同胞の声を、聞き漏らすわけにはいかないだろう? 1
良き先生との出会いは、私たちの意思では選べないものです。
そういう意味では、私も自分の運に感謝です。
放課後になると、一番に鹿目川に職員室へと呼び出された。
何の話なのかなんて考える必要もなかった。どうせ弁論大会についての一件だろう。
きっと、あちらのホームで話を進めたいのだ。
教室では、執行のように自分の味方をしてくれる人間がいないとも限らないからだ。
職員室に入ると、すぐに談話室へと通された。少し待っているように他の教師に言われて、大人しく座って待つ。畳張りの四畳程度の狭い空間だったので、閉塞感を覚える。
窓の外には、もう半袖で部活をしている陸上部の姿が見え、耳の奥のほうでスターターの音が鳴っていた。
それが現実のものか、それとも連想が生み出した幻聴だったのかはわからない。
あんなふうに思い切り、全ての枷を捨てて自由に走り回りたいと思ったこともあった。だが、今ではそんな行為は自分の首を絞めるだけだと学習しているので、そんな夢を見ることもなくなった。
そっと、ヘッドフォンの側面を撫でる。
こんなふうに精神的な刺激を受けているときは、相棒がいないと本当にパニックになりかねない。
ダイビングに背負う、酸素ボンベみたいに。
あるいは、砂漠を歩くときの水筒みたいに。
私の生活は、これによって保証されている。言い換えればヘッドフォンは、春泉理音という人間を囲む檻の象徴でもあった。
いつだって相棒は、自分を現実に引き戻してくれる。
自分は普通ではないのだと、教えてくれる。
コンコン、と開け放たれた扉がノックされる。もう開いているのだからノックしなくてもいいだろう、とその気遣いを切り捨てるが、覗いた顔にぎょっとした。
「春泉、ちょっといいか」
健康的に焼けた肌。確か、生徒指導の教師だ。名前は覚えていない。
断る理由もないので、素直に頷いて許可する。理由がないだけであって、嫌かどうかは別だ。
彼は腕を組んで畳の下の一段低い場所に立つと、無言で春泉の顔を凝視した。それだけで思わず緊張してしまう。彼は強面すぎるのだ。
彼が相手ではなく、それか、普段の調子なら、『若い女性を凝視するなんて、フェミニズムに欠けますね』なんて言えるのかもしれないのだが、この男相手には無理だ。
絶対あり得ないことだが、軽口なんて叩いたら怒鳴りつけられて、胸ぐらを掴まれそうだ。
「大丈夫か」ぼそりと男が呟いた。「え?」
最初は何を言われているのか分からなかったが、次第に自分を取り巻いていた状況と、冬原が彼について言っていた情報を思い出して、心配してもらっているのだと理解した。
「ああ…ん、大丈夫、と言いたいところですけど」
どうなんですかね、と質問に質問で返した挙げ句、自分にしか答えが分からない問いをしてしまった。
「無理なら俺も上に掛け合ってみる」その言葉に思わず目を輝かせて、彼の顔を見上げた。しかし、すぐに彼が、「難しいかもしれんが」と付け足したことでぬか喜びに終わった。
一言二言、彼に元気づけてもらった後、鹿目川が談話室に入ってきた。彼女は開いたドアをノックするようなスマートな真似はしなかった。
「玄上先生、春泉さんと二人きりになりたいので、よろしいですか?」
玄上と呼ばれた生徒指導の教師は、渋い顔で頷いて部屋を出て行った。彼の場合は、元々がああいう顔だ。
鹿目川が扉を閉めたことで、突然部屋の中が静かになった。いつもなら愛すべき静寂なのだが、今は他人のように余所余所しかった。
靴を脱いで、鹿目川が上に上がってくる。長身故か、スラリと伸びるストッキングを履いた足が艶めかしかった。
彼女は話し出す前に一つ息を漏らすと、穏やかな顔つきになって春泉を見つめた。これからする話を有利に運ぶためのものだと、すぐに直感した。
「春泉さん」と名前を優しく呼ばれる。
「何ですか」鹿目川のほうも見ずにぶっきらぼうに呟く。「ごめんなさいね」
唐突に、いつもの情けない顔に戻った鹿目川は、肩を落として意気消沈した様子で言葉を続ける。
「嫌がるって分かってた。でも、私も仕事なのよ」
「それを生徒に言う貴方は、卑怯だ」
あからさまに同情を引くような口調で心情を告げた鹿目川を一蹴するべく、春泉は低い声音を意識して淡白に言葉を口にした。
鹿目川は、自分が糾弾されるのを覚悟していたらしい神妙な面持ちで頷くと、春泉の言葉を肯定した後、真剣そのものといった顔で、机の上に置いてあった春泉の手に、自らの右手を重ねた。
その行動にびっくりして思わず手を引っ込めかけた春泉だったが、矢継ぎ早に言い放たれた鹿目川の言葉に硬直した。
「でも、いつかは向き合うべきときが来るのよ」
向き合う?何と。
「自分の、人とは違うところと」
うるさい。
「目を逸らしていても、いつかは壁のほうからぶつかってくるわ」
お前に、何が分かる。
「若いうちから向き合っておかないと、後になればなるほど、向き合うのが辛くなるわ」
お前ごときに。
何が。
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