ラブストーリーは呆気なく終わった。 1
五章スタートです。
ようやく物語が下り坂に入ります。
身体測定の用紙がパサリと、自分の胸に押し付けられる感触で春泉は我に返った。今の自分と頭の中と同じように、ぺしゃりと曲がってしまっている。
不審がる教師の視線を避けるように、さっと背を向けた。
振り向いた先には、同じように怪訝そうにこちらを見つめる冬原の姿があった。
自分を待っているようなので、一応早足でそばに寄る。だからといって、声をかけるわけではない。
体育館は心配していたほどの喧騒もなく、思いのほかストレスは少なかった。
天井は遥か高くに位置していたのだが、そこにいくつかのバレーボールが挟まっていた。
どうやってそこに挟まるのか不思議でならないが、今の春泉では自らの頭上になど意識も向かなかった。
ぼうっとした虚ろな瞳の春泉を見かねてか、とうとう冬原が声をかける。
「さっきから様子がおかしいけど、大丈夫?」
その問いかけを耳にしても、初めは自分に向けられたものだとは理解ができず、ぼんやりと上の空だった。しかし、再度同じような問いをされたことでようやく気が付いた。
「え、な、何が」口を半開きにしたまま、尋ね返す。「何がって…」
呆れたような素振りを見せた冬原は、さっと視線を自分たちがいる場所から最も離れた体育館の壁のほうへと向けた。
そこでは、長座体前屈が行われており、ちょうど柊が体を折り曲げていた。
長い手足を伸ばして体を折り曲げる柊を、周囲の女子が羨望の目で見つめているのが分かる。その気持ちが痛いほど理解できる春泉はというと、去年から身長の変化はなかった。
誤差なのか、むしろ数ミリ縮んでいる。
「音、気になるの?」と見当違いだが、根っからの優しさを感じられる言葉を冬原が口にした。
「あぁ、いや、そうじゃない」
「そう…何かできることがあったら言ってね」
その純粋な善意に素直に返事をする。
そうだ、冬原は彼女と違って純度100%の善意と優しさなのだ。
『返事は、また今度聞かせて』
執行が去り際に背中を向けて呟いた言葉が、鼓膜の奥に蘇る。
とても鮮烈なエコーが、そこには残っていた。
返事って、何のだよ。そもそも私は何もきちんと言われていないのだ。ならば答えるべき返事など、何もなくて当然ではないか。
自分を納得させるために、ひたすら自らに語りかけていた春泉だったが、そこまで鈍感ではないため、実際の執行の言葉の意味が理解できていないわけではなかった。
ただ、逃げ場が欲しかったのだ。
自分が答えを出さなくても良い理由が。
無意識のうちに掌に力が入り、身体測定の用紙がくしゃくしゃに縮み、不規則な折り目が無数につく。
大丈夫か、大丈夫じゃないかの二択で言えば、限りなく後者に近い。だが、それを手放しで認められるほど大人ではない。
再三の追及を行ってくる冬原を適当にあしらって、ぐるりと体育館を見渡す。
この広さに一クラスぶんの人間しかいないのだから、むしろもの悲しい感じさえする。こちらとしては、余計なストレスがなくてありがたいのだが。
波打ち際で揺れる木の葉のように落ち着きのなかった視線が、ぴたりと一点に収束されて停止した。
170cmに迫る高身長、太陽みたいな色の長髪。人目を引く、向日葵そっくりな執行愛の姿がそこにはあった。
ただ、いつもの何も考えていなさそうな笑顔は見当たらなかった。
さすがの彼女も、思うところがあるのかもしれない。
そんなことを考えながら、自分が執行の姿を探していたことを悟って、急に体が熱くなった。
脳味噌の皺の一本一本が、つい30分ほど前の執行の姿を思い起こす。
夕焼けみたいに紅く色づいた頬。
揺れる髪が鱗粉みたいにまき散らす、甘い芳香。
逃げるように足早に立ち去る、彼女の後ろ姿。
さっきからずっと、壊れたプレーヤーみたいに同じ情景を再生している。
馬鹿みたいだ。
…何がだろう。
奇妙な浮遊感を感じている自分が?
それとも、自分なんかに塵ほどでも好意を寄せてしまう執行が?
分からない。今は、分からないということだけが分かっている。
ぼうっと夢中遊行みたいに各コーナーを回っている間に、全ての身体測定を終えていた。
後は、さっさと教室に戻るだけだ。
今は、ひたすらに相棒の温みが恋しい。
きっと相棒がいないから、妙なことばかり考えるのだ。そうに違いない。
壁になだれかかって柊を待つ冬原の隣で、小さく息を吐き出す。
それに気が付いた冬原が、こちらを案ずるように視線を向けた。それに、わざと気づいていないフリをして俯いた。
その後、長座体前屈の計測と記入を終えたらしい柊が合流し、三人で教室へと戻った。執行を待たなくていいのか確認されたが、待つ理由がないと断った。
嘘ではないが、本心でもない。
周囲のクラスメイトは、体重がどうだ、身長がどうだと自分の体の変化について一喜一憂しているようだった。
数年前から変化がまるでない自分からすると、その話題ができるだけでも羨ましかった。
もちろん、隣に並んで歩いている二人も例外ではない。
「やっぱり身長止まってるなぁ。もう伸びないのかな」
「いいじゃない、大きすぎても不便よ。服だって選びづらいし」
スタイルの良い彼女が言うと、もはや嫌味にすら聞こえる。
「そこは『夕陽はそのままがいいわ』って言うところじゃない?」
「え?な、何でよ…」
すぐに顔を赤くして狼狽える柊に、冬原が愉快そうに笑った。
本当に、柊の前だと幸せそうだ。
「ゆ、夕陽は、そのままがいいわ…」
俯いて、ぼそぼそと言われた通りの台詞を口にしている柊だったが、声が小さすぎて格好がつかない。
シャイな彼女にできる、最大限の努力だと私でも理解できた。
幸福をキャンバスに描き出したかのような二人を横目に、それを自分と執行に置き換えてみようと試みる。
だが、それもすぐに失敗に終わった。
自分が誰かと幸せに、なんて想像もできなかった。
妙な妄想はできるくせに、ああいうちっぽけな温もりをイマジネーションできない自分は、やはり冷たい人間なのだろうか。
教室に戻ると、中には何人かのクラスメイトがいた。すでに着替えている者もいれば、ジャージのまま雑談をしている者もいた。
幸不幸なんて、考えても無駄だと思考を切り替え、相棒の待つロッカーの前に立ったとき、すぐに違和感を覚えた。
鍵が掛かっているかどうかを示すマーカーが、赤になっている。
ずぼらな自分は、普段から一切鍵を掛けないので、いつも緑が表示されているはずなのだ。
もしかすると、ロッカーを間違えたかもしれない、と貼られている番号を確認するが、やはりこれは自分のロッカーだ。
扉を閉めた拍子に、少しマーカーがズレたのだろうかと、取手に手を掛けて引っ張るが、間違いなく鍵が掛かっていた。
「…何だよ、ったく」
ぶっ壊れたのか、不具合かは知らないが困ったものだ。
そのときまでは気楽に構えていた春泉だったが、扉を引いた拍子に隙間から頭を覗かせた紙片に、視線が吸い寄せられた。
プリントを直接放り込むほど、整理整頓ができていないわけではなかった春泉は、それが妙に引っかかった。
そして数秒後、ドクンと心臓が強く収縮して、思わず息を呑んだ。
ネットの接続が切断されたみたいに硬直していた彼女だったが、すぐに読み込みを開始し、慌ててその白い紙片を引きずり出した。
三つ折りにされていた紙を、震える指先で広げる。
『貴方は二人目の犠牲者』
新聞記事の文字を切り抜いて作っただろう文章が、春泉の見開かれたガラス玉に綺麗に反射していた。
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