イマドキ、犬だって上手に『待て』が出来るのに。 1
六章、事件のためにようやく四人が奔走し始めます。
終盤に差し掛かっておりますが、
是非、最後までお付き合いくださると嬉しいです!
例の事件から、一週間が過ぎた。
あれからみんな、怯え半分、興味半分、といった様子で、あれやこれやと噂を口にしていたものだが、そのほとんどが何の信憑性もないガラクタみたいな話だった。
何とか峠に幽霊が出る、みたいなのと同じクオリティだ。つまりは、何の証拠もない駄弁であるうえ、他人事というレベルなのだ。
来週はいよいよ、弁論大会が始まる。
今の自分にとってみれば、そっちのほうがよっぽど大問題だとも言えたが、それ以上に急を要する問題がもう一つだけあった。
執行愛。時折鋭い発言はするが、基本的には人生舐めてかかっているとしか思えないぐらい、短絡的な会話を好む――友達だ。
友達、という表現がむず痒い。
久しぶりにそう思える人間に恵まれているわけだが、その関係もすでに、壊滅の危機に瀕していた。
彼女は、自分にとって戦時中の国境線よりも越えがたい一線、友達以上恋人未満のラインを軽々踏み越えようとしてきたのだ。
こっちは友達だと認めるのに、一ヶ月以上の月日を要した。
それは自分史上最高速とも呼べる快挙だったにも関わらず、あろうことか執行は、その速度で国境線を飛び越えてきた。
踏み壊した、という表現のほうが適切かもしれない。
迫る弁論大会、プラス告白の返事。
後続車は、今にも追突してきそうな勢いで返事を催促し始めていた。
そう、まさに今目の前でもそうだ。
「ねぇねぇ、春ちゃんいい加減待てないよぉ」
愚図っている子どものように、机に突っ伏したまま、うねうねと奇怪な動きをしている。
軟体動物、または節足動物みたいな動きだ。とにかく気持ち悪い。
背骨を失ったかのような執行を横目で見ながら、何も聞こえないフリをして、目の前の原稿に目を落とす。
最近はコツを掴んできたようで、だいぶ筆の進みが良い。
この場合のコツとは、自分が思ってもいないことをもっともらしく書く技術のことを言う。
この調子で進めば来週の頭には完成が見込め、練習する時間も設けられることだろう。
初めは絶対無理だと思ったものだが、慣れとは恐ろしいもので、今では自分の本音とは別の言葉が湯水のように湧いてくる。
まるで自分の中に他の人間がいて、そいつが代わりに書いてくれているみたいだった。
コンコン、とドアがノックされる。
一体誰だろうか、この部屋にノックして入ってくるような人物はほとんどいない。
そもそも柊、執行、冬原、自分以外の訪れがない一室なのだ。
ノックされるような場合は大概、両手が荷物で塞がっていて、ドアを開けるよう片足で蹴っているときぐらいのものだったが、今日はすでに全員集合しているから、それはない。
「はい、どうぞ」柊が用意された高い声で許可する。いつ聞いても別人の声だ。彼女は喉の中に他の人間がいるらしい。
年季の入った扉が横にスライドする。立て付けが悪いのか、少し詰まりながらも、何とか客が姿を見せた。
その姿に、思わず上ずったような声が出てしまう。
「鹿目川先生」
「こんにちは、春泉さん」可愛らしく小首を傾げる。「どう?進んでる?」
すぐに弁論大会の原稿のことだと分かり、このペースならば余裕を持って書き終えることを報告した。
それを聞いた彼女は、安心したように口元を緩め、春泉の努力を少し過剰に評価したのだが、書き始めのペースを一考すれば、十分進化と呼べるものではあった。
「何ですか先生、私がちゃんと働いているか監視しにきたんですか?」
春泉がおどけた調子で冗談を口にする。
「監視だって、やらしー」
「黙ってろ」
横から口を挟んだ執行を一蹴すると、再び鹿目川に視線を戻す。
鹿目川は聞こえないほうの耳にかかった髪を軽く指ですくと、困ったように微笑んで口を開いた。
「いえ、春泉さんのことは心配してないわ。一度やると言ったらやる子だと思ってるから」
すっと手が伸びてくる。
執行ほどではないが身長が高いため、自然と手足も長く見える。その長く白い手が春泉の頭に置かれ、優しく撫でられた。
気持ちの良い感覚に、喉が鳴りそうだ。
執行の声とは違う、真冬の暖炉の前みたいなじんわりとした心地よさ。粟立った鳥肌をこっそりと掌で撫でる。
「あ、ごめんなさい」ハッとした顔で手を引っ込めた。「ごめんなさい、昔、妹にしていたみたいに、つい」
「あ」離れていく暖かな手の感覚が名残惜しくて、小さな声が出てしまう。
自分では誰にも聞こえないくらいの声だったと思ったのだが、周囲の反応からして、思ったよりも大きな声だったようだ。
「へ、へぇー。鹿目川先生、妹がいるんですね」
気恥ずかしさを誤魔化すように、春泉が尋ねる。
「ええ、そうなの。生意気ばかり言ってね、春泉さんよりも、全然可愛くないの」
「…ふぅん」
春泉のにやついた顔を見て、口元に手を当てて笑う冬原と、からかうように口元を斜めにした柊がいる。それから、つまらなさそうに顔を伏せたままの執行。
最悪だ、とてつもなく格好悪い。
先生のことを勢い余って、「お母さん」と呼んだときくらいの恥ずかしさだ。そんな経験はないが。
顔を赤らめて誤魔化すための台詞を考えていると、間を空けずにまた手が伸びてきた。
「ふふ、意外と甘えん坊さんなのね」
温みが自分の癖毛を整えるように頭のラインをなぞった。何だか酷く懐かしい気分にさせられる。自分に姉がいたら、こんな感じだったのかもしれない。
「…子ども扱いは嫌いです」心地よさに目を細めながら、ぶつぶつと小言を囁く。
口ではそう言うものの、その手を振り解こうとは全く思えなかった。
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