第四話
「はぁ……はぁ……っ!! 『スパイは常に二重スパイのリスクを孕む』っ!! ナガハマを送ったのは失敗だった。いくら獣化で蝙蝠の力を得た獣人といえども、人間社会での安穏な暮らしを唆されれば気持ちが揺らぐ。はぁ……はぁ……っ奴も俺たちも元は人間、理念だけで行動を支配できるほど上等な生き物じゃないって訳だ!!」
俺は素っ裸になって必死で逃げた。
ミモリには二手に分かれた方が逃走成功の確率が上がると言い、一人で逃げさせた。……ミモリとは俺の女だ。
政府が捕らえた獣人を保護・観察する“再指導センター”。建前上は獣人の健全な人間的生活を指導するその施設で、実際に行われているのは非人道的な虐待や実験。これまでに不完全ながら人工的な獣化を引き起こしたり、また既に広く使用されている変身抑制剤を開発したりと俺たちにとっては脅威となり得る機関だ。だが如何せん獣人に対する世間の風当たりが強いせいで、再指導センターが掲げる建前――「獣人の健全な人間的生活」――には非難の声も多い。それが獣災対全体の予算的困難となって現れている。再指導センターは皮肉にも、自らが掲げた建前で自らの首を絞めていることになる。
俺たちのグループは蝙蝠型獣人の代表として、ナガハマという男を再指導センターに送り込んでいた。目的は単純。スパイとして獣災対の動向を調査させることだ。事前に捜査状況が分かれば、逃げるのが容易になるのはもちろん、犯罪行為の計画も立てやすくなる。
蝙蝠の力はそういう場面で顕れる。熊や象など大型獣人と違い、蝙蝠が一匹いるかいないかというのは非常に把握し辛い。超音波での話し言葉は人間に聞かれることもない。まさに諜報活動にうってつけの能力という訳だ。
俺とミモリが奴らに見つかる前に倉庫から逃げ出せたのは、丁度俺たちの方に来た獣災対の隊員が武器迷彩に失敗していたからだ。蝙蝠獣人が視力を使える可能性に思い至り、視覚的なステルス迷彩を装備したのは流石に鋭い。しかしスーツ以外の、小型の装備品にステルス迷彩を施す技術が完全で無いという情報は既にこっちにも入っている。そんな情報を俺たちに流していたのが他でもない、ナガハマだった。今回はその情報源だったナガハマに裏切られた訳だが……
あの倉庫にこれまで蓄えてきた金を置いてなくてよかった。ナガハマの裏切りで失ったモノは少々の現金と武器弾薬等の武装、そしてグループを組んでいた少数の仲間たちに過ぎない。それらは全て金さえあればまた揃えることが出来るものだ。
蝙蝠型獣人などどこにでもいる。大抵の獣人は自分が半人半獣の身であることを隠している。そうでないものは獣化をコントロールできず、人間社会で暮らせなくなって“失踪”というかたちで姿を消す。或いは潔く人間社会に助けを求めるか。助けを求めた奴らが再指導センター行になる。
いずれにせよ、自らの運命に降りかかった災いに天と神を呪って燻ぶっている連中ばかりだ。そんな奴らを誘い込んで仲間にするなど造作もない。
「一緒にこの日本を征服しないか。獣人たちが本気になれば、ただの人間など簡単に服従させられる。俺たちにはそれが出来る。考えてもみろ。一方で人間が栄え、一方が獣人が虐げられていい理由なんてあるか?」
こう言ってやればよいのだ。どこか暗い森の中にでも招いて、俺がこれまでに殺した人間の死体なんかを数十体見せつけてやれば、簡単に理解させることが出来る。“獣人が持つ本当の力”ってやつを。そうやって独自の犯罪グループを作るのは誰だってやっていることだ。誰だってって言うのはつまり、猿型獣人も羆型獣人も、土竜型獣人も――。
俺はこれまでそうやってきたんだ。これからもそうやっていくだろう。これが獣人という運命を享受した俺の生き方であり、俺に付いてきてくれたミモリを守るただ一つの方法だ。
ミモリは上手く逃げただろうか。きっと逃げたはずだ。
俺の傍でずっと生きてきた。超音波での会話の仕方から裏の世界での身の処し方まで、何から何まで俺が教えた。可愛い女だ。世間知らずで危なっかしいただの少女だったのが、男を知り、獣を知り、裏の世界を知って美しくなった。
さらさらの黒髪に隠れた耳。蝙蝠の力を得た副作用なのかミモリの耳は尋常でなく敏感で、少し撫でてやっただけで全身を震わせて感じる。ベッドの上でのなき声は、筆舌に尽くしがたい甘美だ。
一緒にいたい。ミモリをずっと守ってやりたい。俺が理想とする獣人の世界も、菊頭蝙蝠のグループも、全てはミモリとの楽しい暮らしの為に便宜上拵えたものであって、それ以上の意味は無い。
大丈夫、俺なら出来る。ミモリを見つけよう。また新しくグループを作ろう。そして昨日までと同じように、人間を殺し、奪い、獣人としての生を全うするのだ。
「はぁ……はぁ……そろそろいいかもな」
あのバカデカい音波放出機を恐れて蝙蝠に変身できなかったが、そろそろ変身してもいいはずだ。突入の瞬間に放出機を投げ捨てていたことを見ると、恐らく再充電が必要なタイプの兵器。予備を携行していた様子もない。
加えて放出機の役と突入の役で部隊を二つ用意していなかったことからも、獣災対が予算的な厳しさと戦っているという噂が真実だということが分かる。放出機はもう出てこないと見て良いだろう。であるならば、あとは蝙蝠型でいた方が発見の確率はグンと低くなる。
俺は蝙蝠になった。
人間が見るのとはまるで違う世界が俺の五感を支配する。
蝙蝠は世界を聴く――或いは嗅ぐ。
先ほどまで凪いでいた港近くの潮風が、強く吹き始めた。どうやら俺たちに運が向いてきたらしい。
立ち並ぶコンクリートの建物に風が当たって跳ね返り、風切り音を立てる。それら音の反響が、蝙蝠には建物の輪郭となって認識される。倉庫が数棟、何らかの小さな事務所が数棟……。風が強ければ強い程、音が大きければ大きい程、聴覚の世界は鮮明になる。そう、俺たちがこの舞多の港を基地にしていたのは、一つには聴覚に有利な場所だったからだ。昼は海から陸へ、夜は陸から海へ、風向きは二つに一つ。加えて止むときはぴたりと止み、吹くときは強く吹く風の性質も好都合だ。
海岸に備わった展望台……の作業員が休憩に使う簡易コンテナ。その中に、作業員が船上の人間とやり取りするのに使うのであろう無線設備がある。
俺は蝙蝠の姿のまま、開け放たれたドアの中に誰も居ないことを確認すると、中に入って再び人間の姿に戻り、ドアを閉めた。
「周波数は……四○○kHz。場所は……『西区の住宅街』」
いざというとき犯行グループの全員で集合するための暗号を、俺たちは事前に取り決めていた。
そもそも無線設備から発生するのは電磁波であって、俺たちが利用する超音波とは全くの別物ではある。しかしある一定の周波数帯の超音波と、ある一定の周波数帯の電磁波が相互に影響し合うことが知られている。
俺たちは電磁波が超音波を阻害するのを利用して、超音波が断絶する間隔でモールス信号を作成し、広範囲に届く蝙蝠専用の暗号放送をすることが出来るのだ。無論、そのためにはこうして電磁波を送受信できる設備が必要ではあるが……
「……送信完了」
あとはこれをミモリが聞き届けてくれることを願うのみだ。俺は俺で西区の住宅街に向かおう。