ラブストーリーは呆気なく終わった。 2
予想していたとおりだった。
だというのに、初めて殴られたときのような、痺れる驚きが自分の頭を襲っていた。
呼吸が荒くなるにつれて、思考力が鈍くなっていくのを感じる。今考えるべきことが、頭の中から遠ざかっていく。
どうして私が標的にされた?
執行への陰湿な攻撃を防いだからか?
いや、そもそも執行が狙われたのはどうしてだ?
偶然、なのか?
今そんなことを考えても仕方ない、冷静になれ、冷静になるんだ。
黒板の上に掛かっている時計を振り返る。
時刻は六限目が終わる五分前を指していた。
もうじき、チャイムが鳴ってしまう。
逃げ場もないままに、あれに生身でさらされたら…。
そうなれば、終わりだ。
きっとパニックになる。
涙は濁流のように流れ、呼吸は水中のようにままならなくなる。
溺れる、その言葉で頭がいっぱいになった。
陸で溺れる。
打ち上げられた魚みたいに。
死を待つのみだ。
気が付けば、床に膝がついていた。
全身が酷い寒さを感じ、思わず両腕で自身の体をかき抱く。
水が迫る。
時間という名を冠した、凍っていないのが不思議になるほど冷たい水だ。
怖い、助けて。誰でもいいから。
情けない感情が自分の奥底から這い上がって来ているのに気づいて、春泉は歯を食いしばり、無理やり思考のエンジンを点火させた。
自分以外に助けを求めるな。
他人は、助けてくれない。
最善策を探せ、探すしかない。
扉を壊す?
無理だ、今の私じゃ万に一つも壊せない。
チャイムの聞こえない場所まで逃げる?
いや、間に合うはずもない。
違うもので耳を塞ぐ、そうだ、それしかない。
耳栓、イヤホン…駄目だ、持ってない!
悪意だ、これは。
どす黒い、黒よりも暗い闇の色。
もうお終いだ、そう呟きかけた春泉の肩を、誰かが懸命に揺すっていることに今更気が付く。
「春泉、春泉!」
突然、酸素が脳味噌に供給されるようになった春泉は、自分の肩を揺さぶっている人間へと顔を向けた。
「どうしたの、ねぇ聞こえてる?」
冬原だ。
必死に頭を上下させて、聞こえていることを示す。
返事をする、なんてことはできそうになかった。
もう一度、どうしたのか、何が起こったのかを尋ねられるも、口が動かない。急に思考と体の回路を焼き切られたみたいだ。
冬原はその異常事態をすぐに察知し、春泉の視線の先を追った。
「チャイム、鳴っちゃう…」
時計はもう1分か、2分前だ。
「ヘッドフォンはどこ?」
必死な彼女から放たれる電撃が回路を繋いだのか、ほんの少しだけ体が言うことを聞く。
「ろ、っかー」
曖昧で甘すぎる滑舌だったものの、冬原は弾かれるように春泉のロッカーに手を伸ばし、取手を思い切り引いた。
ストッパーに引っかかるような音が鳴って、彼女も鍵が掛かっていることを悟る。
「鍵は?」春泉は首を振る。「持ってないの…?」
普通なら混乱状態で鍵の場所が分からなくなっている、と認識するところだったかもしれない。しかし、冬原は一瞬だけ無言になって動きを止めると、ぼそりと、「春泉が掛けたわけじゃない…」と真実を言い当てた。
すごい頭の回転の速さだ。
普段の落ち着き払った姿からは想像もできないぐらいの機敏さで、頭と視線を動かしている。
教室中のクラスメイトが異変に気付いたらしく、遠巻きに二人を見ていたが、ただ一人を除いて誰も近寄ろうとしない。
どいつもこいつも他人事だな、と誰かが頭の中で呟いていた。
しかし、他人事ではないもう一人の例外がそばに寄って来て、しゃがみ込んでいる二人の近くに膝をつく。
「ちょっと、どうしたの!」柊である。
すでに着替え終わっている彼女は、制服に身を包んでいた。
「分からない」冬原が素早く、短く答える。
「分からないって…普通じゃないわよ!大丈夫!?」
「黙ってて。今、考えてるから」
強烈な鋭さで柊の言葉を遮った冬原に、周囲がどよめく。
長針は、ほとんどもう文字盤と被っており、一刻の猶予もないことが残酷にも示されている。
冬原の視線が扉の一点に向けられる。取手に飛びつくように手を掛けて引っ張り、隙間を作る。
「蝶華!何とかして扉を壊して!」
「は、はぁ!?貴方、そんなの…」
「生徒会長でしょ!」
ほとんど無茶とも言える頼みだったが、事態の緊急性を直感したのか、柊は冬原が作った隙間に、その細くともしなやかな指を何本も突っ込んだ。
足も使って、その薄いスチールで出来た扉を引っ張る。彼女の体重も掛かったその力ずくの行為は、思いのほか容易く扉を変形させた。
扉の左上部が静かに曲がっていく。ゆっくりではあるが、留まることなく確実に歪んでいる。
そうしてできた隙間に冬原が颯爽と手を突っ込み、中の壁とぶつかる音を立てながらもヘッドフォンを取り出した。
そのままの速度で、蹲った春泉の両耳に被せる。
「春泉、スイッチは自分で入れて、できる?」
両耳を覆うほっとする感触に、急速に思考が呼吸を再開する。とはいえ、言葉を発する余裕はないので、軽く頷いただけで、後は指先に全神経を注ぎ電源を入れ、ノイズキャンセリングの機能を発生させる。
途端に周囲が冷却されたように静かになり、かすかな喧騒と、そばにいる二人の声しか聞こえなくなった。
「間に合った」と長い息を吐いて安堵する。
だが、ぼそりと冬原が発した言葉に顔を上げた。
「…チャイムが鳴らない」
「え、あぁ、本当ね…」
てっきり二人の活躍のおかげで難を逃れたのだと思っていたのだが、本来ならチャイムが鳴る時間をすでに2、3分オーバーしていた。
「何だか分からないけれど、ラッキーだったわね」
苦笑いを浮かべて自分の頭を撫でる柊に、くすぐったい羞恥心を覚えたが、安心したためか、皮肉っぽい笑顔を浮かべて春泉が答えた。
「はっ、ダサい格好さらした挙句、ロッカーは歪んじまったがな…」
「それだけ憎まれ口が叩ければ、もう安心ね」
慈愛に満ちたその表情に、彼女の真の魅力が表れているような気がして、少し顔が熱くなった。
お前も、良い女だな、という皮肉っぽい本音が浮かぶも、さすがに口にするのはやめておいた。
絶対に怒られるだけだと、分かっていたからである。
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