イマドキ、犬だって上手に『待て』が出来るのに。 2
冬原、柊に関しては、前作をお読みでない方は『?』となるでしょうが、
かるーく流して下されば幸いです。
少しの間そうしていると、思い出したように鹿目川がその手を下ろして要件を告げた。
どうやら自分ではなく、執行に用事があったみたいである。
「執行さん、ちょっと職員室に来なさい」
あからさまに怒っている口調だ。鹿目川がハッキリと怒りを表すのは珍しいことで、ちょっと怖かった。
名前を呼ばれた執行は、顔を伏せたままで面倒そうに言う。
「えぇー、何か用ぉ?」
「いいから、来なさい」タレ目がちな眼尻の角度が吊り上がる。
「もぉ、ここでいいじゃぁん」
顔を上げる。その顔にはハッキリと面倒臭い、と書かれていた。
「先生は友達じゃないのよ、ちゃんとした言葉遣いで喋りなさい」
執行はうるさいなぁ、と言わんばかりに右耳の穴に小指を突っ込み、再び机に倒れ込んだ。
いつまで子どもみたいに駄々をこねているんだと、執行の背中を軽く叩いて、顔を上げさせる。
「行ってこいよ、お前、どうせ何かしたんだろ」
「してないし」起き上がって、ムッとした顔を近づけてくる執行。「近い、離れろ」
彼女を両腕で押し返そうとするも、力の差は歴然であり、椅子の上から落とされそうになる。
「ちょ、おい、おい!落ちる!」
わけが分からなさすぎて逆に笑えてきそうだ。
実際、冬原と柊は呆れて笑っている。鹿目川だけは、執行を咎めるような言葉を発していた。
全く鍛えていない脆弱な腹筋がぷるぷる震えているのを感じながら、早く自分の上からどくように命じるが、彼女は真剣そのものの表情で、首を縦に振らない。
「ほ、本当に落ちるって、どいて、どいて!」
体は動かさなかったが、執行が自分を押さえつけるようにしていた手を離したことで、ふわりと、上半身が浮遊感に包まれる。
「わ、わ、急に離すなよぉ!」情けのない声が漏れる。
自分を強く見せる外装をパージした、怯えてばかりの右側の自分だ。
「じゃあ、ちゃんと返事して」落ちかけた春泉を捕まえながら言う。
「今!?」
冗談じゃない、みんないるのにそんなことできるわけがない。
「うん、今」酷く冷静な声が、逆に彼女のクレイジーさを強調する。
ほとんど落ちている姿勢だったが、誰も助けてくれない。
こういう追い詰められているときに他人の力を借りられないのは、人生の縮図のようだった。人間、必ず一人で戦わねばならない時が来るのだ。
頭に血が昇っていくのを感じながら、突き放そうとしていた執行に今度は逆にしがみつく。
「今度、今度ちゃんと言うから!」
「今度っていつ。この間もそう言ってた」
「落ちる、落ちるってば」
「いつ」もはや、狂気すら感じる執行の言葉に、必死に答える。
「弁論大会が終わったら、な?今は、ほら、あぁ、頼む、早く引き上げてくれ!」
満足そうに頷いた執行は、春泉を引き上げず、そのまま鹿目川に連れられて資料室を出ていった。後頭部がゆっくりと床に着く。
彼女が叱られている声を聞きながら、ぐったりとした姿勢から立ち戻り、椅子の上に背筋を伸ばして着席する。
死ぬかと思った。顔に血液が集まっているのが分かるし、心臓もドクドクと拍動している。
冬原と柊が目を細めてこちらを見つめているが、その瞳にはかなりの呆れが含まれていた。
軽く咳払いをする。当然、こんなことで先程の醜態が誤魔化せるなどとは露も思っていない。
「全く、アイツも子どもじゃねえんだから…」
ニヒリストを気取って鼻を鳴らすものの、かえって締まりが悪かったようで、柊は大きなため息を吐いていた。
「格好つかないわよ」
「うるせー」ジロリと睨みつけるが、かえって相手の目線のほうが怖くて、身が竦みそうだ。私が何をしたというのだろう。
「まあ、それは別にいいけど…」
何かを言いかけたように中途半端なところで言葉を区切った柊だったが、しばらく、その後の言葉を発するかどうか逡巡してから、決意したように眼尻をキツくした。
「ねえ、春泉」
「何だよ、改まって」
何か大事な話なのだろうと襟を正す。実際には猫背のままだった。
「執行の気持ち、どうするのよ」
柊の口からこぼれた言葉があまりにも意外で、しかも、今一番聞きたくないものだったので、自然とため息が漏れた。
霧が立ち込めるように、その場を包み込み始めた嫌な空気。それから逃れる形で離席した冬原は、換気のためか窓を開けた。
生暖かさの中にも、かすかな寒さを残した3月の風が、一気に資料室へと舞い込んでくる。
香る梅の花の匂いに、そういえば中庭に咲いていた気がする、と問いかけの答えとは全く関係のないことを連想した。
そんなこと、言われなくとも考えている。
本当はそう強気で返したかった。だが、それは口だけだと、すっかり柊たちには勘付かれてしまっているだろう。
考えることから逃げている。思考放棄というやつだ。以前、同じ言葉で冬原を咎めたことを思い出して、頭が重くなる。
黙っていては埒が明かないと考え、自分の気持ちを的確に表現する言葉を探すものの、結局、そんな便利なものはないという結論に至る。
腕を組んで妙な圧力を放っている柊に、正直に、「分からない」と伝える。
てっきり小言を言われると予測していたのに、柊は短く相槌を打つと、考え込むように天井を見上げた。
考えても仕方がないことだとしか思えなかったが、それを言って事態が好転するとは考えられなかったので、そのまま相手の出方を待った。
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