冬も蝶も、そんなに嫌いじゃないけどな。 2
「へぇ…」と興味なさげな態度を取る。
その内心、春泉はほんの少し胸を撫で下ろしていた。
聞き慣れた嘘吐きの声だ、と心の中だけでほくそ笑む。
過敏な聴覚のおかげで、声の主の感情の機微を読み取るのには苦労はしなかった。もちろん、分かりやすい相手だけだが。
柊は、あからさまに何か気に入らないようだ。
残念ながら、気に入らない、ということは分かっても、その理由は、『対人関係』という言葉が冬眠したままの自分には想像のしようもない。
少し遠い春を嘲笑うかのような冷たい空気が、三人の間を駆け抜けた。
もちろん実際には、外との隔壁とも言える廊下の窓は全て閉ざされていたので、そう感じただけである。
その剣呑な雰囲気を察したのか、いや察せないほうがよっぽどおかしいのだが、とにかく、冬原が困ったような顔で頬をかいて提案した。
「じゃあ、行こうか春泉さん」その言葉に柊が直ぐさま反応する。「ちょ、ちょっと夕陽」
「何?どうせ生徒会の仕事、放ったらかしで来たんでしょ?」
予想外に冷たい発言に、柊が「うっ」と言葉を詰まらせながらそっぽを向いた。
それからややあって、視線を彷徨わせていた柊が声を発する。
「また、放課後」
本当に言いたいことは、きっと別にあったのだろう。
どこか不満が残るため息みたいな言葉を呟いた柊を見て、冬原は、「しょうがないなぁ」と呟き、すっ、と相手のそばまで歩み寄った。
冬原は、ぎゅっと自分の左手で、柊の左手を握った。
どうして右手を握らなかったのかが、少しだけ不思議だった。
その左手の甲に、うっすらと傷跡が刻まれているのが見える。白い肌に残った傷は、雪原の轍のようだ。
一瞬で柊の頬が真っ赤に染まり、慌てた様子で何度もこちらと冬原を交互に見比べて、小声で何か囁いている。
聞こうと思えば聞こえそうなものだったが、どこか他人の秘密を覗き見るような、薄汚い真似をするみたいで嫌だったので、さっとヘッドフォンを装着した。
静寂が訪れ、しばしの間、目の前の光景に意識を傾注した。
まるで無声映画のワンシーンだ。
ふわりと笑う冬原に、紅葉を散らしたまま激しく瞬きをする柊。
対象的に見える彼女たちなのに、元々は一つのものであったのではないか、と錯覚させられるのは、一体何故なのだろうか。
繋がれていた手が離れる。
離れる、というのはやはり、元は一つであったことの証明なのではないのか。
そんな下らないことが頭をよぎった。
カメラのフレームの中に収まりきっていることが不思議なくらい、幸せそうな光が見える。
暗鬱とした影も感じたが、それは二人の背後の陽光が雲に遮られたせいだろう、と勝手に結論を出した。
どうやら話はついたらしい。
柊は黙ったまま自分たちを見つめていた春泉の視線に気が付くと、申し訳無さそうに何度か頭を下げて、それじゃあ、と唇の形を変えた。
手を振って彼女を見送った冬原は、ゆっくりとした動作でこちらを振り向くと、ヘッドフォンを外すように手振り身振りだけでやんわりと伝えた。
しょうがないので、左耳側を少しずらす。
「ごめんなさい、春泉さん」と大して思っていなさそうな顔で言う。
「別に」まともに返さず、「いいから、静かな場所に案内してくれ」と当初の目的へと立ち戻った。
それを快諾した冬原は、柊が去っていった方向とは反対のほうへと廊下を進んでいった。
鬱陶しい生徒たちの視線を浴びながら、階段の前を通り過ぎ、突き当りにある明かりの消えた部屋の前で立ち止まる。
中からは人の気配は感じない。ルームプレートには『資料室』と消えそうな文字で書き込まれている。
冬原がおもむろに、懐から鍵の束を取り出した。
ジャラリと音を立てたそれを見つめながら、一体どうしてこんなものを持っているのかと不思議に思った。だが、直ぐに学校案内のために借りていたのだろうと思い直す。
シリンダーが回転する音が寂しげな廊下に木霊してから、冬原がドアを開けた。慣れた手つきで鍵を開錠した彼女は、片手を伸ばして春泉に中に入るよう促した。
彼女の大人びた雰囲気にマッチした上品な仕草に、何となく感心したような心地になる。
中へ足を踏み入れる。一段と空気が寒くなり、心なしか湿度も低くなっている気がした。
見るからに、日常的には使われていない様子だったが、中央の机周りなど、所々は綺麗にされており、時折利用されているのが予想できる。
中央の大テーブルを挟み込むように、両側の壁沿いに事務機が置いてある。上段はガラス張りになっていて中が見え、下段はスライド式になっているタイプのものだ。
決して広い部屋ではないが、冬原が戸を閉めて以降訪れた静けさを加味して考えれば、中々どうして居心地の良い場所だ。
自分より先に椅子に腰を下ろした冬原を見て、結構マイペースな人間なのかもしれないと考えつつ、その反対の席に座った。
トントン、と冬原が自分の耳を人差し指で叩いた。ヘッドフォンを外せ、ということだろう。一瞬の逡巡の後、大人しく従う。
おそらく、この部屋の環境と冬原の声量を考えれば、外しても大したストレスにはならない。
解き放たれた聴覚は、普段通りあちらこちらに手を伸ばし、音を拾いはしたものの、予想していたように無害な音のほうが圧倒的に多かった。
首にずらした黒のヘッドフォンを、丁寧な手つきで撫でながら、ぽつりと春泉が声を漏らした。
「落ち着くな、ここ」
こちらから声を発したことに、自分でも驚く。
これじゃあ、彼女とのコミュニケーションを望んでいるみたいではないか。
案の定、そう感じたらしい冬原が、小さく口元を綻ばせながら話しかけてくる。
「最近は使ってなかったんだけど…、とっておきの場所なの、ここ」
まるでガラスケースの中の宝物を眺めるように、うっとりと目を細めた冬原は、顔とリンクした声音で続ける。
「春泉さんも、私に声をかけてくれれば鍵を貸すから勝手に使っていいよ」
お前の許可が要るのかよ、という言葉が脳裏をよぎったものの、やはり彼女相手だとストレートな物言いは何故か憚られ、結局もっとマイルドな形になって口から飛び出した。
「冬原…さんが、ここの管理者なのか?」
後半は冗談で言ったことだったのだが、彼女は目を丸くして慌てて手を振った。
「まさか、違うよ。私は生徒会長に無理言って借りてるだけ」
生徒会長という単語から、先ほどの柊蝶華の顔が連想された。
無理を言ってとは語っているが、二人の間にそんな強硬的な関係があるようには思えない。それほどまでに親密な様子だったのだ。
鈍いエンジン音を立てて頭を回転させていた春泉に向けて、冬原が思い出したように言う。
「あ、それと、私のことは冬原でいいからね。一応、フルネームは冬原夕陽」
「え、ああ…」
何だか青春の一場面を切り抜いた言葉みたいで、気が引ける。自分にはあまりにも不釣り合いな輝きを帯びたワンシーンに、ゾッとした。