第二話
穏やかな晴れの日、壁面のあちこちに錆の浮いたオンボロ五番倉庫はとても静かだった。
舞多海岸の波は凪いで青く輝き、禿げたオヤジがくしゃみでもしようものなら海鳥が驚いて飛び立ってしまうのではないかと思われる程静まり返っている。もっとも元からくしゃみはおろか隊員との雑談も密談もNGである。犯行グループは聴力に秀でた蝙蝠型獣人。本来なら倉庫から一〇〇メートル離れたこの場所で革靴を鳴らすことすら許されない。それがこうしてロケランのような兵器を担いで立っていられるのは、足音を九九.九九パーセントカットしてくれる優れた消音スーツのお陰だ。首筋のスイッチを押せばステルス迷彩だって起動できる。
まったく、あんなちっぽけな倉庫に十五人も隠れているとはとても信じられないわ――。
私は脳波で操作できる拡コンで命令を出した。
『司令官より決行の許可が下りた。総員ステルス迷彩起動。威圧機安全装置解除。前進を開始し所定の位置につけ』
他の隊員は散らばって倉庫を取り囲むように布陣している。
作戦自体は至ってシンプルなものだ。
・目標に近づく
・兵器の引き金を引く
・機を見て全員で突入
・制圧
見たところ倉庫の窓ガラスは殆ど閉まっている。が、壁面のどこに小さな抜け穴が開いているかわからない。体長六~八センチメートル程しかない菊頭蝙蝠を見失わないようにするためにも、慎重に状況を確認しながら進まねばならない。
消音スーツは体表面全体をダイビングスーツの様に覆っている。足音だけでなく体にぶつかってくる全ての音を吸収する効果がある。蝙蝠の反響定位は自らの放出した超音波の反射によって障害物や獲物を特定する能力だから、その超音波を吸収してしまえば蝙蝠は我々を認識できないという訳だ。
――じゃあ何でステルス迷彩なんか起動したのかって?
近年こういう研究がある。
一説によると蝙蝠は、耳だけでなく目でも地形を読み取っている。無論ヒト程の視力を持っているとは考えにくいが、それでも首輪大蝙蝠などのオオコウモリ科の大型種を見てみると、反響定位を使わず、視力に頼って果実を探し回る種が存在することがわかっている。それを考えれば同じ哺乳綱・翼手目のカグラコウモリ科やキクガシラコウモリ科の小型種が視力を用いていても、なんら不思議は無いという訳だ。
それに……奴らは獣人だ。
ご想像の通り獣人については分かっていないことも多い。
動物的な能力とヒトの姿を両立させる獣人が存在するとの噂もある。もし万が一奴らが、蝙蝠の姿のままヒトの視力を使用できたとしたら……
と、こんな妄想にはあまり意味が無かったかな。
そもそも人間の知力を持ったまま動物に変身できるということ自体が既にファンタジーだ。今更視力くらいで戦々恐々としている場合ではない。
やれることは全てやる。やれそうなことも全てやる。やれなさそうなことも全て。そういうスタンスが獣災対には必要なのだ。
カワカミから連絡がきた。
『隊長。全員が所定位置につきました。発射準備も全員が完了です』
『よし。総員五○○○○Hz威圧機最大出力 発射』
私は肩に担いだ兵器の引き金を勢いよく引いた!
蝙蝠の可聴領域ドンピシャの爆音。飛行機のエンジンと同じ一二〇dBの音圧。布陣した総勢二〇名の第二部隊が四方八方から倉庫目がけて超音波を発し、目に見えない空気の振動が埠頭に横たわる五番倉庫を包み込む。
繰り返す。五○○○〇Hzはヒトの耳には聞こえない。舞多海岸は爺婆が一○〇人だって散歩できる長閑な陽気のまま!
聴力を奪われ反響定位を失った蝙蝠型獣人の反応は次の二通り予想される。
・気絶して蝙蝠状態のまま倒れている
・ヒト状態に変身し、倉庫を出て逃走を図る
どちらにせよ大きな困難は無い。蝙蝠状態なら発見し次第、変身抑制剤を打ち込んで身柄を回収。ヒト状態なら麻酔弾を撃ち込んで拘束。いずれにせよ報告された十五人を確保できさえすれば状態はどうでもいい。不測の事態には射殺も許可されている。
『カワカミ 突入します』
『イカルガ 突入します』
続々と報告が上がる。部下の全員が突入したことを確認し、満を持して私も突入する。
ガタつき気味の扉を蹴破って中に入る。
中は真っ暗だった。外からでは分からなかったが、窓ガラスにはしっかりとカーテンが引かれ、日光が遮断されていた。小学生の頃の音楽室の黒いカーテンが脳裏をよぎる。ベートーヴェン、モーツァルト、リスト、ショパン。数々の肖像画の中にきっと――ドラキュラの肖像画。如何にも蝙蝠が好む環境だ。
光が足りなかったので、拡コンの暗視機能を起動した。それまで見えなかった無数の直方体が眼前に現れた。整然と並べられたコンテナだ。船で輸入されてきたものだろう。そのコンテナの間に出来た通路に、私はさっそく一匹目の犯人を発見した。
体長およそ六センチメートル、翌開長も三○センチメートルに満たない菊頭蝙蝠。殺到した超音波がモロに直撃したのだろう、翼で身体を包み込んで地面に倒れ込み小さく悶えている。
左前腕に装着した変身抑制剤は先端が尖った注射器型の装備。私はそれを蝙蝠の肩部分に刺し、小型動物用に調整された少量の薬剤を注入した。
抑制剤には麻酔効果もある。蝙蝠はぐったりと動かなくなる。捕獲用の袋に身柄を入れる。一匹目の捕獲が終わる。
他の隊員から報告が上がる。
『タダオキ 蝙蝠状態で身柄を一匹拘束』
『サクマ ヒト状態の犯人を拘束 眠らせてあります』
一匹捕獲したからとて油断は出来ない。
ヒトの姿に戻った獣人が最後の抵抗を見せるのが、獣災にありがちなパターンだ。
「はぁ……はぁ……クソッ!! ナガハマの奴が裏切りやがったんだ!!」
全裸の男がコンテナの間を走ってこちらに向かってくる。手には鉄パイプを持っている。銃やナイフを手にする暇が無かったか、それとも最初からそれらが与えられない程の下っ端だったか。しかし協力者Nのことを呼び捨てにしたところを見ると、そう身分卑しき人物でもないのかも知れない。
私は犯人に向かって叫んだ。「止まれ!! 止まらなければ三発撃つが、止まれば二発で済ませてやる!!」
「はぁ……はぁ、クソ女が生意気なことを言ってやがる!! ヒッ……ヒヒヒッ……!! 覚悟しやがれ!! お前を犯す!! 俺は三発で済ましてやらねえぜ!!」
なおも男は疾走を続ける。
犯人の言葉を聞いた私の中に、激しい憎悪が渦巻く。コイツらは数人の罪なき女性を痛めつけ辱めた、本来なら死すべき者どもなのだ。
私は反射的に撃った。
もちろん麻酔銃だ。可能な限り獣人犯罪者は生きたまま捕獲しなけばならないという、極めて拘束力の強い努力義務が私を束縛しているから。
額に一発。胸に二発。
私と彼との間に隔たるほんの十数メートルの距離。彼は必死に私目がけて走ってくるが、やがて麻酔が効いて足取りがちぐはぐになり、鉄パイプを振るうことなく私の足元に倒れ伏した。全裸の男の背中が冷たい地面に這いつくばる。