見ていた
見ている。じっと、見ている。
俺の一挙一動を、逃すことなく。
視線を上げる。
部長席の奥の、ホワイトボードの裏から。何の感情も写さない、うつろな瞳が、こちらに向けられていた。
『ヒッヒヒヒヒヒッ!!!』
不自然につり上げられた口から紡がれる笑い声。
耳にこびりつく。
気持ちが悪い。
◇
ある日、目を覚ますと、部屋の中に男がいた。
どんな?
普通のおじさんだよ。何の変哲もない、スーツ姿のおじさん。
顔?
……あんまり見ないようにしてるからなあ。
目はぎょろっと大きいよ。肌は青白くて……あとは想像に任せるけど、そこら辺はあんまり気にしない方が良いと思う。本物はマジで気持ち悪いから。
そいつは、部屋の隅っこに三角座りをしていた。体をぎゅっと縮めて、顔だけを上げていた。俺の方を、じっと、見ていた。
最初は驚いたよ、もちろん。
しかもその日は二日酔いで、頭痛も相まって、わけわかんなくて泣きそうだったよね。
ひとり暮らしのアパート。普通だったら不審者だと思うだろうけど、俺はすぐに理解した。
これは、幽霊の類いだと。
そういう飲み込みだけは早いんだ。
それから、毎日、男は俺を見ている。
どこに行っても、誰といても。
男は、必ずどこかにいる。
今でこそ、こうやって平然を装えるけど、最初は動揺したよ。
もう怖くて怖くて。
でも、何をしても男はいなくならなかった。
お祓いもしたし、盛り塩もしたし、悪霊退散のお札も買ってみた。
全く効果はなかった。
霊能者曰く、それは悪霊じゃないからなんじゃないかってさ。実際、ずっと見られてるってだけで、実害はないわけだし。
でも、俺はそうは思わないんだよね。
皆は、四六時中誰かに見られ続けるっていう経験したことある?
視界の端に、虚ろな顔をしたおじさんがずっと写り続けるんだよ。
まさに、悪夢だよ。
この男は、俺が壊れる日を待ってるんじゃないかって思うんだ。
1番嫌な瞬間は、朝、目覚める時。
全部夢だったんじゃないかって期待するんだけど、やっぱりあいつはいるんだ。
見たくないのに、常に探してしまう。「いなくなってればいいのに」って。
男が現れて1ヶ月経ったころ、ついに限界に達した。
目が覚めて、男がぎょろりと俺を見ていて、猛烈に腹が立ったんだ。
いつまで俺に付きまとうつもりだって。
台所から包丁を取り出した。
意味がないことはわかっていたけど、怒りのままに、男に振り下ろした。
フローリングに傷がついて、男は消えた。
嬉しかったよ、あの時は。
久々に自由になった気持ちだった。まさか幽霊に物理攻撃がきくなんてね。
俺は久しぶりに、誰の視線も気にしなくて良い1日を過ごした。楽しかった。
だって、どんなに見渡しても、探しても、あの男はいないんだ。
でも、その時間は長くは続かなかった。
翌朝、目が覚めたとき、再びあの男がいた。
しかも、至近距離から俺をのぞき込んでいた。
驚いたよ、本当に。
前までは、少し離れたところから見つめるだけだったのに。その日から、男は俺のすぐ側にも現れるようになった。
俺は、どこにでもいるようなサラリーマン。
4年制の大学を卒業して、地元とは離れた土地で就職した。狭いワンルームでひとり暮らし。
毎日毎日、パソコンに向かって変わり映えのない作業ばっかり。俺の替えなんていくらでもいる。給料は安いし、打ち込める趣味もない。大学時代から付き合っていた彼女にもフラれた。それでも、生きるためには働かないといけない。
正直、うんざりしていた。でも、そんな日々も今よりは幸せだった。
失ってから気づいたけど。
皆も、感謝した方が良いよ。普通の日常を過ごせるのって、幸せなことだ。
どうやら、男に物理攻撃をすると一度は消えるが、1日のインターバルを経て、復活するらしい。
しかも、復活した後は、男の行動がワンパターン増える。
最初は遠い場所で三角座りをして俺を見るだけだった男は、今や、笑い声をあげるようになった。
立ち歩き、ふとした瞬間に、すぐ目の前にいる。壁や机から頭だけを出すこともあった。変わらないのは、じっと俺を見続けているということ。
どんなときも、365日24時間、男は俺を見ている。
何をしても、男は消えてくれない。
俺は一生このままなのだろうか。
◇
男が現れてから1年が経った。
『ヒッヒヒヒヒヒッ!!』
今日も男は笑っている。これにも慣れてしまった。
仕事仲間との飲み会の帰り道。喧噪の中、フラついた足取りで帰路を辿る。
酒は好きだ。束の間、嫌なことを忘れさせてくれる。
ふと、視線を感じて立ち止まる。
男が、俺にぴったりとくっつくように立って、すぐ右側からのぞきこんでいた。
うつろな目が、視線を合わせようとするように動いている。
「いい加減にしろよっ!!」
男を払うように、右腕を力強く後ろに振った。その反動で、ふらふらと左側によろけて、膝をついた。
なんだよ、せっかく良い気分だったのに。
下はコンクリート。スーツは大丈夫だろうかと立ち上がると、正面の路地裏に花束が置かれているのが見えた。日本酒の瓶もある。
たまに事故が起こった交差点とかで見るやつだ。
ああ、そうだ。そんなこともあったな。
……興醒めだ。
帰ってさっさと寝よう。寝ている間は、あいつの顔を見なくて済む。
「待ってください」
背後から声をかけられて、振り返る。
そこには、女性が立っていた。
目が大きくて、スタイルが良い。美しい女性だ。
ぼんやりと見覚えがある。
「1年前、ここにいましたよね」
「えっと、すみません。どなたですか」
「……そこの」
女性は、路地裏を指した。
「1年前、私の父は、そこの道で殺されました」
「……父?」
思い出した。
確かに俺は、この辺りで彼女を見たことがある。
……そうか、親子だったのか。
高級そうなスーツに身を包んだ男と、若くて綺麗な女性。
連れ立って、歩いていた。
1年前の、この道を。
「どうりで、よく似ていますね」
女性は大きな目をさらに大きく開いた。そうしていると、まるで……。
「あなたですか」
「なにがです?」
「あなたが、父を殺したんですか!?」
「何言ってるんですか。そんなわけないでしょう」
女性の話には脈絡がない。ただ見かけたというだけで、俺が犯人になるものか。
『さっきから、私達を付けてますよね?』
『……素敵なスーツだなと思って』
あの日、薄給が振り込まれた。彼女にフラれた。コツコツ貯めて買った指輪は、一度も日の目を浴びることはなかった。
溺れるように酒を飲んだ。
酒は好きだ。束の間、嫌なことを忘れさせてくれる。
「答えてください!! 父はあの日、あなたと話すと言って、帰ってこなかった!」
「勘違いじゃないですか?」
『飲み過ぎですよ』
『……一緒にいた方、とても綺麗ですね』
ふと見かけた男女2人組。男は高級そうなスーツに身を包み、艶々の革靴を履いていた。寄り添っている女性は若くて綺麗だった。
片や、安物のスーツで、彼女にフラれて、飲んだくれている自分。
何もかもが違った。そう、何もかも。
だから、なんとなく、後ろをついていった。
「覚えてません。人違いじゃないですか」
「嘘をつかないでください! さっき、似てるって言いましたよね。あなたは父を知っていますよね!?」
『あなたには関係ないでしょう! 早く帰りなさい』
『関係ない……?』
俺のことを気味悪がった男は、女性を先に店の中へ入れてから、俺のもとへ来た。
別に、どうこうするつもりなんてなかった。
ただ、なんとなく、酔った頭で、この美しい世界を生きる2人に1滴の毒を垂らそうと思い至っただけだ。
とどのつまり、脅かしてやろうとしただけだった。
なのに、男は容赦なく、俺を突き落とす。
2人には、『関係ない』、空虚な世界へ。
だから、カッとなった。
「……俺、その目嫌いなんですよ」
彼女の後ろから、俺を凝視する、その目。
この1年、ずっとずっと。
気持ち悪かったよ。
「だから、もう、付きまとわないでください」
『ヒッヒヒヒヒヒッ』
耳に残る不快な響き。
あの日、その笑い声をあげたのは誰だっけ。
あれから、どのくらい経っただろう。
見ていた。じっと。
俺は、彼女のことを。
ただひたすら、じっと、見ていた。
彼女の一挙一動を、逃すことなく。
この空虚な世界へ、ひきずり下ろすために。
わかるよ、今なら。あんたの気持ち。
こっち側も、案外楽しいよな。
だから、早く、殺してくれ。もう1度。
そしたら、もっと近くで見れるから。
あなたも、誰かに見られていませんか?