嵐の予兆が聞こえる。 2
誰かに強要された何かは、
大抵ろくなことになりませんよね。
六限目が始まろうするとき、HRが終わった直後に遅刻してきた執行が話しかけてきた。どうやら暇潰しのようだ。
「春ちゃんって、人の前で喋ったりするの得意?」
「得意と思うか?」とヘッドフォンを指さす。「だよねぇ」
弁論大会の話がしたいのだろう、と考えた春泉は、耳に髪をかけ直して覗き込む執行の顔を真っ直ぐ見返した。
色素の薄い長髪の左側だけが、ダランと茶色のビロードを被っているように垂れていた。
「まあ、そういう面倒なのは、出来る奴に任せるよ」
両手を上に向けて上下させる。
我ながらスカした仕草ではあったものの、誰も突っ込んだりしないから、最近は当たり前のようにしてしまっている。
その言葉を耳にした執行は薄い反応を示しながら、時計の針を見てから席に戻っていった。
どうやら、本当に暇潰しだったみたいだ。
数分後チャイムが鳴って、鹿目川が教室に入ってきた。身長の高い彼女が教室に入るとき、頭がドア枠にぶつからないかどうか、いつも不安になる。
右耳に髪をかけ、左側の耳がすっかり隠れているヘアスタイルは、執行と鏡写しになっているようだ。そんな鹿目川は、垂れ下がった眼尻をほんの少し吊り上げて、真剣そうな顔つきになると、授業を開始した。
彼女が授業を担当するときは、他の教師の授業に比べて騒がしかった。親しみ深い教師、と言えば聞こえは良いが、とどのつまり舐められているというわけだ。
始業して直ぐ、プリントが配られる。紙面には弁論大会について、というタイトルが表記されていた。
その内容に目を通す。記載されている全文を読み終える前に、春泉はすっかり嫌気が差して苦々しい顔つきになっていた。
「ふざけんな」
周囲の反応を見るに、心の中だけで発したつもりの言葉は、思い切り声に出てしまっていたらしい。
だが、別にそうだとしても一向に構わない。それぐらい腸は煮えくり返っていた。
頭の中が、ぐるぐるとわけの分からない感覚に支配されてしまう。
一般的に怒りとも、苛立ちとも呼ばれる感情にそっくりだったが、それとは少しだけ違っていたようにも思えた。
胸の奥、心臓辺りか、それとも熱気を吐き出す肺辺りかが、焼け付くように熱くなる。
徐々に冷静さを欠いていく神経の一本一本が、縮れたセーターの毛玉みたいに鬱陶しく脳内をかき乱す。
「あの、春泉さん…」
「これはどういう了見ですかねぇ、先生」加速を促す自分の右側が、勝手に喋りだした。「私は、何一つ聞いてませんけど」
クラス中にざわめきが広がる。
ここに転校してきてから、比較的穏やかな様子を見せ続けていた水面が、酷く大きな波紋を立たせていた。
その投じられた一石とも呼べるプリントをつまみ上げて、もう一度春泉が声を大きくして尋ねた。
「何で私がクラスの代表にならなきゃいけないんですか。こういうのって、希望者を募ったり、推薦したり、少なくとも話し合いの上に決定されるものなんじゃないんですかね」
鹿目川は困惑したような表情をして言葉を詰まらせていたが、こうなることが予測できなかったとは言わせない。
むしろ、こちらが両手を上げて賛成する未来が、その目蓋の裏に想像できていたのだとしたら、逆に感心するというものだ。
プリントには、冗談みたいな事が書いてあった。
無論、冗談だとしても笑えないし、本気だとしても正気を疑うような内容だ。
弁論大会の代表者の欄には、春泉理音の名前が打ち込まれており、その弁論タイトルまでもが勝手に決められていた。
「百歩譲って、いや、千歩譲って私を代表にしてんのは良いです、良くないですけど、そんなことはもうどうでもいい」
「春泉さん、冷静に、ね?」猫撫で声が、かえって春泉の神経を逆撫でする。
「何ですかこの仮タイトル、『私と向き合う』ってのは」
「えっとね、それはね」
「いやぁ結構です、もう分かってます。何で私が選ばれたのか、このタイトルが全部物語っていますから」
即座に鹿目川の弁解を遮り、つらつらと怒りのまま話を続ける。
「その上で聞きたいんですが、何なんですかコレは?前口上はいりません、率直でオブラートなんて破り捨てた解答をお願いします」
荒くなっていた息を、深呼吸してどうにか落ち着けようと試みるが、あまり効果はない。
自分にその勇気があれば、目の前の机を蹴り倒して、所構わず喚き散らしているだろう。
それを勇気と呼ぶか、議論の余地があると自分でも分かっているが。
鹿目川は逡巡するような、狼狽えるような様子を見せると、視線を幾度か虚空と春泉の間を行き来させてから、諦めたように深くため息を吐いた。
その辟易したような態度に、いっそう腹が立つ。
そうしたいのは自分のほうなのだと、春泉は歯ぎしりして担任の言葉を待った。
「今回の弁論大会は、福祉についてのお題にすると学校側で決められたの」鹿目川は右手で黒い前髪をかき上げて、疲れたような口調で続けた。「それで、申し訳ないけど春泉さんが適任かな、と思って」
「適任かな…って」
勘弁しろよとか、自分をダシに使うつもりかよとか、とにかくありとあらゆる否定の言葉、あるいは怒りの鉄槌を叩きつける言葉が頭の中に浮かんだが、それを口にするよりも先に、クラスメイトの一人が声を発した。
「少し、傲慢が過ぎませんか」
聞き覚えのあるクリアーな声に、滅茶苦茶になっていた頭が幾分か整理される。
執行の声だ。だが、いつものふざけた口調ではない。
「春泉さんがイエスと言わない限りは、それを強要するのは無理があると思います」
誰だお前、と皮肉った笑いを浮かべてしまうほど、ハッキリとしたアクセントで声を発する執行に、非常に怜悧な印象を受ける。
「はい、それはもちろんそうです。ただ、春泉さん」
不意に名前を呼ばれて顔を上げる。
毅然とした口調だったため、一瞬誰が喋っていたのか分からなくなったが、当然、鹿目川である。
「春泉さんとは、転校して来られたときに約束をしたはずです」
「約束…?」
そんな覚えはない。
…いや、待てよ、もしかして、『理解してもらう努力』の話をしているのか?
「それとこれとは、話が違いますよ」
「違いますか?」どうしてか途端に自信満々な鹿目川に、思わず言葉が詰まった。
「そんなこと、言われたって…」
無理なものは無理だ。
弁論大会なんてなったら、きっとマイクも使う。
自慢じゃないが人前で何かするなんて、臆病者の自分には向いていない。
極度の緊張状態で、万が一、マイクがハウリングしようものなら本当に倒れかねない。
だが、それについて春泉が確認しても、徹底した配慮を行うし、ヘッドフォンを装着した状態で構わないとさらりとかわされてしまった。
ネックなのは強要することだが、それについては確かに彼女の言う『約束』が適用されないとも言い難い。
元々無理を言って転校させてもらった身だ、協力するのが妥当なのかもしれない。
次第に逃げ場を失いつつあった春泉へ鹿目川は、「とりあえず考えてみてください」と告げて話を打ち切ると、ほぼ無理やり進路のことへと話題を切り替えていった。
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