嫌な予感に限って、何故か当たるもんだ。
声は一つ上のフロアからしているようだった。その声を頼りに先頭の柊が駆けていくので、彼女の背中を追って自分と冬原も続く。
周囲の生徒たちも異変を察しているのだろう、ざわつきながらも声のしたほうを見つめている。何人かは、自分たちと同じように現場に向かっているようだった。
階段を一段飛ばしで上がって行った柊の姿が、すぐに見えなくなる。
自分たちにはそのような芸当はできないので、細かく刻むように一段一段上がる。
踊り場に到着した時点で、上のほうに人だかりが見えた。もうすでに何人もの生徒が集まっているが、その多くが遠巻きに何かを見ているようだった。
ちょっと走っただけで息が上がる運動不足の体に鞭を打ち、残りの階段を駆け上がる。
人の輪ができているせいで、肝心の向こう側が見えない。自分たちの身長では、背中しか視界には入らないのだ。
人垣をかき分けようかとも思ったが、三階は三年生の教室があるフロアなので、少し気が引ける。
どうしたものか、というか柊はどこに行ったのかと足を止めていると、冬原が大きな声を出しながら、自分の前にできていた壁に亀裂を入れた。
「すいません、通してください!」
こういうときの行動力はずば抜けている。
彼女が切り拓いた隙間に便乗するように体をねじ込む。
結局、こういうところだよな、と自分で自分が情けなくなった。
人波を抜けて、冬原の背中に追いつく。すぐそこにしゃがみ込んでいる柊の姿があったが、春泉の視線は全く違うところに吸い寄せられていた。
息を呑む。
目覚ましいほどの鮮やかさを放つ、ねっとりとした質感のクリムゾン。
それが血だと気づくのに、時間はかからなかった。
血溜まり、とまでは言わないが、少量の血液が薄く何本もの線を床に描いていた。
物語の中のような状況に、不謹慎ながら興奮気味の春泉だったが、屈んだ柊のすぐそばで倒れている人物の服装を確認して、鼓動が強くなった。
制服ではなかった。オフィスカジュアルの服装、教師だ。しかも、ついさっき見た覚えがある。
「鹿目川先生…」自分の口が勝手に動いた。
目の前の光景が、カメラのフラッシュのように網膜に焼け付く。
一瞬で、現実と想像の境界が曖昧になる。
これが本当に起こっていることなのか、まどろみの中の幻なのか、判断が付かない。
全身が硬直したように動かなくなった春泉をおいて、冬原が柊のそばに近寄り、同じように屈んだ。
「救急車は?」
「大丈夫、もう連絡してもらうよう頼んだわ。先生も直に来るはず」
「…階段から落ちた、にしては出血が激しい」
飛び散った血を一瞥した冬原が何か言っているようだったが、その声もまともに頭に入って来ない。
「階段から落ちた拍子に、目の上を切ったみたいね。大丈夫、見た目ほど酷い怪我じゃないわ」
その言葉を聞いて、魔法が解けたみたいに体が言うことを聞くようになる。
慌てて自分も二人のそばに駆け寄り、滑り込むみたいに、意識を失っているらしい鹿目川の横に膝をつく。
青い顔をしていたものの、確かに額の傷以外に外傷はなく、呼吸も間違いなくしていた。
上下する彼女の胸元に、これ以上ないくらいの安心感を抱く。
ふと、倒れた彼女の横顔に違和感を覚えた。別に何の変哲もない、血で汚れている以外は綺麗な横顔だったのだが、何かが引っ掛かった。
アシンメトリーの髪型、青くなった頬、形の良い耳、閉ざされた瞳。
どれもみんなと変わらない。自分の気のせいなのだろう。
もう一度、深く息を吐いて、今度こそ心の底から安堵する。
「鹿目川先生、ドジだなぁ、もう…」
柊がその発言を咎める素振りを見せたが、春泉の表情がとてもホッとしたものだったせいか、彼女もそっと笑って、横たわる鹿目川に再び目を落とした。
良かった、自分が心配しすぎだったみたいだ。てっきり例の事件がまだ続いていて、何か恐ろしいことになっているものだとばかり思っていた。
足がもつれて階段から落ちる、というのは間抜けではあるが、誰にでも考えられることだ。
だが、安堵に胸を撫で下ろしていた春泉に向けて、無慈悲とまでに感じられるほど淡白な声音で、冬原が告げる。
「…鹿目川先生のせいとも限らないよ」
冬原の言いたいことが分からず、ジロリとその横顔を睨みつける。
どういう意味だよ、と尋ねようと思ったが、その視線が自分でもなく柊でもなく、鹿目川にでもないところに向けられているのが分かって、その斜め上に傾いた視線の先を追った。
閉め切られた屋上へと続く階段。その踊り場を冬原は凝視していた。
「どういう意味だよ」今度はきちんと尋ねられた。
一瞬の沈黙があったので、自分で考えろと言われているかと頭にきたが、数秒後、冬原はゆっくりと口を開いた。
「鹿目川先生はどこから落ちたの?」
「どこって…」
その質問があまりにも分かり切ったものだったので、それについても苛つき、嘲るようなため息がこぼれてしまう。
真っすぐ手を上げて、上階の踊り場のほうへと人差し指を向ける。
「あそこに決まってるだろ?先生がここでトランポリンの練習でもしてなければな」
自分らしい嫌味が口を突いて出たが、それによって、柊から今度こそ叱責を受ける。
適当に謝って冬原の様子を窺うと、彼女は焦点を上階に向けたままで、独り言のように言った。
「何でだろ」
「何がだよ」
「何であんなところにいたの?」
冬原の問いかけにハッとする。
閉め切られた屋上の目の前に位置する踊り場。
何故あんなところにいたのか、それに対する納得のできる解答を、今の自分は持ち合わせていなかった。
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!
ご意見・ご感想、ブックマーク、評価が私の力になりますので、
応援よろしくお願いします!




