あの日見たもの
三題噺もどき―ひゃくよんじゅうはち。
お題:鯨・かくしごと・白い三日月
まだ、夏の日に、鬱陶しさを感じていなかったあの頃。
刺すような日差しなど、気にもせず、ただ無邪気に駆けていたあの頃。
「……」
その日は、祖母の家に来ていた。母方の祖母の家だ。
遠くを見ると、海が広がる、とてもきれいな街並みの場所。
空のさっぱりとした青と、海の深く静かな青。二つの青を、一緒に見ることができた。
「……」
祖母の家は、平屋だが、坂の上の方にあったので、空と海と、立ち並ぶ家々が一望できた。
あの頃は、町なんかは見ないで、空と海ばかり見ていた気がする。
「……」
あの日。
その家に住んでいた、祖母が亡くなった。
そのお葬式やらお通夜やらの準備で、親族はみな、広い平屋の中で、あっちにこっちにのてんやわんやだった。遠くに住む親せきに連絡をしたりもしていたのかもしれない。近くに住んでいた親族は、皆総出で、準備にあたっていた。
「……」
もちろん、母も例外ではなく。家の中で走り回っていた。祖母の子供としては、母は長女にあたるから、尚更かもしれない。 その頃は、そんなこと知りもしなかったし、知ってても、分からなかったかもしれない。
「……」
ただ、その日は。自分の誕生日だった。
それなのに、大好きな祖母はいないし。他の親戚は見てもくれない。母だって、今日はなぜか「大人しくしてなさい!」なんて、叱りつけてきた。
誕生日なのに。誰も。祝ってもくれないし、歓迎もしてくれない。
それが、訳も分からない悲しさと、怒りとなって渦巻いて、ふてくされていたように思う。
とはいえ、家の中にいては、大人たちに邪魔もののような目で見られるし、居場所がなかったしで。1人、庭先に座っていたような気がする。
「……」
本心のところでは、家から出て行ってやろう、ぐらいには思っていたと思う。だけど、そんな勇気があの頃には無かった。だから庭先に座っていたのだ。
祖母の家は、石垣の上というか…道路から歩道を横切り、そのまま坂を上る形になっていた。ような…。その石垣の上で足をだらりとおろして座っていたのだから、今思えば危ない所にいた。一歩間違えれば、大けがをしていたかもしれない。
―まぁ、とにかく。祖母宅の、庭先のあたりで、座っていた。
「……」
その姿勢でいても、海と空は、見えていた。
そう思うと、かなり高い所にあったのかもしれない。もう、ここ数年行っていないから、記憶も曖昧だ。今度いってみるかな…今は叔父家族が住んでいるはずだ。
「……」
誕生日だというのに、誰にも祝われず、1人ふてくされていたあの日。
雲一つない空と、波が所々で小さく浮かぶぐらいの、穏やかな海。
スカイブルーのきれいな青と、コバルトブルーの深い青。
二つの青を、小さな二つの瞳で、なんとなく見ていた。
「……!」
それは突然現れた。
美しい空の中に。
ぼーっと眺めていたから、いつ現れたのかも、ずっとそこにあったのかも分からない。
ただその瞬間に。それが目に飛び込んできた。
「……?」
それは、白い月だった。
丸い満月でも、オムライスのような半月でもなく。
弓のような三日月だった。
白い三日月。
その頃、月と言えば黄色で夜の空にあるものだと、思っていたから、ひどく驚いた。
その驚きと共に、母に伝えようと、後ろの家を振り向いた。けれど、大人たちは相変わらず、ドタバタと走り回っていた。目の前のことでいっぱいいっぱいだと言うように。
「……」
もう一度視線を戻しても、それは、そこにあった。
真っ白な三日月。
―今思うと、それは、死んだ月だったのかもしれない。白く、薄く、儚げで、今にも消えそうなものだった。
「……!」
それを不思議に思ったまま、ジーとみていると、今度は深い海から何かが跳ね上がった。
大きな魚が跳ねただけかとも思ったが、それは、勢いそのまま、空へと浮かび上がった。
美し空を悠々と泳ぎ始めた、それは、巨大な、白い鯨だった。
「……?」
雲一つない空に。
白い三日月と。
白い巨大な鯨。
何かの見間違いだと、大人ならあしらう。
けれど、その頃は幼い子供で。不思議なことが大好きで。
自然と、それに、目が奪われた。
「――!!」
ジーと、その鯨が泳ぐのを見ていると、ふいに鯨がこちらを見た。
はっ―と、目が合った。大きな体にしては、小さな瞳と。ばっちりと。
鯨も、こちらに気づき、その動きを止め、こちらを見つめ返す。
「――!?」
すると、何を思ったのか、ぬぅーと、その顔をこちらに近づけてきた。
驚きと、恐怖で動けないままに居るのを、真正面からしとーと、見つめてくる。
―なぜかその瞳だけは、海と同じ深い青だった。
「―!」
数秒そうして、見つめあっていた。
すると突然、その鯨は、微笑むように、その目を細めた。
そして、ふ―っと息をした。それに乗せて、声が聞こえた。
『気づいたんだね。ありがとう。けれど、このことは、誰にも言ってはいけないよ。』
―私と、君の、かくしごと、だ。
そう言って、鯨は、空へと帰っていく。
最後に、その大きな体をモノともせずに、ぐるりと旋回して見せた。
―白い、三日月は、その鯨と共に消えた。
「……」
あの日見たものが何なのか、いまだにわかってはいない。
母やほかの親戚に聞こうにも、言ってはならないと、言われてしまえば、聞けまい。
「……」
二十歳になった今でも、その鯨と三日月の事は、胸に秘めている。
いつまでも、これは、1人と1匹の、かくしごとなのだ。