静かなほうが良かったです。例えそれが、嵐の前の静けさでも。 2
こちらで四章は終わりです。
次の章から、きちんと物語が進展していきますので、
よろしければお付き合いください!
体育館の一階部分へと通じる道を進む。校門やグラウンドが何とか見えるが、当然人の気配はない。
他のクラスは授業中だろうし、同じクラスは今頃、真上でのんびりと靴でも履き替えているところだろうから、当たり前と言えば当たり前だ。
「春ちゃん」ゆっくりと噛みしめるみたいに名前を呼ばれ、肩が震えた。「何だよ、さっきから…たいした用もないのに呼ぶな」
執行は、ふふん、と真剣に怒っている春泉に対し、上機嫌な顔で微笑んで見せる。
「ねぇ、もしかしてだけどぉ」
今度は返事もせず、黙って彼女の言葉を待った。
そうでなければ、吐息が漏れそうで嫌だったのだ。
「ノーヘッドフォンの春ちゃんは、今、私の声で変な気分になってる?」
ドクン、と心臓の鼓動が大きく鳴る。
図星を突かれるような形になってしまったせいでもあったが、それを問いかけた執行の声音が、普段とは違う色に透き通っていて、ハッキリと言えば、とても卑猥に感じられたからだ。
すぐにでも反論したかったのに、それを許さない雰囲気が執行にあった。
西日に照らされているはずなのに、一部に影が差しているためか、異様に暗く見えるその表情は、光を通さぬ深い森の中に立っているようだ。
これ以上の追及を避けるため、先を行っていた執行の横を足早にすり抜けようとしたのだが、突如飛び出して来た執行の長い足に阻まれて、足が止まる。
黄色信号で急停止した車みたいな挙動で制動をかけた春泉は、ひゅっ、と空気を吸い込んでから、一拍遅れて責めるような視線を執行に向ける。
「おい、何をする」
しかし、執行はまるで聞こえていないかのように、ぐっと前かがみになった。
顔を近づけて覗き込んでくる執行の首元から、甘い匂いがする。今回はシャンプーの香りではなかった。天然由来、ただの執行の香りだ。
その匂いと、日光を呑み込んだ美しい髪色で、どこか食虫花のような印象を受ける。
一度捕えられれば、逃れることはできない。
だとしたら、ここはその罠の中か、それとも溶解液の溜まった袋の底か。
別に跨げば越えられるほど高さではあるものの、それができない雰囲気が二人の間に流れていた。
普段はせかせかとした、人畜無害な様子を見せている執行だったが、こうして対峙すると、その実、決して大人しい人柄ではないということがよく分かる。
彼女がどうしたいのか分からなければ、どうすればいいのかも分からない。
春泉は、ただ口を閉ざして相手の動きを待っていた。
十秒にも満たない時間、視線を交えていた二人だったが、先に執行のほうに動きがあった。
それまでは悪戯心半分、残りはブラックボックスに包まれているといった感じの態度だった執行が、突然、真面目腐った顔になる。
それから目を閉じ、顔をグラウンドのほうへと向けた。何かを考えているのは明らかだった。
つられるように視線の先を追うが、そこには休眠状態の大地が広がっているだけである。
そうして春泉から目を逸らしたまま、執行がぼそりと呟く。
「本当に出るの?弁論大会」
「え?ああ…」
その表情からは想像もできないほど普通の話題だったため、かえって春泉は目を丸くした。
「大丈夫?無理してない?」
その心底心配である、という声音が逆に春泉を苛立たせる。
「大丈夫じゃない、って言いたいのかよ」
「うん」
少しは言いよどんでくれれば、腹の虫も収まったはずなのに、執行ときたら真っ向から肯定するスタンスできた。
「ヘッドフォンをつけたままでも、マイクのハウリングはキツイんじゃないの?」
「…さあな」
実際は執行の懸念した通りだったのだが、それに頷けるほど、今の春泉は冷静でもなければ大人でもない。
どうやらこうしている間にも身体測定は始まっているらしく、体育館のほうから聞こえてくるざわめきは大きくなっていた。
数分前までの精神状態なら我慢できる自信があったが、今のささくれ立った心では、自信はない。
「ねぇ、今からでも断った方がいいと思う」
「あ?」
今度は、真正面から視線がぶつかったままで執行が言った。真剣そのものといった様相を呈しているが、そんなことは春泉には関係がない。
哀れまれている、と思わず歯ぎしりする。
実際、彼女の発言は心配を通り越して憐憫の域まで達しており、自分の中に残っている見栄っ張りで、プライドの高い右側の自分を刺激した。
「お前に関係ないだろ」キッ、と眼差しに力を込める。「赤の他人は黙ってろよ」
柊に詰め寄られたときも、これくらいの激情が湧いていたなら、瞳を潤ませることはなかっただろう。
そう言えるほどに、自分の中の怒りの炎が燃え盛っているのが分かった。
自分を哀れむ人間なんて、今まで星の数ほど見てきたのに、どうしてこんなにも心が揺さぶられているのか。
執行から与えられてきた、優しさだと感じていた温みが、冷たい自己満足の塊でしかなかったことに気が付いて、裏切られた心地になっているのだろうか。
こんなことばかりだ。
信じては裏切られる。
誰より、自分が自分で腹立たしい。
人なんて信じないと口にしている矢先から、また誰かを信じている自分の愚かさ。
信じる、というよりは縋っているのかもしれない。
喉元に熱が残っているのに、それが過ぎるよりも前にまた熱湯を喉に流し込んで、火傷している。
そのうえで文句を吐き捨てているのだから、手の施しようがない。
「春ちゃん」
「馴れ馴れしい呼び方はやめろよ!」
酸素が充満した空間で、マッチを擦ったみたいに感情が一瞬で大きく燃え上がる。
今まで許せていたものが、急に許せなくなるなんてことは普通ありえない。
つまり、今の発言は八つ当たりに近い。
「失望したよ、執行」
「待って、春ちゃん」
彼女の伸ばしてきた手から、後ろに下がって遠ざかる。
感情が昂れば昂るほど、執行の言葉が針みたいに突き刺さるのが忌々しい。
快不快を超越した、電磁波をその身に受けているかのような異物感にゾッとする。
「自己満足のために私を利用するな。可哀そうな誰かが欲しいなら他を当たれ」
ハッと、執行の瞳が大きく開いた。
ショックのせいか、怒りか、焦りか、理由は定かではない。
「そんなもんのためなら、私に関わるなよ。同情はまっぴらごめんだ」
顔の筋肉を硬直させていた執行は、春泉が言い終えるのを見届けると、ただ黙り込んで俯いた。
そんなしょげた様子を見せても、罪悪感なんて湧かない。
最初に裏切ったのは、お前のほうだ。
チッ、と唾棄するように舌を鳴らした春泉は、捨て台詞を吐くこともなくその場を去ろうと執行の足を跨いだ。
その瞬間、世界が揺れた。
甘い匂い。
柔らかい感触。
耳朶をくすぐる吐息。
視界で揺れる、色素の薄い美しい髪。
背中から抱きしめられているのだと、すぐに分かった。
この期に及んで、何のつもりだ。
あまりにも滅茶苦茶な行動に、自分を抱きしめている両腕に爪を立てた刹那、信じられない言葉が上から降って来た。
「同情心じゃないから」
「そんな薄っぺらい言葉――」
誰が信じられるか、と怒鳴りつけようとした春泉の耳元で、執行は細雪が肌に触れるような優しさで囁いた。
「これ、下心だから」
逆さまに見上げた執行の顔に夕陽が差していた。
きっと今に自分の顔も、みるみるうちに彼女と同じになるのだろう。
「好き、春ちゃん」
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