冬も蝶も、そんなに嫌いじゃないけどな。 1
転校初日目の授業は、思っていたよりも退屈なまま過ぎていった。
もっと騒がしくなると予想していたのだが、まあまあの偏差値を誇る進学校なだけあって、授業中はみんな静かだ。
ここまで静かならヘッドフォンも不要な気がするのだが、今はとりあえず様子見のつもりで装着しておく。
体育の時間は見学。音楽の時間なんてもっての外だ。
ホイッスルの音も、スターターの音も、楽器の音や大勢の歌声も、自分にとっては青春の鐘にもならなければ、趣のある響きにもなりはしない。
世の中…、どうしてこうもうるさいのだろうか。常々不思議になる。
人間は情報の七割を視覚に頼っていると聞いたことがあるのだが、それならばもっと多くの仕組みを、音ではなく、視覚的なものに作り変えてほしいものだ。
無声映画みたいに、何もかもをフィルムの中に閉じ込めてくれればいいのに。
昼休みは幸い誰も寄ってくる気配はなく、小うるさい執行もどこかに消えてしまっていた。
この高校には学食があるらしく、多くの生徒が昼食はそこで取るか、売店でパンを買って、あちこちで食べることのほうが多いようだった。
おかげで、教室は平和そのもの。さっさと食事を終えてから、のんびりと読書に耽ることができるくらいの環境は整っている。
さすがにヘッドフォンは外せなかったが、きっと慣れてきたら外しても問題ないだろう。それくらいの静けさだ。
午後の授業も同様に平和に過ぎていき、最後のチャイムが鳴ってHRが終わるまで、誰一人として自分に話しかけてこなかったことは僥倖だと言えよう。
…そう、HRが終わるまではだが。
自分を脅かす時限爆弾から解き放たれて、ほっと安堵の息を漏らした春泉だったが、彼女が荷物の整理を終えて立ち上がるよりも早く、誰かが肩を叩いた。
どうせまたアイツだろう、と眉間に皺を寄せて、思い切り迷惑そうな顔で人の気配がするほうを振り返る。
しかしそこには、想像していたよりもずっと低い位置で、困ったような顔を浮かべた少女が立っていた。
口が一文字分だけの動きを見せたので、多分、あ、とか、え、とか言ったのだろう。
さすがに、自分よりいくらか身長は高い。目測で155cmあるかないか、といったところだろう。
髪は肩までの長さ。真っ直ぐ伸びたサラサラとした髪が、自分の癖毛と対象的に映って、思わず眉間の皺がさらに濃くなった。
何か言っているのは分かるが、ヘッドフォンのせいで上手く聞き取ることができない。しょうがなく、両耳を外気にさらす。
「何」馴れ合いは御免だったので、できる限り冷徹そうな声音を心がける。
その女性徒は一見して大人しく、控えめそうな雰囲気をまとっていたため、多少強めに出れば、慌ててどこかに消えるとばかり思っていた。だが、予測していたよりも遥かに芯のある声で、彼女は応じた。
「急にごめんね?春泉さんの学校案内を任されてる、冬原って言うの」
学校案内、と耳にして、そういえば鹿目川が何か言っていた気がする、と思い出す。しかし、だからといって両手を上げて従うつもりはない。
「どうも、でも、大丈夫だから」早々に会話を切り上げ、荷物をまとめる。
「うん、そう言われるかなって思ってた。でも多分、聞いておいたほうが色々と楽できるし、得な話だと思う」
「…楽?」
これまた意外である。
冬原と名乗った少女は、真面目そうな印象に反して、楽できる、得、という不真面目なイメージをまとった言葉を餌に、自分の役目を果たそうというようだ。
冬原は、非常に大人びた雰囲気を感じさせる少女だった。
ルックスだけは明らかに子どもっぽい、というか、言葉を選ばなければロリっぽく見えるのに、何度か言葉を交わしただけで、その知性が会話の端々から感じ取れる。
馬鹿ではない。その証拠に、話しを始めてから少しの時間で、自らの声量に気を遣って調節を加えていたようだった。
そんな冬原の助言ならば、大人しく聞くだけは聞いておいたほうが良さそうだ。
そう判断した春泉は、まとめた荷物を脇に抱えて言った。
「…聞いてやってもいい。だから、静かな場所、連れてって」
我ながら傲岸不遜な物言いだと思ったが、冬原はその台詞に気分を害する様子もなく小さく微笑むと、「じゃあ、ついてきて」と告げて手招きし、廊下のほうへと足を進めた。
後をついて出て行ったところで、冬原を待っていたかのような生徒に廊下で声をかけられた。
「夕陽」ぽつりと響く低く、しかしどこか温かな呼び声。「蝶華、生徒会はどうしたの?」
蝶華と呼ばれた女性は、今度は一転してスラリと高身長だった。手足も長いが、身長は165cmほどだろうか、あの小うるさい女よりも少し低いかもしれない。
髪をアップにして、項をさらした彼女は、チラリとこちらを一瞥すると、何とも言えない表情で押し黙った。
冬原とは真逆で、とても勝ち気な印象を受ける。
他を圧倒するほどのルックスの良さがその原因かもしれない。
同性の自分から見ても、憧れを禁じえない華やかさを持っていた。おそらくだが、同じクラスだったとは思う。教室の後ろのほうにいたような…。
相手の沈黙に沈黙で返すように、春泉も口を閉ざしたままじっと相手を睨みつけた。20cm近い身長差が忌々しい。
彼女は冬原に脇腹を小突かれると、一度咳払いしてから、急に別人のような美しい笑顔を貼り付けて口を開いた。
「こんにちは、春泉さん。夕陽がお世話になっています」
「別に、まだ何もお世話になってないよ」
トンチンカンな発言をした彼女に、呆れたように冬原が呟く。
どこかその声の調子が、先程まで自分に向けられていたものとは、全く違うもののように感じられて、不思議だった。
別にそれが不服だったわけではないのだが、二人の様子を見ていると、理由もなく嫌味を口にしたくなってしまった。
「一方的に名前を知られてるってのは、あんまり気持ちよくないな」
転校生なのだから、しょうがないのかもしれないが、名乗りもしない人間に名を呼ばれるのは、実際愉快なものではない。まるで監視されているみたいで、落ち着かない。
春泉の通り魔的な嫌味をぶつけられた生徒は、一瞬面食らったように目を見開いたのだが、ややあっていっそう上品な笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、私は柊蝶華。一応、この学校の生徒会長なの。だから、貴方のこともある程度は知っているの」