嵐の予兆が聞こえる。 1
『~さん』って、いつの間にか外されてますけど、
外す側は、初めは緊張しているはずですよね。
どうでもいいことに触れましたが、
どうぞ、お楽しみください!
2月の暮れに、その日は来た。
今思えば、その日は嵐が上陸する予兆のような一日だったわけだが、当時の自分はそれには気づけず、ただのうのうと校舎へ向かう坂道を上っているところだった。
「おはよう、春泉」
不意に後ろから声をかけられたが、特段驚くことはなかった。大体この時間、知り合いの一人や二人からは挨拶される。自分の場合、その最大数が四、五人だった。
今日はお前か、と内心呟きながら、隣に並んだ顔を横目で覗いた。
柊の白い頬が、2月最後の強い寒さで赤くなっている。彼女の首元から甘ったるい香りが漂ってくるが別に不快じゃない。
すらりと伸びた四肢を規則正しく動かして前に進む姿は、ほとんど成熟した大人の女性と言っても差し支えない。少なくとも、自分とは対極に存在する生き物だ。
「うす」
「うす、って…。貴方はもうちょっと、上品な会話の仕方を身に着けたほうがいいと思うわ。私が教えましょうか?」
誰よりも品のない凶暴性を秘めているくせに、と物言いたげに柊のほうを睨みつける。
「そいつは素敵な提案だ。椅子の蹴り方でも教えてくれんのか?」
「何のことかしら?とにかく、そういう男口調は似合わないわよ」
「へぇへぇ」
「返事もそうねぇ、『うん』とか可愛く言ってみてはどうかしら?」
春泉の真似のつもりか、返事の部分だけ、やたらと高い声だった。
「くそが」少し前の自分の発言を掘り返され、悪態を吐く。
朝から口うるさい柊に辟易としながらも、適当な相槌を返して昇降口へと入る。
時に楽園として、時に監獄として描かれることの多い、灰色のコンクリートが固まってできた化け物の体内。その入口には、のんびりと登校するタイプの生徒でいっぱいになっていた。
「珍しいわね、この時間帯に人が多いなんて」
「啓蟄が近いからじゃねえか」
「けいちつ?」上履きを取り出しながら柊が尋ねる。「冬ごもりしていた虫が出てくる季節ってことだよ」
「ふぅん」
「あれ、生徒会長様は二十四節気をご存じない?」
「はいはい。どうでもいいけど、同じ学校の人間を、虫に例えないの」
春泉の鼻先を指で弾いた柊は、小動物のような悲鳴を上げた相手に、満足そうに鼻を鳴らすと靴を履き替えて廊下へと上がった。
しかし、そこで柊は足を止めてしまい、それに気が付かなかった春泉は、彼女のピンと張った大きい背中に鼻からぶつかってしまう。
「おい、急に止まんなよ」
急に立ち止まったことへの不平不満を漏らしたのだが、すぐに彼女が見ている先に人だかりができているのを捉えて、猫のような目を丸くした春泉が呟いた。
「…なぁ、今日何かあったか?」
その問いに対して、柊が軽く首を振って応える。
生徒会長様である柊が知らないのであれば、学校行事で集まっているわけではなさそうだ。
「ちょっと見てくるから、ここにいて」とこちらを振り向き告げた柊に、片手を上げる。
「おう、長くなるなら先に行くからな」
そうして柊は、人だかりができているほうへと歩いて行った。
いつ見ても、優雅な立ち居振る舞いだ。
英才教育でも受けていたのかと不思議に思って尋ねたことがあったが、そんなことはないらしい。むしろ、母親は小さい頃に亡くなって、父と弟二人、柊の四人家族で慎ましく暮らしていると話してくれた。
幼くして一人暮らしをしている冬原と、家を飛び出るようにして同じ道を選んだ自分。
執行については知らないが、家族というものの形は思いのほか、多種多様な生態を示すらしかった。
人混みの中でも頭一つ抜け出ている柊に、同じ学年の生徒らしき人間が喋りかけているのが見えて、人に慕われてはいるようだ、と彼女の外面の良さを評価する。
まあ、本性は結構凶暴な奴だが、根は悪い奴ではない、と春泉は勝手に判断していた。
今だってきっと、人だかりが生み出すノイズを気にして、自分には待っているよう指示したのだろう。
冬原だけがいればいいのだ、と告げた柊を思い出す。
春泉の口元に、ふっと呆れたような、だがどこか満更でもないような笑みが漏れる。
色々とお節介な奴が、この学校には多すぎる。
気がつけば、『さん』という敬称もなくなっているし。
視線を、お節介3号のほうへと向ける。彼女が立ち止まっている辺り、すなわち人だかりができている場所は、確か掲示物が貼り出されている場所のはずだ。
学校の行事案内や、生徒会新聞…。
とにかく、普段は誰も全く気にもかけないような掲示物が貼ってある。それなのに、みんなは一体、何をそんなに一生懸命見ているのだろうか。
考え事をしているうちに、柊が踵を返して戻って来ていた。
どうだった、とこちらが尋ねる前に、彼女が渋い顔をして口を開く。
「先生たちへの誹謗中傷の貼り紙よ、馬鹿馬鹿しい」
忌々しそうに吐き捨てた言葉に、この学校でもそんな暇人がいるのだな、と妙にテンションが上ってくる。
「へぇ、センスの良いやつだったか?」じろり、と睨まれる。こういう冗談は通じない奴だ。「そんなの欠片もないわ」
きっと本当にそのとおりだったのだろう、柊の表情はずっと曇ったままだ。
それもそうか、彼女は紛いなりにもこの学校の生徒代表、生徒会長なのだ。
冬原さえいればいいと口にした彼女が、どれほどこの学校に愛着を持っているのかは知らないが、責任感は人並み以上にありそうだから、多少は真剣に問題視しているのだろう。
階段を上がって、教室へと向かう。その途中で、後ろから冬原が追いついてきて声をかけてるが、彼女はどうやら貼り紙を見ていないらしかった。
「そうなんだ…嫌な話」冬原が眉をひそめる。
「おい柊、愛しの夕陽ちゃんが悲しんでるぞ」
こちらの軽口に、柊がムッと口を固く結ぶ。
どうやら冬原の名前を出すと、柊の生の感情を引きずり出せるようだった。それが面白くて、つい執拗にからかってしまう。
「なぁ夕陽ちゃん?慰めてもらえよ」
「もう、春泉。何で私までからかうの?蝶華だけにして」
「柊は別にからかってもいいのかよ…」
苦笑いを浮かべていると、その柊が口を尖らせたまま教室の扉を開けて言った。
「…夕陽って呼ばないで」
「は?」
耳が真っ赤になった状態でツカツカと自分たちから離れていく柊を、口元を緩ませた冬原が追っていく。
すっかり自分のことなど忘れられてしまったようで、少し不服である。
「特別は自分だけってか…」と片眉だけ下げて、口元を曲げる。
距離が離れたので、今の調整じゃ二人の会話が聞こえない。ただ、その表情を見るに、冬原が柊をからかっているようであった。
必死に何か言い返しているも、どこか嬉しそうな柊に、口元に手を当てて幸せそうに笑う冬原。
二人を見ていると、まるで自分が二人の物語を引き立てる下らない役回りを演じさせられているようで寒気がする。
「あほくさ」
机の上にバッグを放り投げるようにして置いて、久しぶりにヘッドフォンの中に音楽を流す。
たまにはジャズでも聞くか、と携帯を弄ってプレイリストを操作する。
軽快なピアノのリズムと、つま先を誘うトランペットの響きが、朝の低空飛行を続けるテンションを上向きにさせる。
普段とは違う音楽も良いものである。
かき鳴らされるロックよりも、まあ気分は落ち着く。
姦しい教室の中を何となく見渡すと、執行の姿がなかった。いつも決まって、自分たちより先に来ているので珍しいことだった。
朝のHRが始まっても、執行は姿を見せなかった。それについて担任である鹿目川は何も触れなかったので、おそらく連絡はあったのだろう。
鹿目川は初め会ったときと同様に頼りのない様子で、掲示板に貼り付けられた貼り紙について話をした。話の途中で、右耳を覆い隠す髪を何度もかき上げる仕草が、やたらと目についた。
内容としては、以下の通りである。
貼り紙には教師全体、つまりは学校全体に対しての誹謗中傷が記されており、一体誰がいつ貼り出したものかは分かっていない。心当たりがある生徒は、生徒指導の教師である玄上に連絡すること、とのことだった。
言いたいことは分かるが、結局、学校側は対処法が思いつかなかったということなのだろう。
まあ小中高と、人生でも短い期間とはいえない時を過ごす学校生活において、こういう下らないイベントは必ずあるものだろう。
そう、自分にとって歓迎できないイベントはこの後、鹿目川が口にした内容だった。
「はい、それでは今日の六限目は3月3週目に予定されている、『弁論大会』についての説明を行います。それから、進路の話も進めていきましょうね」
弁論大会。
朝のHRの間はその単語を聞いても、他人事だとタカを括っていた。
そういう面倒事は、目立ちたがりのやりたい奴か、できる奴がやってくれるだろう、と。
それよりも春泉は、進路のほうに意識が傾いていた。
自分が将来どうなりたいか、なんて、想像もできない。
そもそも、自分にその『将来』があることのほうが、どこか恐ろしかった。
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