく吹き飛ばされた。
地面に投げ出されると、光輪は大きさを元に戻してアリエルの頭上に戻った。
「まじで助かった。ありがとう——」
ルシアンが礼を言いながら彼女を見るが、当の本人は息も絶え絶えで地に伏していた。
「はぁ、はぁ……どういたし……まして……はぁ……」
「アリエル!!」
ルシアンは名前を呼びかけながら彼女に肩を貸して上体を起こす。
顔色が悪く、全身に大量の汗をかいている。
そうなった理由はなんとなくだが理解できていた。
——当然だ、天使の光輪の力は無尽蔵じゃない! これまでの戦闘に加えて今の防御! アリエルの体力ももう限界だ!!
ルシアンは彼女の体を支えながら立ち上がる。
あの大規模攻撃のあと、なぜか怪物はそのまま立ち尽くしている。
しかしいつ攻撃が再開するかもわからない。
さらに焦りを増す、彼の耳にガレオの声が届いた。
「アリエルさん大変だ!! 発動しない! 帰還魔法が発動しない!!」
「!!?」
「なッ!!?」
驚く二人だったが、そんなことは関係ないと言わんばかりに怪物が攻撃を再開した。
二人の元に駆け寄り、拳を振り下ろす。
ルシアンはアリエルを抱き抱えると、その場から離脱して攻撃から逃れる。
そしてガレオたちの元まで走ると、彼女をゆっくりと地面に下ろした。
そしてまた怪物の元へと走る。
「どういう……こと……?」
未だ息が整っていないアリエルは絞り出すように、イリアスに尋ねた。
目尻に涙を浮かべてスクロールに向き合う彼女は震えた声で答えた。
「ダンジョンの外に接続出来ません! さっきの階層で確認した時は問題なかったのに……おそらくこの階層のなんらかの要因が外との繋がりを遮断しています!!」
——外との遮断……まぁおそらくなんらかの結界が張られているんだろうなぁ……外部からの攻撃から身を護るには魔法の効果を及ばなくするのが一番手っ取り早いし……珍しいことだけどよりによってここがそうか……どうする?
ようやく息が整う。
頭に十分な酸素が周り、思考が晴れてきた。
こんな時でこそ、高等級の自分が冷静に判断を下さなければならない。
——一番手っ取り早いのが上の階層に逃げてそこで帰還魔法を発動すること! もしかしたら階層が違えばあの怪物は襲ってこないかも……もし追いかけてきたら? こことは違って狭い空間で奴の足止めが出来るのか? そもそも奴の攻撃を凌ぎながらこの長い階段を上がりきって上の階層に辿り着けるのか? このボロボロの状況で! じゃあ……誰かが囮になる……?
それは一瞬の思考だった。
様々な可能性を模索し、なんとかここから生き残る方法を導かなければならない。
ここから少しでも多くの仲間が生き残る道を。
……例えそれが、誰かを切り捨てる選択であっても。
彼女は周りの仲間を見た。
——ダイは論外、イリアスちゃんは帰還魔法を発動しなければならない、リーエンちゃんには戦闘能力はない。ガレオも負傷していてまともに戦える状態じゃない。じゃあ——
「ぐぁッ!」
その時、怪物の攻撃を受けて彼女たちの元にルシアンが飛ばされてくる。
しかしすぐに立ち上がり怪物の方を見た。
怪物は彼らの元へとゆっくりと歩み寄ってくる。
それはまさに死神の足音に等しかった。
——この中で誰かが足留めを……今最も戦闘能力が高い、かつ長い間生存を見込める誰かが……
彼女はふとルシアンを見る。
彼も心配するように横目で自分たちを見ていた。
視線が交差する。
耐えきれなくなって目を瞑り俯いた。
やがて、決心したように目を開け、皆の前に向き直る。
「みんな聞いて」
時には残酷な選択を下さなければならない。
三等級冒険者として、命を切り捨てる、残酷な選択を。
「帰還魔法を発動させるために、私たちは上に階層に戻らなければならない。でもそのためには奴の足止めがいる。誰か一人……」
歩み寄る怪物を一瞥したあと、彼女は口を開いた。
生き残るための選択を実行するために。
「足止めは私が——」
「俺が行く。そうだろ?」
彼女の言葉を遮り、ルシアンが宣言した。
その言葉に彼女は目を見開く。
お構いなしに彼は言葉を続けた。
「イリアス、帰還魔法を発動させるまでどれくらい掛かる?」
「……十五……いや、十分」
「分かった、じゃあ十五分時間を稼ぐ。そんだけ経ったら俺も階段を登って上の階層に戻る。そうしたら帰還魔法で外に出て全員生存。そういう作戦だろ?」
「……」
ルシアンは笑みを浮かべながらアリエルを見た。
アリエルはそれに答えられずにいた。
あの怪物を相手に一人で十五分耐える。
出来るはずがない。
しかし彼以外の誰かが残ればその可能性は更に低くなる。
仮に彼と一緒にアリエルかガレオのどちらか、或いは両方が残ったとしても、今の彼女たちでは彼の足手纏いになる。
そうだ、彼女は理屈では全部分かっている。
「さっきアリエルには助けて貰ったからな。これで借りはチャラだ」
——ッ! 違う! そうじゃない! こんなことの為に助けたんじゃない! その程度で! だって私はあの時君に……!
彼女は頭の中で彼と初めて会った日のことを思い出す。
今にも怪物のもとへ走り出そうとしている彼を止める為、彼女は口を開いた。
「ルシ——」
「アリエル!」
しかしそれを察してか、ルシアンの声が彼女の声を掻き消した。
「いやほんと……気持ちは痛いほど分かるんだけどさ……時間がないから早くしてくれねぇかな……ッ!!」
「!!」
彼の言うとおり、怪物はすでに目の前まで迫っていた。
覚悟を、決めなければならない。
「みんな、そういうことだから……撤退するよ」
アリエルは決断を下した。
その言葉にガレオは何か言おうとしたが、二人の覚悟を察すると歯を食いしばって耐えた。
重症のダイを抱えて、ルシアンに背を向ける。
「死ぬなよ」
ガレオはそう言い残すと、階段の方へと足を進める。
彼の後を追って他の者たちも走り出す。
その様子を見た怪物は足を早めた。
ルシアンは怪物の前に立ちはだかる。
彼に放たれた拳を躱し、側頭部に肘を叩き込む。
間髪入れず、肋骨に膝を叩き込み、そのまま怪物の膝を蹴って後方に飛んだ。
すると一瞬、彼の全身が熱を帯びるような感覚がした。
彼はこの感覚に覚えがある。
「ルシアンさん!! 今貴方に私たちに施していた分の加護を施しました。ダンジョンに潜る前に施した加護が消えるまでは、重ね掛けられた分能力が上がるはずです」
階段を駆け上がるリーエンの声が響き渡る。
そう、この感覚はリーエンの奇跡による加護が付与される感覚だ。
ダンジョンに潜る前、彼はリーエン自身を含めてその身を加護が施されていた。
これによりささやかではあるが身体能力と魔力の出力が上昇する。
「どうか死なないで!」
「生き残って」
リーエンのその叫びに続いてイリアスも彼を励ました。
最後にアリエルが彼に叫ぶ。
「ルシアン! 限界が近づいたら時間に関わらずすぐに上がってくるんだ!」
その言葉に対してルシアンは答えず、怪物との戦闘を続ける。
それから数十秒後、四人の足音が遠退いていき、最後には聞こえなくなった。
注意を自分に向ける必要がなくなった彼は一旦距離を取った。
そして精一杯の強がりの言葉を怪物に投げかける。
「ようやく二人っきりになれたな」
引き攣った笑いを浮かべながら、彼は更に強く拳を固めた。